10:ドール
ミカは昼の仕事の後、夜の仕事が始まるまでの間、決まって人形屋に向かう。
人形と言っても、少女が欲しがる玩具の人形じゃない。等身大の自動人形である。ミカは十六歳。仕事をし、一人暮らしをしている、大人であった。
自動人形は、言葉を話すこと、食べること、子供をなすことを除き、人ができることは全てできるといわれている。自動人形を買うことは、人を買うことに近しい。
お金があれば、何でもできる……ただし、お金があれば、だ。
ショウウィンドーに張り付いたミカは、展示されている女性型の人形の値札に目をやる。桁を数えるのもうんざりするほどの高値。今の私の稼ぎでは、いくら切り詰めて貯金したところで、お婆ちゃんになっても買うことはできない。でも、欲しい。どうしても、欲しい。なぜと聞かれると……正直、よくわからないのだけれど、欲しいものは、欲しいのだ。どうにかならないかしらん。いっそ、盗んで──
「お気に召すものはございましたか?」
ミカはビクッとして振り返る。上等な衣服で身を包んだ優男。人形屋の店主だ。ミカは再びショーウィンドーに目を向け、ぼそっと呟く。
「……良い趣味をしているわね」
「ありがとうございます」
「皮肉よ! こんな人形なんかとても買えそうもない貧相な貧乏人を捕まえて、さも客のように扱ってからかおうだなんて、どんだけ性根がねじ曲がってるのよ!」
ミカはキッと店主を睨み上げた。店主は両手を胸の前で振って見せる
「いえ、そういうつもりでは──」
「嘘よっ! じゃあ、私が買えるような人形があるっていうの!」
「あるにはありますが──」
「ほら、あるんじゃない! ……え、あるの? いや、騙されないわよ、私は!」
「訳あり商品、という奴でして。良かったら、ご覧になられますか?」
ミカは口をへの字に曲げる。まさか、そんなうまい話があるはずもない。あっとしても、そういう幸運は、恵まれた人達のもので、私なんかにもたらされるはずが──
「私の体が目的なのね!」
「どうしてそうなるんですか!」
「うまい話で人形に興味を持った貧乏人の女の子を店に招き入れ、睡眠薬入りの紅茶で眠らせて、闇市で売りさばくつもりなのね! ああ、人形の正体は、喋られなくなった本当の人だったのです……なんて恐ろしい! 鬼! 悪魔! 人でなし!」
「……僕はあなたの想像力の方が恐ろしいですよ」
「じゃあ、何だってわざわざ、声をかけてきたのよ!」
「それはもう、毎日足繁く通って頂いているんですから、お話してみたくなるのは人として自然なことではないでしょうか? それが今になったのは……そう、運命かもしれません」
「……胡散臭いなぁ」
「無理強いは致しません。美味しいクッキーと紅茶もご用意しておりますが──」
「睡眠薬、入ってない?」
「それはもう」
ミカは悩んだ挙げ句、店内に足を踏み入れることにした。もし、最悪の事態になっても、今より悪くなることはないだろうと、判断したからである。
※※※
店内に足を踏み入れたミカは、きょろきょろと周囲を見渡す。ショーウィンド-越しに毎日見ていたとはいえ、その印象は大きく異なり、新鮮だった。すぐ目の前、手の届く場所、同じ空気の中に、人形がいるのだ。そして、ほのかな甘い香りは……クッキーに違いない。
店主の案内で応接間に通されたミカが、腰掛けたソファーの柔らかさに驚いていると、優雅なドレスを身に纏った女性が、銀のトレイにティーセットとクッキーを載せてやってきた。
女性はテーブルにティーセットとクッキーを並べ、ポットを傾けティーカップに紅茶を注ぐ……その一挙一動を、ミカはまじまじと見詰め、ティーカップが差し出されると、「ありがとう」とお礼を言った。女性は微笑みを返し、応接間から出て行く。
女性の背中をぼーっと見送っていたミカは、はっと我に返ると、躊躇いながらも紅茶を一口……おいしい。続いて、クッキーにも手を伸ばし、サクっと口にしてからはもう、一口で済むことはなく、黙々と、食べたり、飲んだりを繰り返すのだった。
「お気に召したようで何よりです」と、店主。
「……後で、料金を請求したりしない?」
「それはもう」
「さっき美人さんも、人形なの?」
「そうです。最新モデルですよ」
「あなたの?」
「はい」
「……いやらしい」
「どうしてそうなるんですか!」
「だって、そういうこともできるんでしょう?」
「可能か、不可能かで言えば可能ですが、イライザは私の助手ですから」
「名前までつけちゃって。愛人を助手にするなんて、お金持ちは違いますなぁ」
「別に僕はお金持ちじゃ──」
「でも、人形を買えるぐらいの稼ぎはあるんでしょ?」
「それは、そうですが……」
「それをお金持ちっていうのよ。……気にしないで、貧乏人のひがみだから」
「はぁ……」
「違う、そんなことを言うためにきたんじゃなかった」
「早速、ご覧になりますか?」
「訳ありなんだっけ? 一体、どんな訳があるっていうの?」
「それはもう、ご覧頂ければ」
ミカは小首を傾げたが、果たしてその人形を前にした時、訳は明らかだった。
※※※
「顔がない」
ミカの呟きが全てだった。優美な衣装を身にまとい、イライザと同様、その居住まいは人と見紛うばかりであったが、ただ一つ、顔だけはつるんと卵のようだった。
「これって、どうしちゃったの? 失敗作?」
「いえ。彼女は十年に一度の傑作でした。ですが、オーナー様の元で、よほど辛い目に遭ったのでしょう、心を閉ざしてしまったのです」
「心を……? そうなると、こうなっちゃうの?」
「因果関係は不明というのが通説ですが、私はそうだと考えております。近年、こうして心を閉ざす自動人形が増えておりまして、修理や返品の依頼が後を絶ちません。この子もオーナー様から強い返品の要請があり、引き取らせて頂いた次第です」
「可哀想に……この子、死んじゃってるの?」
「いえ。ただ、もう二度と動くことはないでしょう」
「元に戻す方法は、ない?」
「その方法があれば、私が教えて欲しいぐらいです。ですが、廃棄するのも忍びなく、どうしたらいいものかと、考えあぐねている次第でして」
「要は、厄介払いをしたいって訳ね」
「そう受け取って頂いても、構いません」
「……いいわ。買ってあげる。いくらなの?」
「タダです」
「タダ! ……いやいや、タダより高いものはないって、お母さんも言ってたし! この子の訳って、本当に動かないだけ? 夜な夜な動き出して、不埒なオーナーの命を奪う死神とか、そういう訳ではないのよね?」
「自動人形にも、そんな気概があれば──」
はっとして、店主は首を振った。「これは失言を……」と、端正な顔が歪む。
「ううん。なんか、やっとあなたを信じる気になれたわ」
「……ありがとう、ございます」
「この子を家に運ぶぐらい、手伝ってくれるわよね? もちろん、無償で?」
「それはもう。ただ、大変申し上げにくいのですが、こちらの衣装は売り物ですので、お譲りする訳には──」
「服ぐらい買うわよ。裸で放り出すなんて、可哀想だしね」
店主はポケットから電卓を取り出し、ボタンを連打。ミカに差し出す。
「お値段はこちらになますが……」
電卓の桁を数えながら、ミカは気が遠くなっていくのを感じた。
※※※
夜の仕事は急病ということにして休みを取り、ミカは自宅のリビングで、椅子に座った、顔のない、全裸の人形を、じっと見詰めていた。
……あの店主、下着の一枚もおまけしてくれないなんて。人形には優しくしてくれる良い奴だと思ったのに、結局は、お金が一番なのだ。お金持ちは、みんなそう。
だが、このまま放置するのも忍びない。かといって、自分の服ではサイズが合わないし……そうだ! と、ミカは押し入れの収納箱から、母親の下着や衣服を取り出した。良かった、いつか使えるだろうと捨てずに取っておいたのが、こんなに早く役立つなんて!
──それからが、大変だった。相手は等身大の人形である。手触りは柔らかく、力を入れれば関節も曲がってくれるのだが、手も、足も、頭も、その全てが重く、動かない他人に服を着せることが、どれほどの重労働であるのかを、ミカは存分に思い知るのだった。
下着から始まり、スカート、トップス、ついでに靴下もはかせて、髪の毛はブラッシング……と、一連の作業をすっかり終える頃、ミカは全身汗だくになっていた。
「……なんとか、形になったわね」
ミカは額の汗を手で拭い、その成果を確かめる。顔は相変わらずだが、服を着せたことで、そこにいるという実感が湧き、同時に、熱く込み上げてくるものがあった。
「あれ、どうして……」
拭っても、拭っても、涙が溢れ出てくる。目の前に座っているのは、物言わぬ人形だ。顔だってない。母さんの服を着た人形が、母さんの椅子に座っているだけ……ただ、それだけなのに、なぜこれほど満たされてしまうのだろう。
「叶わないと、思っていたのに」
ミカは人形の背中に手を回し、抱きしめる。温もりはない、抱き返されることもない。それでも、抱き締められる相手がいるということの、なんと心安らぐことか。
──乗り越えたと、思っていたのに。一人でも大丈夫だと、思っていたのに。私はこんなにも、必要としていたのだ。ようやく、自分が人形を求めていた理由が分かった。これが欲しかったんだ。ただ、そばにいて欲しかったんだ。何も言わなくたっていい。動かなくたっていい。ただ、そこにいてくれれば、それだけで、私は──
頭を撫でられ、ミカは人形から身を離した。泣き腫らし、真っ赤になったミカの瞳は、微笑む人形の顔を見て、皿のように丸くなるのだった。
※※※
「まさか、本当に直してしまうなんて……」
人形屋の店主は、ミカと連れだってやってきた人形を見て、目をぱちくりする。
「ふふ、これぞ愛のなせる業よ! ね、エリカ!」
エリカと呼ばれた人形は、笑顔で頷く。流れるような金髪が眩しい。
「名前をつけたのですね。ひょっとして、お母様の?」
「ううん、単なる思いつき! だって、エリカはお母さんじゃないもの!」
「……新たな家族、ですか?」
「そ! だからさぁ、お祝いをくれない?」
「はい?」
「だってほら、私もオーナーの仲間入りをしたわけだから、今後とも、あなたとお付き合いしてくことになるわけじゃない? 私、人形のこと、よくわからないし」
「それはもう、大歓迎ですが……」
「でもね、私は貧乏人なのよ。しかも、食い扶持まで増えてしまったわけだし」
「人形は飲食できませんが……」
「細かいことは気にしないの! とにかく、私は偉業を達成したんだし、新たな門出を祝うような品々を頂いてても、罰は当たらない思うのだけれど?」
「……仕方ありませんね」
店主が振り返ると、後ろで控えていたイライザが笑顔で頷き、リボン付きの洋服箱を持ってくるために、いそいそと店の奥へと急ぐのだった。
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