V:Canon
トゥール公国 主要地方都市 フィデス市 ランズウィック邸
アルトはクレイトフとカレン、リア、マーティン、そしてクレアの遺影の前でもう一度風の道標を弾いた。
そして軽く談笑した後、アルトはカレンの部屋に招かれた。
その間も、リアの好奇心剥き出しの視線と、マーティンの監視者のような視線がアルトの身体のありとあらゆるところに突き刺さるようだった。リアはともかく、マーティンは子供の頃には何度も会っているはずなのだが、本当に自分がアルトなのかという疑いを捨てきれないのかもしれない。それもあの元気で頑固な老人らしいと思い、アルトはあえて何も言わず、カレンの部屋に向かった。
カレンの部屋は良く片付けられていた。マーティンやリアがいるというのに自分でやっているのだという。大きな出窓に可愛らしい色合いのカーテンと彩り豊かな小さな鉢植えがいくつか。大きなベッドにアップライトピアノと机があり、アルトはアップライトピアノの椅子に腰を下ろした。
「母さんが死んじゃってから、ぜんぜん手紙くれなくなっちゃったでしょ?だからもう二度と会えないのかなぁって思ってたの。ほんとは」
「手紙?クレアおばさんが亡くなってからは一通も手渡されてないけど……」
アルトは考え込んだ。最後に読んだ手紙は確かにクレア・ランズウィックの訃報だった。それ以来手紙をくれなくなったのはカレンの方だと思っていたアルトは考えを改めた。それまでの手紙の量とカレンの性格を思えば、そんなに唐突に手紙を辞める訳がない。
「え、その後もたくさん出したのに……」
やはりそうだ。カレンはあれからも手紙を書き続けてくれていた。そうなれば原因は一つだ。
「おれは読んでない……。多分親戚が捨てたんだ。酷い、人達だったから……」
アルトは苦笑混じりにそう答えた。もしもカレンの手紙を手渡され、それを読んでいたのなら、きっとカレンを勇気付けるためにマーカス市を飛び出していただろう。後先など何も考えずに。
「親戚ってどういう関係の親戚なの?」
「あぁ、親父の兄。伯父にあたる人だよ。おれ、実はカレンと同じで貴族の血を引いてるらしくてさ、そもそも親父は貴族の家系と気質が気に入らなくて旅に出たんだ。そして、旅の途中、ナイトクォリー市で母さんに、リーリエ・リーンファルトに出会っておれが生まれたんだって。そう聞いたことがある」
カレンはベッドに腰掛け、アルトの話に耳を傾けている。会えなかった八年間という年月の間に、一体アルトに何が起こっていたのか興味があるのだろう。それはアルトにしても同じことだが、今はカレンが話を聞きたがっている。カレンの話はまた次の機会にでも聞けば良い。明日も明後日も、カレンの顔を見ることができるのだから。
「ウェインおじさんのお兄さん?」
「そ。母さんは普通の村娘でさ、その普通の村娘と結婚した親父はグラナート家から切り離されたんだ。でも伯父さんの奥さん、まぁ、おれにとっちゃ伯母さんなんだけど、その人が強欲な人でね……」
伯父と結婚したのも玉の輿を狙ってのことだ、という噂が絶えない人間だった。実際その生活も子供こそいたが、ただただ淡白な日々を過ごしていただけだった。アルトもウェインの息子というだけあって物質面では不自由のない生活を送らせてもらってはいたが、家族の愛情など皆無でウェインと旅をしていた頃の方が楽しい日々を送れていた。ただただ学業と音楽を強いられるだけの息苦しい毎日を送っていた。
「結婚して、ほんの少しだけどナイトクォリー市では有名になりつつあった親父を母さんと離婚させてまでグラナート家に引っ張り込もうとしたんだって。親父のギターで私腹を肥やそうって、そう思ってたみたいなんだ」
淡々とアルトは語った。
自分の生まれる前のできごと。それも父から聞いた話だ。グラナート家を憎む気持ちもないではないが、自分もやはりグラナート家を嫌い、ギター一本を頼りに旅をしてきたウェインの息子なのだという思いの方が強く、その思いはアルトの誇りだった。
「その時母さんはおれを身籠っててね。当然親父はグラナート家との全ての関係を断ち切って母さんの傍にいたんだけど、母さんはおれを生んですぐに死んじゃったんだ。それでも親父は家には帰らなかった。それほど親父はね、グラナート家を嫌ってたんだよ。……そういう人達の集まりなんだ、グラナート家の人間ってのは」
アルトは言い終えるとカレンの顔を見て驚きながら立ち上がった。カレンの大きな瞳にはもう溢れんばかりの涙が溜まっていたのだ。
「え、な、何もカレンさんが泣くことないじゃないですか」
アルト何故か奇妙な敬語になりつつカレンの隣りに座ってぽんぽんとカレンの頭に手を乗せた。
「だって、だってひどいよ。アルトだって可哀相だよ!」
しゃくりあげながら話すカレンは優しい。捨てられた自分の手紙より、アルトの生い立ちやウェインの過去に泣いてくれるカレンをアルトは心から愛しいと思える。今まで暮らしてきたグラナート家では決して得られることのなかった優しさ、温かさ。そんなものをカレンは与えてくれる。
「そんなことないよ。親父が母さんと結婚しなかったらおれは生まれてこなかった訳だし、ずっとグラナート家にいたらここにだって来られなかった。……カレンにだって会えなかったんだ」
今自分はこうして父がいなくてもこの瞬間を幸せに過ごすことができるのだから。
「……」
そう言いながら、それでもアルトは複雑な心境になった。
父が死んだのはこの街に来たからではないのかと。クレアやレイブック、この街の優しく、暖かな人々と触れ合わなければこの街に長居することもなかったのではないのか。
(馬鹿なことを……)
アルトはそんな考えに後悔した。
それを考えて、考え尽くしたところで、何になるというのだ。例えばこの街に留まらず、他の街にいたとしてもクレアの病は発症しただろう。カレンやクレイトフの不幸は変わらず訪れてしまっただろう。父は、もしかしたら死ななかったかもしれないが、不幸は誰かに必ずやってくるものだ。
もしかしたら。
あの時こうしていれば。
そんな仮定は何の役にも立たない。今残されているのはたった一つの現実のみだ。それを見詰めて生きていかなければならないことはグラナート家を出る時に判っていたことだった。
この街でカレンと出会わなければ、女神の調べ亭でウェインがギターを弾かなければ、あの時、あの場にカレンがいなければ、自分はギター弾きになろうなどとは思わなかったかもしれないのだ。
(親父もクレアおばさんやクレイおじさん、レイおじさんたちに会えて良かったって言ってたもんな……)
これで良かったのだ。自分にとっては。
他の人にも少なからず不幸があっただろう。けれどみんな今を懸命に生きている。
笑うことを忘れずに。
「あ……」
アルトはカレンの机の上に置いてある五線譜を見つけた。何の気もなしにそれを手に取ろうと机に歩み寄った途端、カレンが慌てて机に駆け寄った。
「だめぇ!これは、見ちゃだめっ!」
ばばっ、と上半身で机を覆い隠すように五線譜を隠した。
「え?な、なんで……」
あまりのカレンの迫力に、アルトは狼狽する。
「な、なんでもない」
カレンは赤面してアルトに言った。
(……あやしい)
「なんでもないなら見たっていいじゃないですか」
「み、見たってしょうがないから、こんなの」
ますます怪しい。アルトは一旦諦めて、ベッドの上に腰を下ろした。
「なんで見たってしょうがないって判かるんだよぉ」
(あ、判った)
アルトの突然の閃きはすぐに確信に変わった。
「カレンのオリジナルだ、それ!」
「ち、違うもん」
カレンはその五線譜を抱きかかえて放そうとしない。これは間違いなくカレンのオリジナルメロディだろう。
「なんだ、違うのか。ざぁんねん。もしそれがオリジナルなんだったらおれのオリジナル、聞かせてあげようと思ったのになぁ……」
アルトはさも残念そうに言った。はぁーあ、とわざとらしく溜息を吐くことも忘れない。
「え?アルトもオリジナル作ったんだ。すごぉい、聴きたいな、それ」
(アルトも?も?)
アルトはあえてカレンの出したボロを指摘せずに話を続けようとした。絶対自分の口から言わせてやる、と半ば意地にもなってくる。
「いやいや、結構オリジナルコード作ってマッチさせるのって大変でさ、そこから普通のコードとか、親父のコードにどう自然につなげるかとか、色々考えましたよ。ピアノだってそういうこと、あるでしょ?」
初歩中の初歩。極々簡単な誘導尋問だ。子供の頃のカレンは意外とお間抜けなところがあって、こういうことには引っ掛からずにはいられなかったのだ。果たしてそれは今も変わらないだろうか。
「うん……。実はわたしもそれ、悩んでるんだ」
「……」
アルトの返した無言に、カレンは小首をかしげ、は、と何かに気付いた。可愛らしい表情のままで凍り付いてしまった顔が、見る間に赤面して行く。
「……ずるい」
まんまとカレンは引っ掛かった訳だが、あの頃と少しも変わらないカレンを見て、アルトは微笑みを浮かべた。
「ずるい、ずるいずるぅい!」
「引っ掛かる方が悪いんですぅ」
アルトはカレンの小さな拳の応酬と共に発せられた抗議に悪びれもせず、舌を出して言った。
「ま、冗談はさておき、ほんとに創ってるんだ。聞かせてよ」
「だめ」
カレンは上目使いにアルトを見て、五線譜を更に強く抱きかかえた。五線譜は半ばひしゃげてしまっている。
「いいじゃないですか。聴きたいなぁ、おれ」
「だめ」
意外と強情なお嬢様だ。強情なところは誰に似たのか……。それでもアルトは執拗に食い下がった。別にからかっている訳ではない。本心から聴きたいと思っているだけだ。
「えぇ、何でだよぉ、聞かせてくれてもいいじゃん」
「だめって言ったらだめなの!へ、変なんだもん」
「嘘だ!クレアおばさんの一人娘が人に聞かせられないような変な音、創るもんか」
殆ど意地の張り合いになっている節があるが、しかしこの戦いに勝利したのはアルトであった。アルトが発したのはカレンの言葉を詰まらせるだけの威力を秘めた、いわば必殺の一言だ。
「……全部、できたらね。そしたら一番に聞かせてあげる」
「よぉっし、約束だぞ、約束したからな、カレン!」
「うん。約束……。じゃ、アルトの曲、聞かせて」
カレンはアルトの顔を覗き込むようにして言った。
「え、今ですか?」
「うん、今」
アルトは思わぬカレンの反撃に目を丸くした。小首をかしげながら言うカレンがとても可愛らしく見えて、今度はアルトが赤面した。
「そ、そろそろ寝る時間じゃない?明日にしようよ」
「だめ」
立場が逆転してしまった。アルトが赤面する代わりに、今度はカレンが駄々をこね始めたようだった。ただ、カレンのその気持ちは良く判る。アルトもカレンと同じ気持ちでカレンのオリジナルを心の底から聞きたいと思ったのだから。
「……わかりましたよ」
アルトは半ば諦めにも似た心境で言ったが、本より聞かせてやらないなどとは微塵も思っていなかった。
ただ、いざ弾いて聞かせるとなると、カレンと同じく恥ずかしい気持ちはあったが。
アルトは父、ウェインのギターをケースから取り出すと、手早く音合わせを始める。先刻風の道標を弾いたばかりだったので音律の狂いは殆どなかった。
んんっ、と一つ咳払いをして、
「いくよ」
カレンが期待の眼差しで小さく頷くのを見ると、アルトは最初のコードをゆっくりとかき鳴らした。
カレンはゆっくり瞳を閉ざした。
まるでアルトの奏でる旋律を一音も聞き逃すまいとしているようだった。
―― The setting sun burns a blue horizon. One flower shakes to a wind and tells early summer.
The traveler who loved the wilderness rides on a horse and makes a highway run freely all day long.
Draw the blue sky which is not forgotten on a dream.
The guitar is played and a morning is felt with usual music.
How far do you take the body which took a solar shower today?
Shower my body with sunlight Where can you take me today
Where can you go on from here Don't be worried. It is audible. Your voice ――
「カレン?」
アルトは心配そうにカレンの顔を覗き込んだ。
「え?な、なに?」
「な、何故に泣いてるんですか」
困惑気味になったアルトが何を言っているのか、カレンには判らなかったようだった。
しかし、いつのまにか自分の頬に流れていた熱い涙が、滴となり手の甲に落ちると、カレンは慌てて涙を拭った。
「え?え?あれ?おかしいな、どうしちゃったんだろう……」
アルトはカレンの涙が止まるまで何も話さなかった。
「凄いんだ……」
「へ?」
カレンの突然の言葉に、アルトは奇妙な返事を返すのが精一杯だったのか、変な声を出した後、慌てて言葉をつなげた。
「べ、別にあれくらいはさ、ずっと長いことやってりゃあさ、親父のコードだって使ってるんだし、それに、あの、えっとさ……」
上手く言葉が繋がらない。カレンはそんなアルトを見て、くすくすと笑い出した。
「ふふ、あはははははっ、おっかしぃアルト」
くすくす笑いが段々大きくなって、カレンはやがて我慢しきれなくなって大きな声で笑い出した。当然の如くアルトには何故だか判らない。
「?」
「だって、別に意地悪されて泣いた訳じゃないのに、アルト、なんだか済まなそうに話してるから」
「そ、そっか、そうだよな。あぁびっくりした」
アルトは勘違いを認め、照れ笑いを浮かべた。アルトの笑顔を見たカレンの笑顔は微笑みに変わって行く。
「ありがとう、アルト。わたしも頑張って完成させるね」
「約束、したもんな」
アルトはギターケースにギターをしまいながら、カレンに言う。カレンはそんなアルトの言葉に力強く頷いて見せた。
「……じゃ、寝ますか。あ、そうだ、おれ明日からでもすぐ部屋探さないといけないからさ」
ギターケースを持ち、アルトは早々にカレンの部屋を出ようとした。
「それじゃあ、わたしも一緒に行くね。父さんのお友達にアパートの管理人さんが何人かいるから、そこ行ってみようよ。あ、それから隣だからね、アルトの使っていい部屋」
「了解。んじゃあ明日は案内頼むよ、カレン。……お休み」
「うん。お休みなさい、アルト」
パタン、と扉を閉め、アルトは隣の部屋へ入ったようだった。
あてがわれた部屋の扉を閉めると、アルトはギターケースを取り落とした。カレンに聞こえたかもしれないが、それに構っていられるだけの余裕は、今のアルトにはなかった。
その表情は蒼白で、額には大粒の汗が浮いている。
よろめきながら、何とかベッドまで辿り着くと、そのまま崩れ落ちるようにベッドに倒れ込む。
「っぐ……」
左腕を抱きかかえたアルトの口から押し殺した呻き声が漏れた。
そのまま身じろぎもせず、いくばくかの時間が過ぎると、アルトは顔を起こした。
鈍く、重く、そして激しく、アルトの左腕を急激に襲う原因不明の激痛。
それがはっきりと判ったのは一年ほど前だ。それまでは何となく左手がだるくなる程度だったのだが、月日が経つ毎に痛みを伴うようになり、その痛みが酷くなってきた。発作的なものなのだが、最近は意識が朦朧とするほどの激痛が襲ってくる。徐々に症状が酷く、広くなってきているのは自分でも判っていた。
今もカレンの部屋を出るのが少しでも遅れていたら、カレンの目の前で倒れてしまうところだ。
カレンには余計な心配はかけたくはなかった。せっかくこの街に帰ってきたというのに、帰ってきたことを喜んでくれたというのに、心配はかけられない。それにカレンは大事なコンテストを控えている。猶更に隠し通さなければならないことだ。
「どうなっちまうんだ、おれの腕は……」
震える左手を見据え、アルトは微かに笑った。
不安に満ちた絶望の笑顔だった。
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