4:お嬢様のペット

 ウェイターの少女ミーシャが運んできた、握り拳ぐらいに膨らんだスポイトを手に取ると、ロイドはそれを頭上にかかげ、あんぐりと口を開けた。


 スポイトを握ると、ぬるいミルクがちゅーっと滴り落ちる。最後の一滴までゴクゴクと飲み干した後で、ロイドはじっとミーシャを見詰めた。


「僕はコーヒーを頼んだんだけど──」

「犬にはミルクの方がいい」


 ミーシャはそっけなく言い放ち、去って行く。ロイドの両耳がぺたんと寝た。いつかまた、熱々のコーヒーを飲める日が来るのだろうか。


 カラン。鐘の音と共に、柄の悪い男達が、どやどやと店に入ってくる。


「おい、姉ちゃんっ! 酒だ、酒っ!」

「馬鹿、仕事前だぞ」


 ただ一人、スーツ姿の男に一喝され、酒を頼もうとした男は「へへ、すいません」と頭を掻く。他の男達は薄ら笑いを浮かべ、空いている席にどかどかと腰を下ろす。


「……お嬢さん、すまなかったね。全員に熱々のコーヒーを頼むよ」


 スーツ姿の男がそう言うと、ミーシャはこくりと頷いた。


「それと、あれは何のつもりだい?」


 そう言って、スーツ姿の男が指さした先には、ロイドがいた。


「常連のお客様、ですけど?」

「獣人が客ですって?」

「彼は、人間だったから」 

「なるほど、獣化病か。お気の毒に。それならなお、衛生管理に問題があるね」

「ちょっと、お客さん、文句があるなら──」

「いいよ、マスター」


 ロイドはカウンターの店主を制して立ち上がると、ミルクの代金をテーブルに置き、店を出て行く。「獣臭ぇ」「化け物が」という罵声を、背中に浴びながら。


※※※


 ──もう慣れたはずだ。気にすることはないと、ロイドは町外れを歩きながら、自分に言い聞かせる。獣化した人間を受け入れてくれる町、人の方が珍しいのだから。


 戦争の末期。人に獣の力を宿そうという、狂った人体強化計画。軍人だったロイドは、獣化薬を投与されたものの、完全な獣人となる前に戦争が終結し、現在に至る。


 戦争が続いていたら、勝利することができていたら、自分は英雄だったろうなと、ロイドは自嘲する。負け戦ほど酷いものはない。何もかもが否定され、真実も闇の中なのだから。


 むんずと、尻尾が掴まれる。この容赦のない掴み方は──


「お嬢様、止めてください」

「仕方ないでしょ? いかにも掴んで欲しそうなもふもふなんだから!」


 ロイドが振り返ると、お嬢様ことミラ・マジューシカが尻尾を頬に寄せていた。ミラは大手製薬会社マジューシカ・グループ総裁の一人娘で、この町の小さな女王リトル・マジェスティである。十四歳。黄昏色のドレスに、ウェーブのかかった金髪が映えている。


「また家出ですか?」


 ロイドは脇に置かれた旅行鞄を見ながら、口を開く。


「今度こそバッチリよ! ちゃんとプロも雇ったから!」

「プロ?」

「世の中、お金があれば何でもできるのよ! 子供でもね! ふふ、お父様、愛娘の寂しさを紛らせようと送ったお金が、愛娘を遠ざける世の皮肉を存分に噛み締めるといいわ!」


「お嬢様は、悪巧みをするには素直すぎるから──」

「ねぇ、ロイド? 私のペットになるって話、今ここで受けてくれないかしら?」

「だから、僕は人間で──」

「信じられないわよ。初めて会った時から、あなた、その姿だったじゃない?」

「……僕も段々、自信がなくなってきたところですよ」

「冗談よ。ちゃんと信じてる。だから、ペットにならない?」

「信じた上で、というのは剛毅だと思いますが、お断りします」

「あら、残念。でも、安心して。私は意にそぐわないからって、お父様に獣化病のワクチン開発を中止するように進言するような、小賢しい真似はしないから!」


「君のお父さんの薬で、僕は獣化したんだ」という言葉を飲み込み、ロイドは「ありがとう」とだけ、口にした。ミラは「どういたしまして」と笑顔を見せる。


「……お父さんのこと、信頼してるんだね」

「もちろん、愛しているわ!」

「じゃあ、家出なんてしなくても──」

「それとこれとは話が別よ! じゃあね、ごきげんよう!」


 ミラは旅行鞄を手にして、歩き去って行く。その小さな背中を見送りながら、この姿でも溜息がつけることを、ロイドはありがたいと思った。


※※※

 

「いや~、ボロい仕事でしたね! 護衛一人いないなんて、平和ボケ万歳!」


 町外れのあばら屋で、飲み干した瓶ビールを弄びながら、男が声を上げた。男達の汗と酒の臭いが充満したあばら屋の隅では、手足を縛られ、猿ぐつわを噛まされたミラが床に転がされ、「ムー! ムー!」と、身をよじりながら唸り続けている。


「世間知らずのお嬢様を騙くらかすなんて、簡単なことさ。ましてや、非対面のネットを通じてならね。相手が求める耳障りの良い言葉を、返してやるだけでいいんだ」


 スーツ姿の男はそう言うと、手にしたワイングラスを軽く揺らした。


「でも、まさか本物だったなんて……」

「ムー! ムー!」

「賢いことと、金持ちであることはイコールじゃない。さらに、金持ちは無条件で自分を特別視したがる。自己肯定感が高いんだ。うまい話も、自分なら当然と思ってしまう。金さえあれば何でもできる……そこに俺達が付け入る隙がある」

「なるほど! さすがボス!」

「ムー! ムー!」

「ここからが本番だぞ? いかに吝嗇家のギラ・マジューシカでも、愛娘のためとあればいくらでも金を──」

「ムー! ムー!」

「……おい、話せるようにしてやれ」


 スーツ姿の男の指示で、ミラの近くにいた男が猿ぐつわを外してやる。


「……ぷふぁ、残念だったわね! お父様はあんたらに一銭だって払わないわ!」

「そうかね? 愛娘の命がかかっているのに?」

「もちろんよ! だって、お父様は……お父様は、私を……」

「どうしたんだい? 言ってごらん?」

「……愛してなんていないだから! 愛してたら、お金だけ渡して、あとは好きにさせておくようなことしないわ! ペットだって、もっと構って貰えるわよ!」

「なるほど、確かに、ギラ・マジューシカにとっては、金など空気や水と同じかもしれない。でも、それでは困るんだよ」

「お金が欲しいなら、私が持っているお金を全部あげるわ!」

「悪いが、答えはノーだ。君が父親から与えられているような端金には興味がない。私はね、もっと大金が欲しいのだよ。世界を動かすことができるような」

「……あっそう。なら、好きにするといいわ」

「ええ、好きにさせて貰いますよ」


 スーツ姿の男は、テーブルの上に置かれていたナイフを取り上げ、ミラに近づく。


「ど、どうするつもり?」

「手始めに……そうだ、その綺麗な青い瞳をえぐるとしましょうか」

「え……」

「もし、ギラ・マジューシカに人の心が少しでも残っているなら、血を分けた一人娘の傷ついた姿を見せられたら、交渉に応じる気になるかもしれないでしょう?」

「そんなの、お父様は動じないわよ!」

「かもしれません。でも、試してみる価値はある」

「そんな、嘘でしょ? それなら、まずは交渉してから──」

「無駄だと言ったのは、あなたではありませんか?」

「そうだけど、そんな、お金なら、あげるから……」


 スーツ姿の男はニコニコと、ミラの瞳にナイフの切っ先を近づける。


「お金お金って、それしかないなんて、可愛そうですね」


 バン。あばら家の扉を突き破り、黒く大きな影が、しゅるりと風のように走り、スーツ姿の腕を掴み上げると、マッチ棒のようにへし折った。「ギャッ」と悲痛な声。


「……グルルルルルルゥ」


 唸り声。黒い影は次々と男達に襲いかかる。「化け物!」と、男の悲鳴が上がる。


※※※


 夕日に染まる公園。ベンチに座ったロイド膝に、ミラは腰掛けていた。ぎゅっと、ロイドの尻尾を握り締めて。ロイドは痛みを堪えつつ、天を見上げていた。


 不意に尻尾が解放され、ロイドはミラの頭を見下ろす。


「……落ち着いた?」

「うん」

「これで懲りただろう?」

「もう家出はしないわ。目的は達成したもの」

「え?」


 ミラはロイドに背中を預け、その長い顎下を見上げる。


「私ね、必要とされたかったんだと思う。家出請負人っていうのが嘘だったことより、身代金目的だとしても、必要として貰ったことが嬉しかったし。でも、必要とされてたのは、お金だったんだよね。お父様は何があっても身代金なんて払わないって、悲しいぐらいにわかっちゃってたし。だから、あのまま好きなように切り刻まれて、死んじゃうんだろうなって思ったけど、あなたが来てくれた」

「僕は──」

「ロイド、ありがとう」

「お礼なんて言っちゃダメだ。僕は……君が連れ去られるのを見ていた。怖い思いをさせられるのも見ていた。どうにかできたのに、何もしなかった。何も」

「そりゃそうよ。そんな姿にした張本人の娘だもの、助ける義理なんてないわ」

「……知ってたのか」

「伊達にネット漬けじゃないわよ。真偽はともかく、お父様の会社がどういうことをしてきたか、世間からどう言われてるかは知ってる。完全なマッチポンプだって」

「それでも、君は君だ。女の子が危険な目に遭うのを看過するなんて、僕は人間として終わってる。身も心も……獣だ」

「ううん。だって、助けにきてくれたじゃない? それに、ボッコボコにはしたけど、殺してはないじゃない? そういう半端なところ、人間らしいって思うわ」

「……そうかな?」

「そうよ。だから、あなた、やっぱり私のペットにならない?」

「……考えておくよ」


 ミラはくるりと身を翻すと、ロイドの尖った口先に唇を当て、にっこりと笑った。

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