最果ての迷宮と魂の迷い仔

埴輪庭(はにわば)

最果ての迷宮と沼川京介

 じゅるっ

 ぐチゃグチゃぐチャ



 暗い石畳に一人の男が蹲り、何かを貪る音が響く。髪の毛は白髪混じりで、ボロボロになった布の服。薄汚れた肌、その姿はさながら食屍鬼のようであった。

 男の脇には年代物とおもわれる錆付いた剣が放り出されている。


 その手に持つモノは何であろうか?

 赤黒い液体が滴り落ち、質感はぬらぬらと油でてかっていて


 何かを貪りつくし、赤い液体で汚れた手をぼんやり眺めつつ彼は想う。


 ――嗚呼俺は


 長い月日の間に思考は鈍り、彼の頭は常に霞掛かっている。

 それでも彼は想うのだ。


 ――嗚呼、俺は、なぜ


 ぽろりぽろりと涙が零れる。

 これを食べた後はいつもそうだった。


 その時、背後から影が忍び寄る。


 ヒュンッという風斬り音がするやいなや、人影がぐらりと揺れ、豚のような様相をした頭部が床に転り落ちる。

 京介の手にはいつのまにか錆付いた剣が握られており、その先端からは血が滴り落ちていた。


 豚人間はオークという強靭なタフネスと膂力を備えている亜人種の魔物だ。

 豚と侮る勿れ、個体にもよるが脅威は大きく、オーク一体で歴戦の戦士5人分の実力があるとされている。

 槍でついても剣で切り裂いても、炎の魔法で焼いても、その分厚い脂肪と鍛えられた筋肉が受け止めてしまう。

 それに加え、その腕力は凄まじく、鉄の鎧ですら殴り壊してしまう。

 上位種と呼ばれる個体になると武器や魔法まで使ってくるため、その危険度は跳ね上がる。


 古来、オークの上位種に率いられた軍勢が小国を攻め滅ぼしたというような事件が、歴史を紐解けば数多く散見されるほどだ。

 彼が一刀の元に殺害したオークは上位種というわけではないが、それでも侮ってはならない存在である。


 そんな存在を抜刀一閃で殺してしまう彼は果たして何者なのだろうか?

 そう思わせるほどに凄絶な力量を示した彼であったが、彼は別に伝説の勇者でも英雄でもなんでもない。

 特別な血筋というわけでもないし、英気溢れた天才というわけでもない。


 彼の名前は沼川京介と言った。日本人だ。

 とはいえ彼はこの世界に来てからその名を誰かに告げた事は無いが。


 ここは最果ての迷宮と呼ばれる場所。

 数多の冒険者達を飲み込んで来た魔窟。

 世界に迷宮は多々あれど、この迷宮ほどに深く冥い場所は存在しない。


 地の獄まで続くのではないかと思われるほどの深淵、広大な領域。

 数多の冒険者が最果てのいや果てを見定めんと挑み、その命を散らしていく。

 この迷宮には天国は無くても地獄はあるのだ。


 そんな魔窟に京介が墜ちてからもう2年が経とうとしていた。


 なぜ彼はこんな所にいるのか。

 2年前、彼に一体何が起こったのであろうか?


 ◆◆◆


 2年前・都内、某所



 ――朝だ!



 がばっと布団を跳ね除け、京介は飛び起きる。

 窓をがらっと空けて外を見ると、雲ひとつのない青空が広がっていた。

 今日は1月12日、月曜日。成人の日。


 この日は友人達と一緒に成人式へいく予定があったのだ。

 どたばたと準備を整え、バッグを持って階下へと急ぐ。


「母さん、飯できてる??」


 京介の声を聞いた母の加奈子はかるくため息をついた。

「あのねぇ、朝はおはようくらい言いなさいな」

「はいはいはーい!おはよう!飯まだ?」


 そんな何の変哲もない朝の一幕だ。


 掻きこむように朝食を詰め込む京介に加奈子は注意をするものの、成人式という「祭り」を迎えた京介の耳には届かない。

 加奈子はやれやれという様子で台所に戻り、朝食の後片付けを始める。


「帰りは何時くらいになるの?」

「んー、夕方までには帰ってくるよ!式がおわったら友達とカラオケ行く約束があってさー」

「余り遅くならないようにね」

「わかってるよ!」


『遅くならないように』

 後日、この母の台詞を思い出した京介は苦い笑みを浮かべた。


 食事を済ませ、家を出る。

「じゃあいってきまーす!」


 台所で母がいってらっしゃいと言うのを聞き、京介は外へと出た。

 時間は午前9時半。友人とは10時半に駅前で待ち合わせだ。

 京介の自宅はやや駅から離れており、徒歩で20分前後掛かる。

 自転車は持っておらず、免許もない京介は駅にいくときは毎回徒歩だ。


 そして駅までの道中、京介は妙な黒いモノを見つける。

 それはなんというのか、空間に染み付いた黒い染みのようなものに見えた。

 穴ではない。霧でもない、なんとも名状しがたいそれは静電気のようなパチパチという音を立てながら目の前の空間を漂っていた。


 京介はつかの間目を奪われるがすぐに正気を取り戻す。


 ――これは一体なんだろう?


 疑問におもうが、映画などのように触れてみようとはおもわない。

 明らかに異常な現象であるし、京介も人並みの危機意識は持っているのだ。

 なんとなくスマホを取り出し、写真を撮ってみようとおもった。


 ――シャベッターにあげるか


 カメラを起動させ、それをファインダーに捉える。


 ところで、神隠しという言葉が日本には存在する。

 端的に言えば人が突然消えてしまう現象の事だ。

 日本だけでなく世界のあちらこちらで似たような話を聞く事ができる。それは事実として起こり得るのだろうか?

 単なる与太話なのだろうか?


 いずれにしても我々の多くはそのような事は経験した事がないし、神隠しとはこれこれこういう現象であると断言できるものはそう多くないだろう。


 京介はなんだか意識が遠くなってくるような感覚を覚えた。

 例えていうなら眩暈だ。

 長時間座っていたあと、急に立ち上がり、伸びをしたときのような感覚。

 京介は目の前が白く染まっていくのを感じた。


 祝日の午前中。

 人通りもすくない時間帯。


 白いスマホがぽつんと道路に落ちていた。


 ◆◆◆


 一説ではブラックホールに吸い込まれると、その重力で人間はまるで糸のようになってしまうそうだ。

 京介は自分の体が引き潰され、押し伸ばされていくような感覚を覚えた。

 不思議なのはそれで痛みがないということだ。


 ぎりぎりぎりと自分がまるで一本の縄になり、両端を誰かから引っ張られているような感覚。


 ――う……


 京介はゆっくりと目を開け、あっけにとられたようにあたりを見回した。


 ここは12畳くらいの小部屋のようだ

 もちろん、マンションの一室などではない


 骨まで染み込むような寒気

 ごつごつと硬い石畳

 どこからか流れ込む仄かな腐肉の匂い

 部屋の四隅にはたいまつが括られており、僅かな光源となっている


「夢……か…?」


 ぎゅううとほっぺたをつねってみるも、まるで目が覚める様子がない。

 そしてなにより、痛みがある。

 これは夢ではない。


「なんだよ……」


 困惑した様子で京介はぼそりと呟いた。

 そしてゆっくりと立ち上がって、周囲の壁をぺたぺたさわったり、床を叩いてみるものの…


「なんだよ……なんだ!!なんだこれ!おい!誰か!誰かいないのか!!母さん!!!誰か!!ねえってば!!!」


 京介は怒声をあげる。その肩はふるふると震え、瞳には強い恐怖が宿っている。パニック寸前だ。いや、もうパニックを起こしているといってもいいだろう。


「なんなんだよう……」


 そしてか細いつぶやきとともに、京介はしゃがみこみ、しばしその場には湿った鳴き声が響いた。


 どれだけ時間がたったのだろうか。

 ひとしきり泣いた後、京介は少し自分の気持ちが落ち着いているのを感じた。

 涙はカタルシスを与える。

 一気に感情を爆発させた後は自然と気持ちは落ち着くものだ。


 とりあえずこれからどうするのか、ここがどこなのかを調べなければならない。

 そこで京介はスマホを取り出そうとするが、ポケットにはいってないことに気づく。


「落としたのか…。それとも、誘拐されたときに奪われたのか…」


 京介は自分が誘拐されて監禁されていると判断を下していた。それが一番現実的だからだ。

 まさか自分が異世界に落ちてしまったなどとは頭の隅にもよぎらない。


 京介はよくも悪くもいまどきの若者らしい割り切った部分を持っていた。


 バッグの中も見てみると、カフェオレのペットボトル、財布、スマホの充電器、あとはドラゴンホーンショットガンというのど飴が入っていた。


 どうでもよい話になるが京介はこののど飴が気に入っている。喉の奥でショットガンをぶっぱなされたような刺激ののど飴なんて中々見当たらないだろう。


 ――とりあえず部屋を調べてみるか…


 別に京介も何かがわかるとは思ってはいない。

 ただ人間というものは、なにもしないでいるというのはいられない生き物なのだ。


 あらためてゆっくり部屋を見回すと、木の扉が目に入る。古めかしい扉だ。

 それこそゲームとか映画で出てきそうな、たとえて言うならハリー●ッターあたりに出てくるような扉だった。


 ――開くのだろうか?


 恐る恐るノブを握り、扉を押してみる。

 扉はギギギ…と軋みながらも問題なく開いた。


 扉を開いた京介の視界に飛び込んできたのは…


「通路……」


 おもわず生唾を飲み込む。目の前には一本道がはしっており、部屋と同じように道中設置されているたいまつでぼんやりと照らされている。

 とはいえたいまつの灯りがそこまでの光源になるはずもなく、せいぜいが数メートル先を視認できる程度だ。


 炎の揺らめきとともに影が舞い踊る様は、京介の胸に得体のしれない不安の種を植え付けた。


 ああ、それに…


 ズルッ

 何かを引きずるような音


「おい…」


 ズルッ

 誰かが来る


「なんだよ…」


 腐肉の匂いが強くなってくる。


「なぁ、そこに誰かいるのか…?」

 ひび割れそうな声で京介はなにかに声をかけた。

 なにかは声に反応したのかしばし立ち止まり…



 ズルッ

 再び京介に近づいてくる。


 心臓が早鐘を打ち、本能は今すぐここから逃げろと悲鳴をあげている。

 だが、恐怖に竦んだ両足はぴくりとも動いてくれそうにない。


 やがてなにかが京介の視界にはいる。

 それは京介もよく知るモノ。

 でも現実では見たことがないモノ。


 白濁した瞳、青黒く腐敗したような肌色。

 腹のあたりはだらりと腸らしきものが垂れているのがみえる。

 ゾンビだ。ゲームに、映画に出てくるあれだ。


 股間が生暖かい液体で濡れるのを感じる。

 思考は千々に乱れ形を成そうとしない。

 京介は恐慌を起こすに留まらず、この場所の瘴気に侵されてしまう。

 この場所は、迷宮は魔力の無い者にとっては空気ですら正気を蝕む毒となり得るのだ。


 やがてガクガクと震える京介のすぐ近くまでやってきたゾンビは、蛆の湧いた手を伸ばし…


 京介の笑い声が辺りに響き渡った。


「はは…アハハハハっアハハハハっ!!」


 余りの恐怖。その負荷にごく普通の大学生の心は木端微塵に砕け散ってしまった。

 分かりやすくいえば『発狂』である。

 ゾンビが京介の肩を掴み、目の前の新鮮な生肉を喰らおうとその腐臭漂う口を開く。


 京介は狂った哄笑をあげながら、ゾンビのはみ出た腸を掴み引きちぎった。

 彼にはもはやゾンビに対する恐怖感、嫌悪感などは毛頭ない。心が砕け散ってしまったおかげでこれまでの人生で積み重ねてきた価値観なども粉々になってしまったのだ。


 京介は腐った肉体にためらいもなく腕を突っ込み、内臓を引き千切ろうとする。

 その時、ちぎれた臓腑の中からきらきらと光る拳くらいの石がこぼれおちた。

 魔昌核だ。


 ゾンビとは苦痛を感じない魔物ではあるが、肉体がばらばらになるほどの損傷を受けるか、あるいは魔昌核と呼ばれる、いわゆるコアを破壊されると活動を停止する。


 魔昌核は人間で言うなら心臓にあたる部分だ。

 魔物とは魔なる物という意味ではなく、魔力で活動するものという意味であり、魔昌核はその魔力を供給する重要な機関である。


 魔昌核を剥離されたゾンビは魔力を体へ巡回させることができずに肉体を崩壊させ、ぐちゃぐちゃと腐肉がこぼれおちる。

 半ば液状化した腐肉の中にきらりと光る魔昌核の輝き。


 ばきり、と音を立て京介が魔昌核を踏み割った。


 魔昌核は粉々になり、やがて地面に溶けゆくように消えてなくなった。

 すると京介は、その朧気な意識でもはっきりと分かるような「何か」が体と心を満たしていくような、そんな感覚を覚えた。



 嗚呼、と吐息をひとつつき、京介はにっこりと笑った。

 その笑顔はまるで幼子のような笑顔であった。


≪幸せになるためには正気を捨てることだ≫

 とある作家の言だ。


 京介は早い段階で正気を失い、ある意味で幸せだったのかもしれない。

 京介のいる迷宮は最果ての迷宮と言う。

 無限とも思える階層、広大な領域。いつだれがなぜこんなものを作ったのか定かではない。


 確かに冒険者などが訪れることはあるだろう。

 ここは著名な迷宮だ。

 しかし仮に京介が誰かに巡り合ったとして、都合よく助けてもらえるだろうか?

 冒険者とはよくもわるくも割り切った性質を持っている。あきらかに足手まといの京介を助ける心やさしい冒険者が都合よく現れるであろうか?


 孤独の中、この暗い地の獄で生き続けるにせよ、早々に迷宮に食われるにせよ、常人である京介にとっては正気などというものは早々に手放してしまったほうが良かったであろう。


 正気を失った京介はそれ以降迷宮をふらふらと彷徨う事となった。

 幸いにも京介の居る階層はゾンビやハウンドといった弱い魔物しか生息していない。

 弱い、といってもそれはあくまでも冒険者基準の話だが。


 常人が、たとえば野犬などに襲われたらただではすまないだろう。

 だが京介は正気を失っていた。

 迷宮内に落ちていた錆びた武器を持ち、本能のままに魔物に襲いかかっていく。

 ただ、京介はあくまで一般人だ。

 そんな無茶をしていてはいずれ力尽きるはずだ。

 だがそうはならなかった。


 迷宮とは魔力の満ちる空間。

 心が砕け、空虚な洞となった京介はよくも悪くも迷宮に馴染んだ。

 ただそこにいるだけで魔力を吸収し、魔物を殺した際放出される魔力をも吸収していった。

 京介にとって幸運だったのは、ひとつに冒険者たちと出くわさなかったという点であろう。

 彼のいまの外見はさながら食屍鬼グールだ。

 それに正気を失っているということもあり、問答無用とばかりに切り捨てられかねない。


 もうひとつは彼が魔法が存在しない世界の生まれということだ。

 この世界の人間はよくも悪くも魔力慣れをしている。

 大気には微量の魔力が満ち、人々は生まれたときからそれらに慣れ親しんでいる。そのせいで彼らは魔法が使えたりもするのだが、体に耐性がついているせいで吸収のほうがうまくいかない。


 京介は耐性がまったくない。

 0の状態から濃密な魔力たちこめる空間へ放り出されてしまった。

 したがって彼の体はスポンジのように魔力を吸収してしまう。


 魔力とは原初の力だ。

 蓄えれば蓄えるほどに力を増す。


 だがこの世界の人間が魔力を吸収するためには、その耐性のせいで魔力がみちる空間にいるだけでは吸収ができない。

 でもそんな彼らでも方法はある。

 すなわち魔物を殺すことである。


 魔物とは魔力の塊で、殺せば魔物の魔力が放出される。

 その濃度は大気中のそれとは桁がちがい、この世界の人間であっても吸収ができるほどだ。


 だが京介は、ただ存在するだけで魔力を吸収するのだ。

 それがどういうことか分かるだろうか?


 そして京介は迷宮を彷徨い続ける。

 頭は霞がかり、自分を食らおうと襲い掛かるゾンビや野犬を殺しつつ。


 今いるこの場所よりも、彼の心こそが迷宮の在り方に近いかもしれない。彼は自らの名前さえも覚えていなかった。

 とはいえ、彼もまた生物だ。命を繋ぐためには食物を必要とする。

 彼は何を食べているのだろうか?


 魔物だ。


 渦巻く魔力を吸収した彼の体は、常人ならとても口にできない魔物の肉を難なく受け入れていた。

 彼の体内に渦巻く魔力は、腐肉であろうとも強引に消化吸収することを可能とした。

 そしてその行為により、彼の渇いた肉と魂に新たな魔力が宿る。


 彼はもう心亡き獣へと変わってしまったのだろうか?

 いや、彼はまだ人間である。


 どす黒い肉を喰らうとき、木っ端微塵と砕けたはずの彼の心は、正気であった頃の魂の淡い残滓を掬いとる。


 魔力という原初の力が彼の心を癒そうとしているのか、体に魔力が満ち満ちたその一時は、彼は僅かに人にたち戻るのだ。


 だがそれは幸福なことではない。

 ほんの僅かな正気の灯火は、今の彼を酷く苛んだ。

 獣とかした己の惨状に、母や友人を悲しめているであろう現実に。

 ゆえに彼は涙を零す。

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