【完結】堕天の末裔

邦幸恵紀

第1部 堕天の末裔

1 世界樹と水晶玉

 その巨木は、世界樹と呼ばれていた。

 高さは約八千メートル。幹の直径は最大で約二百メートル。枝葉まで含めると、横幅は最大で約三千メートルにも及ぶ。

 しかし、それ以上のことは人間にはわからない。世界樹の根元は険しい山々に囲まれていた上、世界樹を中心にして半径約十キロメートルの位置には、人間の目には見えない障壁のようなものが張り巡らされていた。

 目には見えないのになぜそうとわかったのかと言えば、その障壁に触れたものは、生物なら肉塊に、機械なら鉄屑に、一瞬にして変えられてしまったからだ。人間はその障壁の外から世界樹を観察するより他はなかった。


 この世界樹がいつからこの地にあったのかは誰も知らない。世界最古と言われる今から四千年以上前の石版にも、いつからあるのかわからないと記されているというから、少なくとも四千年以上前からあったのだろう。

 アレクの一族がいつからこの地に住み着いて、少しでも近くから世界樹を見たいという物好きな人々を案内することを生業としだしたのかもまたわからない。アレクの先祖はアレクと同じく筆無精だったようだ。

 他国の文献によると、少なくとも千年前には住んでいて、あの世界樹にうかつに近づいてはならないと警告していたようである。もっとも、いつの時代でもその警告を無視する人間はいて、みな例外なく肉塊と化していたが。


 そのようなわけで、アレクにとって世界樹とは馴染み深いものではあったが、好ましいと思えるものではなかった。

 形状は樅によく似ている。だが、その幹も枝も葉も、まるで塗装スプレーでも吹きつけられたかのように、不気味な薄紫色をしていた。

 あれは樹ではないのかもしれない。以前から漠然とそう思っていたが、その感覚は正しかった。あれは樹の形をした装置だった。

 しかし、自称・世界樹研究家であるアレクの父は、世界樹はあくまで樹だと固く信じている。何とかあの障壁を突破して、世界樹を直接調査したいと思っているが、その夢が叶う日はたぶん一生来ないだろう。


 その父は今朝、毎夏首都で開催される世界樹学会に参加するため、本人いわく研究所であるこの自宅を発った。世界樹に面した山の中腹にあるこの家は、外観は確かに白壁の研究所風である。ただし、研究所にしては窓が大きく、数も多い。その理由は言わずもがなだろう。

 父の帰宅予定は六日後。三年前まではアレクも同行していたが、二年前からは一人で留守番をしている。

 祖父母はすでに亡い。父とアレクは彼らが残した遺産を切り崩して生活している。母は世界樹を見にきた観光客だったそうだが、アレクが二歳のときに病死した。そのため、彼女に関するアレクの記憶は非常に希薄である。写真を見てもまったく似ていないので、本当にこの女性が自分の母親なのだろうかという疑念さえ抱いている。だが、アレクは父とも似ていなかった。アレクは髪も瞳も緋色をしていたが――アレクの一族では、時々こんな人間が現れる――父も母もありふれた茶髪茶眼だった。


 アレクの一族は、世界樹を取り囲むように、東西南北の集落に分かれて住んでいる。アレクが住んでいる西区は、今年十四歳になる少年一人でも安心して留守居ができるほど、近所づきあいは密である。決して閉鎖的というわけでもないのだが、アレクの母のように、外部から来た人間は総じて早死にしてしまうところを見ると、この土地には一族の血を引く者にしか耐えられない何かがあるのかもしれない。

 西区にも学校はあるのだが――ただし、初等・中等・高等と同じ敷地内にある――アレクはほんの少し初等学校に通っただけで、あとは自宅で通信教育を受け、十二歳のときにはもう大学の入学資格も取得してしまっていた。アレクには西区の教育レベルは低すぎたのだ。

 父や周囲はアレクに進学することを勧めたが――何しろ、無料で学ばせてくれる大学には事欠かなかった――知り合いのいない土地で暮らすのは、年齢的にまだ不安があると先延ばしした。

 しかし、それは建前にすぎない。我ながら不思議なのだが、世界樹以外に見るべきものはなく、その世界樹も不気味に思っていたのに、アレクはこの土地を離れたくなかったのだ。

 ちなみに、この土地に住む人間たちにはいっさい関心がない。もちろん、そのことを勘づかれないように、適度に愛想を売り、適度に交流していたが。父が世界樹にしか興味がない変人だったのも好都合だった。近所の人間には父親があれでかわいそうにとアレクは同情されている。


 実際、父が完全に不在の五日間は、アレクにとってバカンスにも等しかった。定時に世界樹の観察記録はつけなければならないが、それ以外は自分の好きなようにできる。自分の好きな時間に起き、自分の好きなものを好きなときに好きなだけ食べ、自分の好きなことを好きなだけして、自分の好きなときに好きなだけ眠ることができる。

 さらに、今年は特別だった。あふれる喜びを抑えきれなくて、にやつきながら自分の両手の中にあるものに目を落とす。


 直径約八センチメートルの水晶玉。だが、その中央には白い羽根が一枚入っている。


 これは普段、リビングにある古びたチェストの上に置かれた木箱――中には薄紫色をしたクッションが敷きつめられている――の中に収められている。近郊の空港から飛行機に乗るために、父が古い小型車を運転して去っていくのを窓から見届けた後、真っ先に手に取った。玄関はその前に抜け目なく施錠していた。

 父は世界樹には異常なほどの執着を見せているが、一族の宝ともいうべきこの水晶玉にはほとんど興味を持っていなかった。他家だったらたぶん金庫の中に大切にしまいこんでいただろう。

 もっとも、父がこの水晶玉をリビングに放置しているのは、これが盗まれることはないとわかっているからでもある。

 正確には、盗まれても手元に戻ってくる――そうだ。実験好きなアレクもさすがに試したことはないのだが、一族の言い伝えによると、この水晶玉は一族の中から自ら主を選ぶそうで、その主のいる家に勝手に移動して居着くのだという。

 しかし、これを所持しているからと言って、たとえば区長や族長になれるなどといった特権はない。しいて言うなら、自分たちは間違いなく一族の者だと主張できるくらいだ。アレクの家には曾祖父の代からあるという。盗まれたことはたぶんない。曾祖父たちが嘘をついていなければ。


 この水晶玉もあの世界樹と同様、いつからこの世界にあるのか不明だった。どのような技術を用いて羽根を入れたのかもわからない。

 アレクは父とは逆に、この水晶玉のほうに興味があった。できるものなら専門機関に持ちこんで、本当に水晶かどうかから徹底的に調べたかったくらい。だが、この一族の宝は、外部の人間には決して見せてはならないとされていた。それは正しい判断だとアレクも思う。主の元に勝手に戻ってくるというのが事実なら、余計な騒動まで巻き起こしかねない。


 アレクが自分で決めた日課の一つは、一日一回、この水晶玉を木箱の中から取り出し、柔らかい布で丁寧に磨き上げることだった。本当は自分の部屋に持っていってずっと眺めていたかったが、主は一応父ということになっていた。アレクが占有することはできない。

 しかし、今のアレクはその日課を果たすためにこれを手にしたわけではなかった。表情を引きしめて、水晶玉の中の白い羽根を凝視する。

 本来は念じるだけでいいらしい。だが、それはアレクには難しかった。たぶん、雑念が多すぎるのだろう。試行錯誤の末、アレクは魔法の呪文のように言葉にして唱えることにした。


「扉よ、開け」


 声変わりしつつある声で、独り言のように水晶玉に命じる。現実主義者のアレクには、仰々しい呪文は考えられなかったし、その必要も感じられなかった。第一、誰にも聞かれていなくても、口に出すこと自体が恥ずかしい。

 数秒の間を置いて、アレクの前方、ちょうど世界樹が見える窓の前の空間が陽炎のように揺らぎはじめた。カメラの焦点が絞られるように何かが姿を現す。


「今日はこれか」


 それが完全に顕現したとき、アレクは思わず呟いた。

 どうやら、その時々のアレクの精神状態によって、出現方法や形が変わるらしい。とりあえず、これまで同じものが出現したことは一度もなかった。

 今日はなぜか、片開きの白い木製のドアだった。ドアノブはけばけばしい金色。この家にはまったく似つかわしくないセレブなドアだ。

 どうして今日はこんなのなんだろうと思いつつも、アレクは左手で水晶玉を抱えこみ、右手でそのドアを三回ノックした。

 こちらにこれが現れると、あちらにも同じものが現れるらしいのだが、いつでも気づいてもらえるとは限らない。それに、ノックなしでいきなりドアを開けたら、やはり失礼だと思う。もしかしたら、アレクには見られたくないことをしているかもしれないし。

 今日もまたそんなことを考えていると、目の前のドアがカチリと音を立てて薄く開いた。

 理屈はさっぱりわからないが、このドア越しに会話はできない。ゆえに、この中にいる人物は、アレクに入れと告げることもできないのだ。


『やあ、アレク。父君はもう出かけられたのかい?』


 頭の中で響く音のない声。

 鼓膜を震わせる声ではないのに、なぜか若い男のものだとわかる。理屈はやはりわからない。むしろ、理屈で説明できることのほうがこの世界には少ないのかもしれない。この人物を知ってから、アレクは強くそう思うようになった。

 白い扉の陰からくすくすと笑う白い人。身につけているのが父のお下がりである白いワイシャツとベージュのチノパンでも、その美しさはいささかも減じていない。

 神話上の生物として語られてきた天人てんじん族の、おそらくは最後の生き残り。名乗られた名前はどうしても音声化できなかったが、頭に浮かんだ映像は純白の蘭の花だった。

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