VI:Serenade

 トゥール公国 主要地方都市 フィデス市


 翌日、アルトはカレンと共に部屋探しに出かけた。

 グラナート家を出たは良いが、ここに来るまでの路銀も心許なかったアルトはギターで幾らかの日銭を稼いだ。それが自らの意志に反することとはいえ、止むを得なかった。それでも風の道標と自らのオリジナル、風の先へを弾くことだけは絶対にしなかったのがせめてもの意地だった。

 そんなアルトの乏しい持ち合わせに見合う物件が二件ほどあった。しかしそのどちらも当然のごとく、お世辞にも綺麗とは言い難く、生活そのものもし辛いようなところだった。懐と相談したアルトは、そのどちらかにしようとしていたのだが、カレンが猛反対した。

「だめよあんな汚いところ。わたしだって遊びに行くんですからね!」

「だから掃除はちゃんとしますってば……」

 フィデス市のメイン通りに最近開店したという、若者に人気のある安価で食事のできる軽食店で二人は少し遅めの昼食を摂っていた。店内とメイン通りに面したテラスにテーブルがあり、二人はテラスのテーブルについて口々に言い合っている。

「掃除したって限度があるわ。それにあれじゃそんなに綺麗にはならないもん。……やっぱりあの三つ目の部屋にしようよぉ、父さんに言ってもう少し安くしてもらうから!ね!」

 三件目に見た部屋はカレンが気に入ったところだった。だが、これから職も探さなければならないし、持ち合わせもそう多くはない。アルトの懐に見合う物件二件よりも、やはり家賃は高く、借りたとしてもそう長くは住めないだろう。

「窓なんてあんな大きな出窓じゃなくってもいいよ。小さいのがあれば充分だって」

 三つ目の部屋でカレンが気に入ったのは部屋の綺麗さと大きな出窓、それに広さだった。

「でもあの部屋ならアップライトだって置けるもん」

「おれの部屋にピアノ置くつもりですか!カレンさんは!」

 アルトは食事の手を止め、頓狂な声を上げた。商店や出店で賑わうメイン通りを行く人々がなにごとかと振り返る。

「うん!」

「……」

 アルトの反駁にも似た叫びにカレンは全く動じず、さも当たり前のように即答する。

「あ、あのね、カレンさん」

「やだよ、決めたんだから」

 カレンの表情はもはや至極当然のごとく、何物にも惑わされず、何者にも曲げられない意思を感じる。

「いや、だから……」

 抵抗はもはや無駄だと悟ったところで出てくる言葉などしどろもどろでしかない。

「だってその方が楽しいよ」

「……」

 それはそうだろう。その昔、父とクレアがやっていたように、カレンのピアノと一緒に演奏出来たら、それは楽しいに決まっている。アルトの抵抗とも呼べない抵抗はカレンの無邪気な笑顔の前にあっけなく敗北した。

 アルトが敗北確定のこの状況からどうしたものかと迷い始めたところで、カレンの背後から声をかけてきた者がいた。

「なぁに?いつのまにこうなの?カレン」

 カレンよりも幾らか大人びた顔立ちの、プラチナブロンドのウェーブヘアが美しい女性だった。カレンとは違う、パッと見てその人柄が直感的にでも判ってしまうような、目の覚めるような美女。その美女がカレンの背後に回り、香茶を飲もうとしていたカレンの肩にをぽん、と手を置いた。

「ひゃうっ」

 香茶をつっかえそうになったのか、奇妙な声を上げてカレンは振り向くと、その人物の名を呼んだ。

「リエリー!」

「……」

 リエリーと呼ばれた美女は空いていたカレンの隣の椅子に腰掛けると、なにごとかをカレンに耳打ちした。

「ん、んな、なななに言ってるのよリエリーは!」

「あ、リエリー・アルフィードっていいます。カレンとは音楽院の同期。よろしく」

 リエリーは自らが耳打ちした言葉でカレンが赤面しつつ大声を上げていることなど全く意に介さず、アルトに自己紹介を始めた。そんなリエリーのキャラクターに多少呆気に取られつつ、アルトも自己紹介をした。

「おれはアルト・リーンファルト。カレンとは幼なじみ……。違うなぁ、子供の頃の馴染みで、おれは八年ぶりにこっちに帰ってきたって状況で……」

「あぁ、なるほど、なるほど。へえええええええ、そうなの、ふううううううん」

 リエリーはぽん、と手を打ち合わせると腕を組み、意味ありげに真っ赤になっているカレンを横目で見たが、アルトには何のことだかさっぱり判らない。アルトが判るとしたら、女友達同士の間で何かがあるのだろうことくらいだ。

「……リエリーさんもピアノ、弾くんだ」

 カレンが黙り込んでしまっては何も話が進まない。アルトはとりあえずリエリーに話しかけてみた。

「リエリーでいいわよ、アルト。あたしはバイオリン。ピアノはもっぱら聴き専門ね」

「あ、凄いんだよリエリーのバイオリンは。もう何度も発表会とかで賞もらってるんだから」

 ばっ、と顔を上げて、カレンは力説した。顔はまだ赤いが、自分の友人を誇らしく思っているのが良く判る。カレンの笑顔がそれを口ほどにも物語っている。リエリーはカレンにとって特別に大切な友達なのだろうことがアルトにも良く判った。

「へぇ、今度是非聴かせていただきたいもんです」

「いいわよ、じゃ近いうちにカレンと女神の調べ亭に行くわ。もう行ったんでしょ?」

「あぁ、カレンとは子供の頃にそこで出会ったからね」

 カレンの友人だけあってか、やはりリエリーも女神の調べ亭を知っていた。リエリーは再び意味ありげな視線でカレンを見た。そして、カレンも再び赤面して俯いてしまう。

「そういうアルトもその手、リュートか何かやってるんでしょ?」

 弦楽器の演奏者だけあって、弦楽器を弾く者特有の指にリエリーは気付いたのか、アルトに言ってきた。

「うん、ギターをね。……マイナーな楽器で失望した?」

「まさか!あたしギター大好き!あの透明感があって、多重的なコードを奏でられるのはギターしかないもの。あたしも聴いてみたいわ、アルトのギター」

「アルトのギターは凄いのよ!唄も上手いし。ほんとにもう、何をどう言ったら良さが伝わるか判からないから言わないけど、とにかくそのくらい凄いんだから!」

 またカレンが顔を上げる。よくころころと表情が変わるカレンにリエリーは苦笑を返した。

「なるほどね。今度女神の調べ亭に行くの、楽しみにしてるわ」

 リエリーは大人びた笑顔でそう言った。

「びっくりしちゃうよ、ほんとに」

 大げさな手振りでカレンは言った。言っていることも大げさだが、悪い気はしない。

「そういうあんたも普通の腕じゃないと思うけどね。学院出たてのころなんて凄かったのよ。学院主催の音楽会で絶賛されて以来貴族連中の間でも話題になっちゃってさ、もう夜会、夜会の連続」

「へぇ、そんなに活躍してたんですか。カレン何にも言わなかったじゃないか、昨日」

 アルトはそう言っては見たものの、カレンの気持ちも解っていた。

「だって、あれはカレン・ランズウィックとしてじゃないもの……。クレア・ランズウィックの娘として、クレア・ランズウィック、ううん、クレア・グリーンウッドと同じピアノを弾く人間ってだけで呼ばれただけ……。あれはわたしの力じゃなくて、母さんの名前の力だよ」

 カレンは三度俯いたが、今度は赤面もせずに溜息交じりにそう漏らした。

「それが何よ。あんたはどう足掻いたってクレア・ランズウィックの娘なのよ。それにカレン、あんた自身そのお母様を誰よりも尊敬してるんでしょ?そのお母様に近付けた、って前向きに考えなくちゃこの先だってやっていけないわ」

 リエリーの言っていることは厳しいようだが的を射ている。甘やかすだけの人間とは違い、こうして叱ってくれるからこそ、リエリーはカレンの大切な友人たりえるのかもしれない。

「それに貴族ったって何百年も前の王権政治時代の甘い汁が吸いたいって妄想にしがみついてる馬鹿な子孫ばかりじゃない。あんな連中にあんたのピアノがどれくらい素晴らしいかなんて判かりっこないわ。いいえ、判ってたまるもんですか!」

 当然リエリーも、カレンが貴族の子孫であることや偉大な母であるクレアに多少のコンプレックスを持っていることを知っているようだった。

 音楽出版社の者やピアノ製造社の者がその名を売名しようとしていたことがあり、もう一度クレアの旧姓であるグリーンウッドを名乗るよう、クレイトフに話を持ち掛けてみたり、と色々なことがあったのだ、とリエリーは教えてくれた。確かにフィデス交響楽団としてもクレア・グリーンウッドの忘れ形見は話題性にも富んでいるし、腕が良ければ尚のこと何かと様々な面で好都合であることは容易に想像できる。

 それでも、どんなに汚い話があっても、カレンはピアニストを諦める訳にはいかなかったのだ。

 グラナート家で散々貴族の子孫たちの甘えた考え方や、何事かを成すために他人を利用しようとする汚わいを見てきたアルトにはそれが良く判った。

 自分の母の前で自分から言った言葉だ。

(決めた!わたし、大きくなったら母さんみたいなピアニストになるって)

 九年前の誓いの言葉。アルトの目の前で、ウェインの、クレアの目の前で誓った。

 だからこそ、何としてもカレンは今年のコンテストで優勝しなければならないのだろう。フィデス市におけるコンテスト及びコンクールは全て過去の有名な音楽家の名が付けらる。今年は幸か不幸か、クレア・グリーンウッドの名が付いてしまったのだ。

 フィデス市第五二回ピアノ演奏者投票選出会。クレア・グリーンウッド・コンテスト。

 優勝すればメインスポンサーでもあるフィデス交響楽団への入団が認められ、列記としたピアニストになることができる。しかし、クレアがかつて所属していたフィデス交響楽団が主催するコンテスト、母であるクレアの名が付いたコンテストでカレンが優勝したとなれば、実力で勝ち取ったものではないという噂は間違いなく立つだろう。それがどれほどに素晴らしい、非の打ちどころがない演奏であったとしても。

「!」

 カレンは急に顔を上げた。そしてゆっくりとリエリーを見て、アルトを見る。アルトに理由までは判らなかったが、何かがきっかけとなって、カレンはその瞳に輝きを取り戻したように見えた。

「うん……。わたし、がんばるね。優勝できるように、がんばる」

 何かがカレンの中で吹っ切れたのだろうか。カレンは笑顔を取り戻してリエリーとアルト、二人に言った。

 その後、三人はしばらく様々な話をしていたが、いつの間にかカレンのレッスンの時間が迫っていた。

「さて、じゃ行きますか」

 食事を終え、カレンもリエリーも飲み物を飲み終えたのを確認してアルトはそう言って立ち上がった。これから職を探さなければならない。聞けば最近は色々と人手不足らしいので、そんなに苦労はしないで済みそうだと思っていたアルトは午後から一人で職探しに回ろうとしていたのだ。

「あたしはこれからボウ見に行かなくちゃ。じゃあまたね、カレン、アルト」

 リエリーも立ち上がり、言った。

 三人は店を出ると、手を振り合い、各々の目的地へ歩いて行った。



 何件か楽器の工房や鍛冶職人に中りを付け、改めて伺うことを決めてから、アルトは帰路につく。さすがに二日連続でランズウィック家にただで寝泊まりするのは気が引けて、アルトは女神の調べ亭に来ていた。もちろん客としてきちんと金を払い、宿泊するつもりだ。

「こんばんは、レイおじさん」

「お?どした、アルト」

 レイブックはアルトが入ってくるなり破顔して言った。

「こっちに住もうと思って今日は部屋と仕事を探してたんだ。レイおじさん、何か良い仕事ないかな?」

 アルトはカウンター席に突くと、ギターケースを足元に置いた。

「ウチに泊まりゃあいい。お前さんだったら金はいらんよ」

 レイブックにしてみれば自身の子供はもちろん、カレンもアルトも家族同様に愛しているのだから、当然のことを言ったまでなのだろう。しかしそれはアルトにとっては甘えにしかならない。

 働ける力があって、自分で自分の面倒を見る能力も備わって、それでもまだ甘えようという気持ちにはなれない。

「そういうのが嫌だから色々探し回ってるんじゃない。気持ちは本当に嬉しいけど、おれも親父もみんなに世話になりっぱなしだもん」

 レイブックの気持ちは判っている。しかし、優しい人々に守られるだけでは、それは単なる甘えだ。そう、優しい人達と対等に付き合えるだけの強さを手に入れるためにグラナート家を飛び出したのだから。

 世間に認められたいだとか、そういうことではない。ごく当たり前の常識の問題だ。レイブックも自分の子供たちが働ける年になっても、働きもせずに家でダラダラ過ごしていたらそれを良しとはしないだろう。

「ん、そうか。そうすると、部屋はちと判らんが、仕事ならあるぞ。ここで働きゃいいんだ。うちの子供にも手伝ってもらっちゃいるが、なにぶんまだ学生だし、ちびは学校にすら行ってないからな。それにカレンにも会えるしな」

 レイブックはにししし、と笑った。

「や、や、やめてよ。でもレイおじさんがそう言ってくれるんならそうしようかな。ここならギターも弾けるしね」

 複雑な気分でアルトは言った。甘えないように、と思った矢先に甘えてしまっている。レイブックの親切も無碍にはできないではないか、と自分に言い訳も忘れない。時がくるまでは、ここで働こうとアルトは決めた。例えば給金が安かったとしても、それはそれで父親のぶんまで、レイブックに恩返しができるというものだ。

「そうだそうだ、そうしろよ。働かなきゃ金は払わん。それでいいんだろ?」

「そうだね。じゃあ仕事の方は世話になるよ。今日のところは客として泊まらせてもらうけど」

 レイブックの気遣いに嬉しくなりながらアルトが言うと、不意に一人の老人が声をかけてきた。

「すまんのう、若い方。アルト、と言うたかの?」

 女神の調べ亭の常連中の常連、ツェッペル爺さんだった。

「どうしたんだい?ツェッペル爺さん、昨日も来てくれてたよな」

「あぁ、その若い方に昨日の曲をもういっぺん弾いてもらいたいと思ったんじゃが、駄目かのう。ありゃあウェインさんの曲じゃろ?」

 ツェッペル爺さんはアルトに言うとしわしわの顔を笑顔で歪ませた。

「……良いですよ。ツェッペル爺さん、ほかにも何かリクエストはありますか?お望みとあらば色々と弾きますけど」

 ツェッペル爺さんの笑顔にアルトも笑顔を返すと、ギターケースを取り出した。

「はははっ、こりゃあアルトがいてくれれば店も繁盛するなぁ。ま、よろしく頼むわ、アルト」

 そう言いながらレイブックはカウンターに肘を突いた。この店で音楽を聴くときのレイブックの癖だ。

 アルトは笑顔のまま頷いて音合わせを始めた。



 翌日、再びカレンはアルトの部屋を決めるためにフィデス市内を歩いていた。ピアノコンテストが近いせいか、昨日よりも人が多く、活気に満ちている。

「カレン、あそこの部屋、カレンのお気に入りの。あそこさ、クレイおじさんに頼まなくてもいけそうだよ。昨日レイおじさんが女神の調べ亭で働かないか?って言ってくれてさ。だから何とかなりそうだよ」

「ほんと?」

 アルトの言葉に嬉しくなり、自然と笑顔がこぼれた。

「ま、まぁね。でも苦しくなったらすぐに出なきゃなんないけど」

「そしたら父さんに言ってあげるってば。じゃ、管理人さんのところ行って、ピアノとカーテン見に行こ!」

 アルトの一言でここまで上機嫌になれるとは自分でも思ってもいなかった。人が多くてはぐれてしまうかもしれない、といういささか強引な口実の下に、カレンはアルトの手を引いてアパートの管理人の家に向かって行く。

「カ、カーテン?」

 一瞬アルトの顔がなんとも言いがたい表情になったが、そんなことなど少しも気にならない。カレンはあの部屋の出窓に合いそうな可愛い色遣いのカーテンを想像しながらどんどんと歩いて行く。

 アルトの手から伝わってくる温もりが優しくて愛しい。

「わたし、アルトとリエリーにお礼言わなくちゃ。昨日二人が色々言ってくれたお陰で頑張ろうって思えるようになったから」

 カレンはアルトの手を引いたまま振り向いて言った。せっかくアルトと手をつなぐ、という口実を作ったのだ。そう簡単には離さない。

「んん?おれ、何か言ったっけ?昨日リエリーが言ったことにはおれも感銘を受けたくらいだけど……。でもさ、カレンにあんな友達がいるなんて、おれ、なんか凄く安心したよ」

「ん……。えへへ、リエリーは大好きな大親友だもん。あ、アルトは正確に言うと一昨日なんだけどね」

 その大親友リエリーには、アルトの存在があるからこそ、ボーイフレンドは一切作らないと心に決めていたことを話してある。それを危うくばらされそうになったのだが。

「何か言ったっけなぁ……」

 アルトは首をかしげたが、その途端、カレンがアルトの手を強く引っ張った。

「とにかく!わたしは二人のお陰で頑張ろうって思ったの!」

 カレンは再び前を向くと歩き出した。



 決めた部屋をある程度掃除し、何とか寝るくらいには不自由ないくらいにまで片付けると、アルトは早速女神の調べ亭へ向かい、今日から仕事をするつもりだった。

「お、アルト。今日はいいぞ。疲れたろ?大方カレンに引っ張りまわされたんだろうからな」

 アルトの姿を見るなりレイブックが言った。もうまもなく開店時間のせいか、トムスが早々と店の手伝いに出ていた。

「あ、俺、トムス。よろしくな」

 トムスはアルトに近付き右手を差し出した。その手を掴むとアルトも自己紹介をし、笑顔になる。しかしアルトに対するトムスは多少緊張した面持ちだった。少しして、ライナやレイナも手伝いに出てきた。カレンから名前と特徴は聞いていたので、見てすぐに判る。

「あたしライナ。で、このちっこいのがレイナよ。よろしくねアルト」

「レイナだよ。アルト、よろしくね!」

 アルトは二人にもう一度自己紹介をし、握手を交わすと布巾を手に取った。

「おいアルト、今日はいいって」

 レイブックはアルトを止めたが、アルトは笑顔で首を横に振った。

「大丈夫だよ」

 それだけ言うと、アルトは始めにピアノを拭き始めた。

「あはは、カレンと同じね」

「同じ?」

「そ、カレンもね、まずそのピアノなのよ、拭き始めるのが」

「そっかぁ。おれはね、このピアノで初めて星彩の途、聴いたんですよ。それにカレンのピアノを初めて聴いたのもこのピアノだったし。……だから、かな」

 アルトとライナが話していると、ちょうどそこにカレンが入ってきた。

 トムスはただ黙ってテーブルを拭いていたが、そんなトムスをレイブックがニヤニヤしながら見ていたことにアルトはまったく気付かなかった。

「こんばんはぁ……。あぁ!アルト、わたしの仕事、取っちゃだめ!」

 カレンは入ってくるなり、ピアノを拭いているアルトを目に留め、叫んだ。

「来るのが遅いのが悪いんですぅ」

 アルトは悪びれもせずにカレンに舌を出して意地悪くそう言った。

「しょ、しょうがないでしょお、ここのところ毎日レッスンの時間が延びてきてるんだもの」

「判ってるって、だから代わりにやってるんじゃないですか」

「あ、そ、そっか」

 トムスは急に客室の方へ足を向けた。そんなトムスをレイブックはニヤニヤと見続けている。

「……な、なんだよ」

「我が子ながら情けないと思ってさ」

「う、うるせーなっ」

 トムスは顔を真っ赤にしながら言うと、逃げるように客室へと上がって行ってしまった。

「?」

「トムス、どうしたんだ?」

 アルトはカレンと顔を見合わせたあとにライナに訊いたが、ライナは軽く肩をすくめて、笑顔になっただけだった。


 店を開けてから二時間ほど経っただろうか、カレンはエプロンを着けたままでピアノを弾き始めた。

 アルトは厨房で皿を洗いながらカレンの奏でる旋律に耳を傾けていた。

「……何だろ?音が違うね、今日は」

「ん?そう言えば……。良い音だなぁ」

 レイブックはアルトの言葉を聞いて、注意深くカレンの奏でる音色を聴くと、その変化に気付いた。今カレンが弾いているのはミディアムテンポの明るい曲だったのだが、何と言えばいいのか、音色、音の感情が聴き取れるような、そんな感じがカレンのピアノから溢れ出ているような感じがしたのだ。

「随分と嬉しそうな音に聞こえないか?」

「……楽しそうな感じがするけど」

 アルトは皿を洗う手を止めて、カレンの音色に耳を傾けたようだった。

「ま、どっちにしろ良いことさ。クレアさんも感情を音にできる人だった。血は争えんってことだな」

「そうだね。それに色々と吹っ切れたみたいなんだ、カレン。名前のこととかさ」

「なるほどな、何にしてもこの調子なら優勝は間違いないってことさ」

「はは、そうだろうね」

 アルトはレイブックの言葉に笑顔を返した。その途端、アルトは手に持っていた皿を取り落としてしまった。

「……!」

「お、早速やりやがったな」

 レイブックは特に怒るでもなく、さも当たり前のことのように笑顔でそう言った。

「あ、ご、ごめん、おじさん……」

 アルトは慌てて皿の破片を片付けようとしたが、そこにトムスが割り込んできた。

「待て待て!手ぇ切ったらどうすんだよ!」

 そう言いながらトムスは体ごとアルトの目の前に割って入るようにして、慣れた手つきで皿の破片をあっと言う間に片付けてしまった。

「ったぁく、ギター弾きなんだからもっと手には気ぃ使えよなぁ」

 トムスはアルトに笑いかけた。しかし、その瞬間、トムスの表情は凍り付いた。そんな二人のやり取りを見てレイブックも口を出す。

「おい、だから今日はいいって言っただろ」

「なんだよ、皿の一枚くらいさ、気にすんなって。カレンなんか一日で十五枚も割ったことあるんだぞ。……それとも具合でも悪いのか?」

 トムスはアルトをフォローしているようだった。それもそもはずで、アルトの顔は見る間に土気色に変わり、額に大粒の汗を浮かべている。レイブックとしてもこんな状態のアルトを働かせる訳には行かない。

「あ……レイおじさん、トムス、ごめん、ちょっと貧血かな……か、顔洗ってくる……」

 アルトはそう言いながら、二階にある客室と客室の間を通っている廊下へと向かって行った。


(頼む、まだ、こないでくれ……!)

 左腕にほんの一瞬、激痛が走った。いつもの発作ではないが、今も鈍い痛みが後を引いている。このまま発作になるかもしれない。

「ぐっ……!」

 二階の一番奥にある洗面所のドアを開けようとした途端、発作が始まった。アルトは中に入ると、何とか右手でドアを閉めて鍵をかけた。

 歯を食いしばる。食いしばった瞬間、びきり、と耳朶が響き奥歯が欠けた。鈍く激痛を発する左腕を押さえる。視界が暗くなり、平衡感覚がなくなって行く。立っていられなくなったアルトはそのままドアを背にして、もたれるように崩れ落ちて行った。

 ――どのくらい時間が経っただろう。もしかしたら気を失っていたかもしれない。

 徐々に痛みが引いて行き、視界も元に戻ってきた。

「アルト!アルトッ!大丈夫?」

 ドアをノックしながらカレンが声をかけてきた。

 アルトは慌てて水道から水を出すと、鍵を外し、左手を確かめるように動かしながら、顔を洗った。

 すぐにカレンが入ってきて、アルトは誤魔化すようにカレンのエプロンで顔を拭く。

「わぁ……。あっ、あああぁ、あっあっ!」

 どうすることもできないのか、カレンは一応抵抗の意をこめたような声を上げる。

「ふぅっ!」

 アルトは顔を上げたが、顔色はまだ良くはなっていないことは自分でも判る。

「ちょっと、顔色、悪いよ……」

「あぁ、何か急に目眩がさ……。皿、一枚割っちゃったよ」

 自然に出てきた笑顔に、アルト自身も安心しながら少しおどけた感じで言った。

「もう……。驚いちゃったじゃない。少し休んでて、わたしがやるから」

「もう大丈夫だよ。トムスが言ってたぞ、カレンは一日で十五枚も皿割ったって」

 アルトの言葉にカレンは顔を赤くして大声を出した。

「じゅ、十四枚だもん!」

「ははは、トムスによく言っといた方がいい、一枚多いってさ」

 そんなアルトを見て、カレンはアルトの具合がそう悪くはないと判断したのか、洗面所を出て行こうとした。

「もぅ、いいから、アルトは休んでて」

 カレンはそう言い残し、そのまま厨房に向かって行った。どうやら何とかカレンは誤魔化せたようだ。それに相反して、アルトの不安が増して行く。

 得体の知れない痛みに恐れ戦きながら毎日を送って行く。不安でないはずがない。

 それでも今、カレンに知られる訳にはいかない。大切なコンテストが控えているのだ。余計な心配はかけられない。

「……クレイおじさんに話してみるか」

 アルトは洗面所を出ると、階段を降り、フロアに出た。

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