3 水晶玉の正体
仮死維持装置の蓋――という表現が適切かどうかは疑問だが――は、白蘭が中から二、三度手で叩いただけで、音もなくゆっくりと開いた。
加熱されて口を開けた貝のようだとアレクは思ったが、同時に外に溢れ出したあの匂いを酸欠状態の魚のごとく夢中で吸いこんだ。
仮死維持装置の中は、外観に比してかなり狭かった。内側には光沢のある白い布が張られていたので、その中で横たわっている白蘭は、雪山で凍死した美女のようにも見えた。
さらに、白蘭は死装束のような白い服を着ていた。それも裾の長い、あえて言うならネグリジェのような服を。
しかし、やはりその胸は平坦だった。声ならぬ声ですでに男だとわかってはいたが、若干の落胆を覚えたことは否定できない。
白蘭は仮死維持装置の縁に左手をかけて上半身を起こそうとした。が、すぐに困ったように白い眉根を寄せた。頭の中には何の声も響いていなかったが、もしかしたらあまりにも長く動かずにいたために、体が硬直してしまっているのかもしれない。とっさにそう考えたアレクは、白蘭に背中の下に右腕を差し入れ、そのまま一気に抱き起こした。
白蘭の体は見かけよりもずっと軽かった。まさか右腕一本で抱き起こせるとは思わなくて、アレクは唖然としていた。
白蘭は白蘭で、まさか抱き起こされるとは思ってもみなかったようだ。菫色の目を丸くしてアレクを見ていた。
その視線で自分がまだ白蘭の背中――自分よりも華奢で体温も低い背中――を抱いたままでいることに気づいたアレクは、あわてて右手を離し、自分の腰の後ろに回した。
困っているようだったから助けてやりたいと思っただけで、他意は本当になかった。だが、触れる前に白蘭の許可は取るべきだったかもしれない。この状況でいきなり見も知らない人間に触られたら、たいていの人間は不快に思うだろう。
「あの……ごめん」
怒られる前に自分から謝ると、白蘭は一瞬不可解そうな顔をしてから、合点がいったように少し笑った。
『いや、助かったよ。この装置の存在は知っていたけど、試したことはなかったから。冷凍睡眠よりも蘇生率は高いとのことだったが、さすがに自分で起き上がれるようになるまでには時間がかかるようだ』
白蘭の内心はともかく、礼を言われてアレクはほっとした。と、今度は礼以外の部分が気になった。
「装置って……この棺が?」
『棺? ……ああ、そう見えなくもないか。でも、これは棺ではなくて装置だよ。君にうまく伝わるかどうか自信はないが、仮死維持装置といったところかな。文字どおり、仮死状態を維持しつづける装置。問題は、私には仮死状態に陥るような状況になった記憶はないということだ』
まだ手しかまともに動かせないようだが、頭はもう通常運転しているようだ。容姿だけでなく中身も優れているようだと知って、アレクはかつてないほど高揚した。この家に生まれてきてよかったと、このとき生まれて初めて両親に感謝した。
「じゃあ、どうしてこの中に?」
しかし、その感情は表には出さず、アレクは努めて冷静に先を促した。
子供のようにはしゃいで白蘭に引かれたくなかったというのもあったが、純粋に彼の話の内容にも興味があった。アレクは筆無精だが探求心は強い。
『わからない』
声と同じように、白蘭の玲瓏な顔も苦悩していた。装置の縁に左肘をつき、手のモデルもできそうな美しい左手で額を覆う。
『それで今、混乱しているんだ。私の記憶が確かなら、私は自分の寝台で寝ていたはずだ』
「それなら、寝ている間に仮死状態になって、誰かが……」
『そうだね。私が寝ている間に、誰かが私をこの中に入れたというのがいちばん自然だ……』
アレクにというより、自分に言い聞かせるようにそう呟いた白蘭は、ふとアレクの左手に目を留めた。
『ところで、さっきから気になっていたんだけど、君がいま左手に持っているそれは何だい?』
「え?」
まさかここでそんなことを訊かれるとは思っていなかった。一瞬あせったが、この〝部屋〟の中にいる白蘭に隠す必要はない。アレクはここに入る前からずっと持っていた水晶玉を彼の目の前に差し出した。
『これは……』
一目見た瞬間、白蘭の顔が強ばった。アレクだったら無言で奪い取っていたかもしれないが、そこはさすがに白蘭で、『ちょっとよく見せてもらってもいいだろうか』とわざわざ許可を求めてきた。もちろん、アレクは一も二もなくうなずき、白蘭が広げた両手の上に丁重に載せた。
しばらく、白蘭は何も言わずに水晶玉を撫で回していた。時間が経つごとにその表情は複雑化していく。驚愕。懐古。困惑。しいて言うなら、そのようなものが感じられたが、アレクにはテレパシー能力はなかったので、実際のところはわからなかった。
ただ、『ありがとう』と言って水晶玉を返してきたときには、すでに結論を導き出していたようだった。柳眉をひそめて黙りこんでしまった白蘭に、アレクはおそるおそる訊ねた。
「これ……何だか知っているの?」
白蘭は驚いたような目をアレクに向けた。どうやらアレクの存在を失念していたらしい。正直言って面白くなかったが、『すまない、考えるのに夢中になってしまった』と素直に謝られて、アレクの機嫌はたちまち直った。
『それはたぶん、――様が作られた〝鍵〟だと思う』
アレクの両手の中にある水晶玉を見すえながら白蘭は言った。またしても人名の部分が聞き取れなかったが、黄色い鳥が頭に浮かんだから、きっとそのような意味を持つ名前なのだろう。アレクはその天人を心の中でカナリアと命名した。
『ただ、誰でも使える〝鍵〟ではなくて、ある条件に該当した人間だけが使えるようにしてある。その条件は私には解読できないけれど……とにかく、それでここがどこだか見当はついた』
「ここ?」
思わず周囲の薄闇を見回すと、何がおかしかったのか、白蘭は口元を緩めた。
『君は知らなかったのかい? それを使ってこの中に入ってきたんだろう?』
「いや……これは一族の宝としか言い伝えられてなくて……俺はこれをいつもみたいに磨いてただけで、別にこれを使って何かをしたいなんて考えてなくて……」
アレクはしどろもどろで言い訳めいた説明をした。決して嘘はついていない。アレク自身はこの水晶玉を貴重な骨董品だとしか思っていなかったのだ。
『じゃあ、君はどうやってここに入ってきたんだい?』
意外そうに白蘭が問いを重ねる。当然の疑問だろう。アレクは事実そのままを答えた。
「部屋の中に、突然真っ黒なドアが現れたんだ。押したら開いたから、それでそのまま……」
『入ってきてしまったのかい? ずいぶん不用心だな』
白蘭は呆れたように笑った。一応、扉が閉まらないように靴を挟んできたんだと心の中で反論しかけたとき、アレクは初めて時間のことに思い至った。
――しまった。ローテーブルの上に腕時計を置いてきちまった。
アレクは家の中でも腕時計をしていたが、水晶玉を扱うときには外していた。誤って水晶玉を傷つけたりしないように。
ここに入ってから、もうどれくらい経っているだろう。父はリビングに来て、あの漆黒の扉を見つけてしまっただろうか。
『おそらくだけど、ここと君がいたところとは、時間の流れ方が違うと思うよ』
いつのまにかうつむいていたアレクは、弾かれたように顔を上げた。
白蘭が少しだけ申し訳なさそうに笑っていた。
『やっぱり、口に出してもらったほうが君の思考は読み取りやすいんだけど、今のは黙っていても私にもわかったよ。……ここは――様が亜空間に作った部屋だ。以前、話だけは聞いたことがある。何でも、時間と空間に縛られない部屋が欲しかったとか。だから、その〝鍵〟の今の所有者が君なら、君が望んだ時刻に戻ることもできるんじゃないかな』
まず何に反応すればいいのだろうとアレクは悩んだ。
口に出さない思考を、白蘭がどこまで読み取れるのかについてか。
あるいは、亜空間などという、SF小説ではありふれた概念についてか。
それとも、この水晶玉の今の所有者が自分だという指摘についてか。
『……できれば、口に出してもらえないかな。君の話す言葉は私にはわからないけれど、言いたいことはわかるから』
とりあえず、これだけ混乱していたら白蘭にはわからないようだ。
苦笑している白蘭を見て、アレクはひそかに胸を撫で下ろした。
「その……これの所有者は俺じゃないよ。たぶん、俺の父親……」
いちばん差し障りがなさそうなことを言いさすと、白蘭はさらに苦笑を深めた。
『いや、君がそれに触れているときにこの部屋の扉が現れたのなら、やはり君が今の所有者だよ。ただ……なぜ君の一族がそれを所有することになったのか、その経緯を知っているなら教えてほしい。アレク。君は天人族ではないだろう?』
そうだと答えるかわりに、アレクは目を閉じた。
本当はもうわかっていた。この水晶玉の作り主のことを知っているとわかった時点で。
この青年の羽毛のような髪はウィッグではない。髪のように見える羽毛なのだ。
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