2 水晶玉と漆黒の扉

 アレクがこの天人と会ったのは、一ヶ月ほど前のよく晴れた昼下がりのことだった。

 そのとき、アレクはこのリビングで、日課の水晶玉磨きをしていた。

 いつ磨くかは特に決めていなかったが、だいたい昼食後、父が寝室で昼寝をしている間にすることが多かった。父の前で水晶玉に触れるのは、禁じられているわけではなくても、何となく気後れする。

 その日もいつものようにソファに座り、結構な重量のある水晶玉を落とさないように注意しながら、慎重かつ丁寧に磨いていた。

 言い伝えどおりなら相当古い品のはずなのだが、この水晶玉には一点の曇りもなく、細かい傷も一つもなかった。さすが一族の宝である。それだけでも毎日磨く価値がある。

 水晶玉を磨く時刻同様、磨く時間の長さもまた一定していなかった。あえて言うなら、アレクの気が済むまで。だから、このときもどれくらい磨いていたのかわからないのだが、ふと水晶玉の中の羽根が白く光った気がして、布を動かす手を止めた。

 窓のほうに正面を向けて磨いてはいたが、位置的に水晶が陽光を反射したとは考えられない。水晶玉を左手で掲げて目線を上げた、そのときアレクの視界にそれが入った。

 一瞬、アレクは今自分がどこにいるのかわからなくなった。

 そこにあったのは、いつでも世界樹が見える窓ではなく、漆黒の大きな両開きの扉だったからだ。

 あわてて背後を振り返れば、見慣れたリビングの片開きの扉があった。ということは、ここはリビングの中ではあるらしい。アレクは改めて漆黒の扉に向き直った。

 アレクの前にはローテーブルがあったが、漆黒の扉はそのさらに先、ちょうど窓を覆うようにそびえ立っていた。

 しかし、アレクがいちばん驚いたのは、窓の前に立っているのにもかかわらず、その扉の影は部屋のどこにも落ちていなかったことだった。


 ――この扉は幻覚なのではないか。


 いつもの冷静さを取り戻したアレクはまずそう考えた。原因に心当たりはまったくないが、あれが実体というよりは説得力がある。

 幻覚ならいつかは消えるだろう。アレクはしばらく待ってみたが、扉はいっこうに消え去ってくれなかった。


 ――まさか……幻覚じゃない?


 もともと好奇心は強い。アレクは水晶玉を持ったまま――どうしても手放す気にはなれなかった――ソファから立ち上がり、ローテーブルを迂回して、おそるおそるその扉の前に立った。

 高さは二メートル弱。横幅は一・五メートル強。近くで見ると、おそらく黒檀製と思われる扉だけでなく、金属製の漆黒のドアノブにも、幾何学模様の彫刻が施されていた。

 後ろにも回ってみたが、そこも前と同じ造りになっていた。横の厚さは十センチメートルくらい。彫刻はそこにも彫られていた。

 まるでどこかの古城から取り外してきたかのような重厚な扉である。開けてみたいとアレクは強く思った。だが、正体不明の扉である。開けるどころか触れただけで、取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。

 しかし、アレクは父にこの扉を見せようとはまったく考えなかった。というより、父のことなど頭から吹き飛んでいた。ただこの扉を開けるか否か、それだけを悩んでいた。


 ――いや。もしかしたら、やっぱり幻覚かも。


 幻覚なら触れることはできないだろう。右手を伸ばし、そっと扉に触れてみた、その瞬間。

 左手に持っていた水晶玉が太陽のような白光を発した。思わず目を閉じて扉を強く押してしまう。扉はカチリと音を立てて前方に動いた。アレクは驚いて目を開いた。

 水晶玉はもう光ってはいなかった。だが、漆黒の扉は依然としてアレクの前にあり、アレクが押した右の扉――扉自身にとっては左だが――は、やはり内側に下がっていた。ドアノブにはまったく触れていなかったのに。

 ここまで来たらもう後戻りはできない。アレクは覚悟を決めると、まずスニーカーを脱いで扉の隙間に挟みこんだ。中に入ったとたん、この扉が閉まって、元のリビングに戻れなくなることを恐れたのだ。年齢に合わず、アレクは用心深かった。知り合いたちだけでなく、父にもおまえは本当に十三歳なのかとよく言われる。

 いざというときのドアストッパーを仕掛けてから、アレクは右の扉を大きく押し開き、ようやくまともに中を見た。

 リビングから入る光で、扉近くは何があるのかわかったが――正方形をした黒い床石が隙間なく並べられていた――その先は闇に閉ざされていた。

 この可能性は予見していなかった。懐中電灯でも用意してから出直せばよかったかとアレクは後悔したが、まさにその思いを読み取ったかのように、急に闇が晴れた。

 それは間接照明の淡い光によく似ていた。しかし、その仕様からすると、間接照明とは言いがたかった。

 まるでアレクを導くように一定の間隔を置いて並んでいたそれらは、光そのものが球状になって空中に浮かんでいるように見えた。だが、その仕組みについて考察することはアレクは放棄した。羽根の入った水晶玉を作ることもできるのだ。そんなことができても不思議ではない。

 ここは〝部屋〟なのだとアレクは思った。いったい何がきっかけになったのかは、これまたさっぱりわからなかったが、とにかくこの日この時間、アレクはこの〝部屋〟に入る資格を得たのだった。

 宙に浮かぶ光は淡すぎて、〝部屋〟の広さを把握する役には立たなかった。が、室温はリビングより若干低い程度で、牢獄を思わせる雰囲気に反し、悪臭はいっさいしなかった。むしろ、かすかに花のようなかぐわしい香りさえした。

 アレクはいったん振り返り、自分の目論見どおり扉が閉まっていないことを確認してから、両手で水晶玉を握りしめ、黒い靴下を履いた足で、まっすぐ前に向かって歩き出した。

 アレクが歩を進めるたび、前方にまた光が現れる。一度後方を顧みたが、アレクが通った後の光は消えていて、わずかにリビングから入る光だけが見えた。

 このまま進んだら、その光もまた見えなくなるかもしれない。しかし、このときにはもうそんなことはどうでもよくなっていた。自分は何があってもこの先に進まなければならない。何の根拠もなくそう思いこんでいた。

 例の香りは少しずつ強まっていた。何かはわからないが、アレクにとってはとても心地よい匂いだった。とりあえず、首都の女が撒き散らかしていた香水の匂いとは比較にもならない。

 いったいどれくらい歩いただろうか。

 ふと床から目を上げると、あの淡い光が複数、前方で固まって浮いていた。映像でしか見たことはないが、蛍の群れが木の枝に留まって光っているかのようだった。

 だが、アレクはすぐにその光の下にあるものに気がついて息を呑んだ。まさかそれがここにあるとは夢にも思わなかった。

 それはアレクには棺に見えた。宙にある光より白みは強かったが、やはり闇の中でぼんやりと光っていた。


 ――ついさっきまで何もなかったはずなのに。


 反射的にそう思ったが、ここでは何があってもおかしくはない。アレクは苦笑いして、その棺らしきものに歩み寄った。

 全長は約二メートル。どんな材質で作られているのか、滑らかな流線形をしていて、アレクはスポーツ競技に使うそりを連想した。しかし、そりで言うなら後方部分を覗きこんだとき、たぶん、心臓が一時停止した。

 棺のようだと思ったのは決して間違いではなかった。後方部分にはまるで覗き窓のように透明になっている箇所があった。アレクは無意識のうちに床に両膝をつき、そこから見えるものを少しでも近くで見ようとした。

 まるで精緻な蝋人形のようだった。わずかに赤みを帯びた唇以外、長めの髪も睫も肌も雪のように白い。

 よく見れば、髪は羽毛のような形状をしていた。もしかしたらウィッグかもしれない。それでも、この死体が性別も特定できないほど美しいことに変わりはなかった。

 アレクは魅入られたように見つめつづけた。だが、動くはずのない睫がかすかに動いたと思ったとき、はっと正気に返った。


 ――ひょっとして……生きてる?


 後から知ったことだが、このときにはこの棺――仮死維持装置の解除システムが作動していたらしい。アレクが装置に手を置いたとき、その瞼がゆっくりと開かれたのは、単なる偶然だった。


 ――紫水晶だ。


 一目見てそう思った。これほど美しい色をした瞳を見たのも、このときが初めてだった。

 その目はしばらく宙を眺めていた。寝ぼけていたのかもしれない。が、食い入るように自分を見ているアレクに気がつくと、今度は大きく瞠目した。

 そのとき、アレクの頭の中で、誰かの声が反響した。

 若い男の声だということはわかったが、何と言っているのかはわからなかった。

 ただ、血のように赤い太陽のイメージが、フラッシュバックのように浮かんで消えていった。


『……誰?』


 アレクが困惑していると、同じ声がまた頭の中でした。あわてて周囲を見回したが、見える範囲内に人間はいない。この棺の中にいる人物を除いては。


 ――まさか。


 棺の中に視線を戻すと、向こうも困惑しているようだった。謎の声と同じように。


「ア……アレク・ガードナー……」


 とりあえず自分の名前を答えたが、相手はなぜか信じられないような顔をした。

 知りたかったのは名前ではなかったのか。しかし、名前以外に何を言えと。


『すまない。君があまりにも似ていたから、つい』


 アレクは棺の中の白い佳人を凝視した。申し訳なさそうに眉尻を下げている。ここまで来たら認めざるを得なかった。頭の中で響くこの声を発しているのは〝彼〟なのだと。


『改めて、はじめまして。私の名前は――』


 まただ。名乗っているのに、言葉にならない。

 だが、先ほどの太陽のように、白い蘭が頭に浮かんだ。


「……白蘭はくらん?」


 見えたイメージをそのまま口に出すと、彼は満足げに微笑んでうなずいた。

 彼――白蘭があの天人族だったとは、このときには想像だにしていなかったが、少なくとも人間ではないだろうとアレクは思っていた。

 自分と同じ人間だったら、これほど美しいはずがない――

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