IV:Concerto
トゥール公国南西部 主要地方都市
フィデス地方 リーンの村 女神の調べ亭
驚きを隠せないまま、いつもならば眠たそうなたれ目を今は見開いてレイブックは風の道標を奏でる青年を見詰め続けている。
「まさか……。アルト、なの?」
レイブックのすぐ隣でカレンは一人呟き、目を閉じると形の良い眉根を寄せ、昔の記憶を引っ張り出そうとしているかのように、僅かに唸った。
「……」
レイブックも青年の姿を見詰めながら、記憶の探索を続ける。そうだ、ウェイン・リーンファルトの最期にこの曲を弾いて贈ったのは、たったひとりの息子、アルトではなかったか。
(もう一人はクレア・ランズウィックですよね)
(……ランズウィック?)
レイブックの脳裏に突如疑問が過った。
先程青年は二大音楽家の一人をクレア・ランズウィックと言った。
クレアが最も有名だったのは、フィデス交響楽団のピアニスト時代だ。その頃は結婚前だったので、クレアの姓はグリーンウッドといった。グリーンウッド家は代々フィデス市に名を馳せる貴族の末裔の名でもある。だから、今でも二大音楽家のクレアといえば大抵の人間はクレア・グリーンウッドと言うはずなのだ。
それなのに、二大音楽家と称されるクレアの名を結婚後の姓、ランズウィックで呼ぶということはクレアが結婚をして、なおかつピアノを弾いていたことを知っている人間に限られる。このリーンの村の住人であればその事実を知らない者はいないにしても、旅の楽士の耳に入るクレアの名となれば、それはクレア・グリーンウッドのはずだ。
(あのピアノ、今、弾く人はいるんですか?)
そして青年は店のピアノを過去に誰かが弾いていたことも知っていた。そうでなければあんな質問の仕方はしない。そして、初めてウェインと出会ったあの夜から始まった、レイブックの口癖、トゥール公国一美味い飯、のことも。
あの青年がアルトならば、全ての辻褄は合う。
青年が最後のコードをゆっくりとアルペジオする。
一瞬遅れて割れんばかりの歓声と拍手喝采が店内に響き渡る。青年はそんな人達に何度も会釈をすると、カウンター席に戻ろうとした。
そんな青年の下にカレンが慌てて駆け寄った。青年は間違いなく先日クレアとぶつかってしまったあの気の良さそうな青年だった。
「あ、あの!……とっても素敵な曲、ありがとうございました。今度はわたしのピアノ、聴いてもらえますか?」
カレンは飛び出さんばかりに激しい動悸の心臓を押さえるように、胸元に手を当ててそう言った。
その昔、古き良き頃、風と星彩が初めて出会った時の再現をしていることに、彼らは気付いていない。
昔の、あの時、あの夜の優しい時間が、ほんの一瞬だけ戻ってきたようで、レイブックの胸が熱くなる。
「あ、きみ……。あのピアノ、きみが弾くんだ。楽しみだよ」
青年は笑顔で言って、カレンがピアノにつくのを見届けるとカウンター席に戻った。
(なるほど。嬉しかった、か……)
レイブックは先ほどとは明らかに違った表情で青年を出迎えた。本当に音楽を愛している人達の間で、自分の父、ウェインと、母親にも相当するクレアが今でも慕われているのだ。本当に嬉しかったのだろう。
「……アルト、だったんだな。済まない、気付いてやれなくて」
アルトと呼ばれた青年も先程よりも表情を崩して笑った。
「いや、おれも驚かせようと思ってわざと黙ってたんだけど、本当に忘れられちゃったのかと思っちゃった。もう八年も前だもんね」
青年、アルトは砕けた口調でレイブックにそう言った。
「あの娘、カレンでしょ?雰囲気は変わってなかったから、もしかしたらって思ってたんだ。それにクレアおばさんにそっくりだよ」
「あぁ、そっくりなのは顔だけじゃない。巧くなったろ?カレンのピアノも」
レイブックは流れ始めた星彩の途を聴きながらアルトに言った。まるで自分の娘を自慢するかのようだったが、レイブックは自分の三人の子供達も、カレンも変わりなく愛しているのだ。
「おれ、カレンのピアノ、初めてなんだ。あの頃はまだ子供できちんとした曲は弾けていなかったからね」
「そうか。じゃあゆっくり聴いてくれ。話はそれからだ」
「うん……」
アルトは星彩の途の優しく、穏やかなメロディの中、そっと目を閉じた。
(クレアおばさんの星彩の途、数えるほどしか聴いてなかったけど、覚えてる。ちゃんと覚えてるよ……)
何か言い知れぬ暖かなものが溢れ出てくるような、そんな感覚にアルトは包まれた。子供の頃にも同じ感覚が込み上げてきたことを思い出し、ゆっくりと目を開く。今この心暖かな調べを奏でているのはクレア・ランズウィックではない。カレン・ランズウィックだ。その姿を己の瞳に、心に刻み付けるように、アルトはカレンがピアノを弾く姿を見詰め続けた。
父が死んだ。
その時にずっと放さずにアルトの手を握ってくれていたカレンの暖かな手。
いつまでも一緒に泣いてくれたカレンの熱い涙。
ずっと泣くことしかできなかったアルトとカレンをそっと包んでくれたクレアの陽だまりのような暖かさ。
つい昨日のことのように思い出すことができる。
心優しい調べが終わり、女神の調べ亭は再び拍手の渦に飲み込まれた。
「星彩の途、忘れてなんかなかったよ、カレン……」
アルトはピアノから立ったカレンを笑顔で迎えた。その周りには昔馴染みの客や、レイブック、エルーミが立ち並び、囲むように自分達を見守ってくれているようだった。
「わ、わたしだって……」
言葉を詰まらせたカレンの瞳には、いっぱいに涙が溜まり、溢れる寸前だった。
「久しぶりだな、カレン」
カレンの涙が溢れるのと同時に、カレンはアルトの胸に飛び込んできた。アルトは微笑みながらカレンの頭を撫でる。
「ずっと、待ってたんだからね!……ずっと!」
言葉にならない。言いたいこと、伝えたいことは山のようにあるはずなのに、カレンの髪の香り、そして自分の腕の中にある温もりを感じた瞬間にそれらは全てどこかへ吹き飛んでいってしまったかのようだった。
そして言葉を詰まらせたカレンも恐らく同じことを思っているのだろう。
「ごめん。でもさ、カレンがピアノ続けててくれて良かった。クレアおばさんが亡くなってから、ピアノ諦めちゃったのかと思ってたからさ」
ポンポン、とカレンの頭に軽く手を置いてアルトは言った。
「カレン、クレイさんに早く知らせてあげな」
レイブックがカレンに優しくそう言って、アルトの肩に手を置いた。
戻ってきて本当に良かった。この街の人達は暖かい。カレンやレイブック、昔ながらの女神の調べ亭の気のいい音楽好きな常連達。
父の言葉に嘘偽りはなかった。
(いい風が通る街には悪い人はいない……か)
あの頃はまだ子供で、父の言葉の意味が良くは解らなかったが、今ならばそれが良く解る気がした。
「うん!」
カレンはアルトの胸の中で顔を上げ、涙を拭くと笑顔でそう答えた。
カレンとアルトはもうすっかり日の暮れた街道を歩いていた。
夕食時を過ぎ、通りには隊商や露店の姿こそないが、人は意外と歩いていた。家や店から漏れる明かりが、石造りの街道を照らしている。
心地良い涼風と虫たちが奏でる音色が、アルトとカレンの再会を祝福してくれているようにさえ、カレンには感じられた。
「カレン、頭ぶつかったとこ、平気?」
「うん。アルトの石顎に負けてないもん、わたしの石頭も」
カレンはえへへ、と笑って軽く自分の頭を叩いた。
「ピアノ、巧かったなぁ。さっきのカレン、クレアおばさんよりも上手みたいだった」
「本当?嬉しい!」
今まで幾度となく言われてきた誉め言葉だったが、アルトに言われると本当にそんな気になってきて、嬉しさが段違いだった。カレンはアルトの賛辞に素直に喜んだ。
「でも、アルトのギターだって凄く上手だったよ。びっくりしたよ」
「ふふん、それだけ練習しましたからね。親父のオリジナルコードなんてほんと、弾けるようになるまで苦労したなぁ」
「このギター、おじさんのでしょ?凄く大切にしてるんだね。綺麗だもん」
カレンはアルトの右手にあるギターケースを見て言った。
良く見ればそれはウェインが使っていたものだということが判ったはずなのに、気付けなかった自分が悔しい。それだけの思い入れをアルトはこのギターに持っているはずだったのに。
尊敬する父であり、偉大なギター弾き。自分もいつかその高みまで辿り着いてみたい。そんな、カレンと同じ、アルトの想いがこのギターには込められている。
それは確信だ。
「……あのね、近いんだ、コンテスト。ピアニストの。……五日後なの」
上流音楽会への登竜門。カレンの母、クレアも同じ道を通った、ピアニストへの道。
「いい時に帰ってきたんだなぁ。でもさ、カレンなら大丈夫だよ。きっと」
(決めた。わたし、大きくなったら母さんみたいなピアニストになる!)
カレンは九年も前の誓いの言葉を思い出した。
「でもね、やっぱり不安なんだ。わたしには父さんと母さんの名前がいつもいつもついてくるから」
フィデス市二大音楽家の一人であり、王国時代の貴族の末裔でもあるクレア・グリーンウッドに医学博士であるクレイトフ・ランズウィック。コネクションや売名行為が、望もうが、望むまいがカレンの本心とは関わりなく付いてきてしまう。そんなものなどなくしてもカレンのピアノは言葉すらなくしてしまうほど素晴らしいものだ、と幾人も言ってくれた。
しかしそれでカレンの中の不安が消えてくれる訳ではない。
「気にすることないよ。関係ないさ、そんなこと。だってピアニストになっちゃえば周りから何を言われようが認めなくちゃなんないよ、カレンのピアノを聴いた人達は。カレン・ランズウィックのピアノは非の打ちどころがないって」
「……うん」
全てを自らの実力で示して行くしかないことは判っていた。だからこそ重圧を感じてしまう。どんな場所でも、何を披露しても、必ず「クレア・グリーンウッドの娘」という冠が付いてきてしまう。それを自らの力のみで跳ね除けて行かなければならない。
「それにさ、おれだけじゃ駄目かな。クレイおじさんやクレアおばさんの名前がなくったって、カレンのピアノが好きだっていうのが」
どうしても切り離せないものがあるのなら、それを認めて進んでいくしかない。それでも進むことはできるのだから。頭では判っていたことだ。幾度も考えた。しかしそれでも、全てを許容して進む勇気がなかった。しかし、同じ立場、同じ気持ちを持つアルトに言われると、何故だか頑張ってみよう、という気になってしまう。
現金なものだ、とカレンは苦笑にも似た笑顔になる。
「……そうね。そうだよね」
もっと、出会った頃からずっと一緒にいてくれたなら、こんな悩みなどなかったのだろう。
「わたしはもう少しだよ。もう少しで母さんみたいなピアニストになれるんだよ。……だから、今度はアルトの番だからね」
「ああ、解ってるさ……」
アルトは自分の左手を見つめながら、カレンにそう答えた。
「ただいま、父さん、父さん!」
カレンはドアを開けて、大きな声を出した。すぐにリアが顔を出し、玄関に近付いて来る。
「あらお嬢様、お早いですね、って!そ、そちらの方は?」
「あれ?リア?父さんは?いるんでしょ?」
カレンは一刻も早くアルトをクレイトフに会わせたいのだ。リアの言葉などまるで耳に入っていないようだった。事実、驚愕の表情で、口をパクパクさせているリアに気付かないままだ。アルトはその横で所在なくリアに会釈する。
「どうしたんだ、カレン。今日は随分と帰りが早いじゃ、ない、か……」
クレイトフはカレンとリアの声を聞き、書斎から降りてきたのだろう。玄関に来るなりカレンにそう言ってきたのだが、カレンと見知らぬ青年の姿を見た時、クレイトフは一瞬だけ自分の目を疑ったかのような表情をした。
「カ、カレン……。何も反対する気などないが、こんな夜に突然、その、何だ、ボ、ボーイフレンドを連れてくることも、ないだろうに」
半ば呆れたように、そして驚いたように言ったクレイトフの顔をカレンは満足そうに見ている。自分が気付かなかったのだ。父がそう簡単に気付いてしまったとしたら悔しい。
そのクレイトフにとって見知らぬ青年の一言で今の科白がとんだ勘違いだったことをクレイトフはすぐに知ることになるのだ。
「お久しぶりです、クレイおじさん」
アルトは深々と頭を下げ、クレイトフにそう言った。カレンはただにこにこしている。
「ま、まさか……」
クレイトフは感嘆の声と共にゆっくりとその青年の顔を見ながら二人に近付いた。手に持っているギターケースはもはや確信だった。
「おぉ……。アルト、久しぶりだ、本当に……。お帰り、と言わせてもらっても良いかな……」
クレイトフはアルトを抱きしめた。まるで自分の息子を抱くようなそのクレイトフの振る舞いにカレンは更に満足して笑顔になる。
「ただいま……」
クレイトフの暖かな言葉にアルトはゆっくりと答えた。
「レイおじさんね、最初アルトだって判らなかったのよ。アルトが風の道標を弾いてやっと判かったんだから」
カレンは言った。アルトはその言葉を聞いて、意地悪い笑顔になるとカレンに言い返してくる。
「カレンさんだって判らなかったじゃないですか、おれとぶつかった時」
アルトは悪戯っぽく笑って言ったが、カレンもアルトが自分のことを棚に上げていることを判っていた。
「アルトだって判んなかったくせにぃ!」
いーん、とカレンは顔をしかめて、すぐ笑顔に切り替える。アルトも笑顔を苦笑に変え、頭を掻いた。
「しかし、本当に良く帰って来てくれたね、アルト。今日は泊まっていってくれないか?風の道標、私も久しぶりに聞かせてもらいたいしね」
クレイトフはそう言ってアルトの肩に手を置いた。
「じゃあ、今日はお言葉に甘えさせていただきます」
「さ、中に入ろう」
クレイトフはアルト、カレン、リアを促して家の中へと入って行った。
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