III:Elegy
トゥール公国歴 三一八年
ウェインとアルト、リーンファルト父子がここ、フィデス市に訪れてから一年が過ぎた八年前。
ウェインはその人柄を買われてかすぐに定職を見つけ、時々女神の調べ亭でクレアと演奏会を行ったりと充実した日々を送っていた。
何とかアルトもカレンと同じ学校に入れることができて、父子ともにフィデス市に永住を望まれていたほどであった。
そんな中、不幸はあまりにも突然に訪れた。
ウェインが荷馬車に轢かれそうになった小さな子供を庇い、命を落としたのだ。
その惨劇は息子であるアルトの目の前で起こってしまった。
――良い風が通る街には悪い人はいないものだよ、アルト――
ウェインがフィデス市にしばらく住む、と言った時にアルトに言って聞かせた言葉だ。
以前いた街では、ウェインの曲を盗んだギター弾きが、逆にウェイン・リーンファルトが曲を盗んだのだと触れ回り、とんだ濡れ衣を着せられることになってしまった。それが騒ぎになってしまい、その街から出ざるを得なくなってしまった。
そういったことを心配していたアルトに、ウェインはそう言って聞かせたのだ。
(父さんはうそつきだ。だって父さんがたおれてるのにだれも医者の人を呼んでくれなかったじゃないか。レイおじさんがたまたま通りかかって、やっと医者の人を呼んでくれて……。もしかしたら父さんは死なずにすんだかもしれないのに)
アルトは父の言葉を呪ったが、皮肉にもウェインが轢かれた時は即死だった。
何の力もない子供だったアルトはただ泣き続けることしかできなかった。
クレアはアルトとカレンを抱き、自らもまた静かに涙していた。
葬儀はクレイトフとレイブックが全て手配してくれた。女神の調べ亭の常連客やクレア、クレイトフの友人、この街でウェインを知る者全てが葬儀に出席し、ウェインを弔ってくれた。
アルトはこの一年で必死になって覚えた風の道標をウェインの最期に贈った。
子供の小さい手では奏でられないコードも多く、お世辞にも巧いとは言えない演奏ではあったが、この曲を知るすべての者が涙と共に唄い、知らない者は是非聴いてみたかったと悔やんだ。
行きずりの旅の楽士が亡くなったにしては壮大すぎるほどの葬儀であった。
そうして葬儀を終え、しばしランズウィック家に身を寄せていたアルトは、フィデス市の南に位置するマーカス市に暮らす親戚に引き取られ、フィデス市を後にした。
その後、カレンとは手紙のみのやり取りしかできなくなってしまっていた。
それから更に三年、トゥール公国歴三二一年。
カレンの母、クレア・ランズウィックも逝く。
奇病だった。
医者であるクレイトフでさえ奇病としか言えない症状に打つ手もなく、ただ最愛の妻が逝くのを見送ることしかできなかったのだ。
ウェインが亡くなり程なくして、右足の不調を訴えていたのだが、それが時を経るごとに全身に回るかのように病状が進行して行き、最後にはピアノを弾くことはおろか、立つことすらできず、寝たきりになってしまった。
アルトはそれを手紙で知り、クレアの葬儀に出席しようとしたが、マーカス市を出ることは許されなかった。有名な楽士にさせる、という親族の言いなりになるしかなかったのだ。何の力もない子供のアルトには。
一方のカレンはそんな悲しみの中、ピアニストになる望みをより強め、懸命にレッスンに励んだ。
必ず、アルトとの約束通り、母のようなピアニストに、と。
その頃からいくらアルトに手紙を書いても一向に返事が来なくなってしまっていた。
女神の調べ亭のマスター、レイブックは弾き手がいなくなった女神の調べ亭のピアノはこのままずっと残しておくと決めた。
何時の日か、カレンがこのピアノを弾く日がくるかもしれない、アルトが帰ってきてギターを弾いてくれるかもしれない。そんな思いと、初めてクレアがこのピアノを弾いた時の思い出や、ウェインとクレア、風と星彩が初めて出会った時の思い出を壊したくない、という思いからのことだった。
そしてその思いの一つは報われた。カレンが三度目の奇跡を起こした日に。
トゥール公国歴 三二六年
トゥール公国南西部 主要地方都市 フィデス地方 リーンの村 女神の調べ亭
「こんばんはぁ!」
夕方、時間にして一八時ほど。カレンの元気な声がレイブックに届く。どうやらこの間は帰ってから執事のマーティンにこってりと絞られたてしまったらしいので、今日はきちんとピアノのレッスンを受けてからきたのだろう。
「やぁ、カレン」
「あら、今晩はカレンちゃん」
カウンターに出ていた妻、エルーミ、子供達に常連客がカレンを迎える。そして、カレンのすぐ後に一人、客が入ってきた。今日はやけに客が多い。早速手伝いにかかろうとしていたカレンがエプロンを身に付けながら、いらっしゃいませとだけ言って厨房の中へ入ってきた。
レイブックは厨房からカウンターへ出ると、直ぐに見慣れない客に目をやった。客は裾が少し汚れた外套を羽織っていた。まだ少年の域を脱してはいないほどの青年だったが、旅人だろう。年の頃はカレンと同じくらい。右手にはかなり使い込まれた古いギターケース。青年は、カウンター席に着いた。
「お客さんギター弾きかい?珍しいねぇ」
若いのに大したもんだ、という気持ちを込めて青年に言う。
元々ギターという楽器はそれほど歴史が古い訳ではなく、弦楽器ならばリュートやマンドリン、バイオリンやチェロといったものが主流だ。その人口もギターとは比べるべくもない。ギターという楽器が音楽協会に認められたのもつい最近のことで、やはり人気があるのは花形であるピアノやリュート、バイオリンだ。楽団に入れるかどうか判からないギターよりも、やはり既存の楽器の方が楽団にも認められやすいという傾向はまだまだ強い。それ故に未だギター人口は少ない。
「えぇ、まぁ……」
レイブックの気持ちが通じたのか、どことなく恥ずかし気に青年は笑ったようだった。
「で、何にしますかね?」
ごく僅かに感じた既視感と、青年の笑顔に気分が良くなり、レイブックは言った。
「何か、軽く腹に溜まるものを」
青年は自分の腹の辺りをぽん、と叩いた。そして苦笑混じりの嘆息を一つ。どこか諦めを感じさせる苦笑だ。
レイブックはそんな青年を見るでもなく見て厨房に入って行こうとした。
「すみません」
レイブックを呼び止める青年の声に、他に何か?と訊きながらレイブックはカウンターに歩み寄る。青年の視線がピアノに向けられていることにレイブックは気付き、不思議顔を作った。
「あのピアノ、今、弾く人はいるんですか?」
「あぁ、いるよ。もう少しすれば聞けると思うけど」
「そうですか……。ありがとうございます」
安堵したような表情を見せた青年を後にしてレイブックは厨房へと向かった。
「はい、お待ちどう」
レイブックは青年にそう言うと、料理を青年の前に置いた。なにやら店の中を見回しては考え、時折笑顔になったりもしていたようだったが、料理を青年の目の前に置いたとき、青年も笑顔を返してくれた。
「これは旨そうですね、いただきます」
そう言ったかと思うと青年は物凄い速さで鶏の腿肉、厚焼きのパン二つ、ジャガイモのスープを平らげてしまった。
唖然としながら青年の喰いっぷりを見ているとレイブックは何となく気分が良くなった。自分の料理をこうまで豪快に食べてくれれば料理人冥利に尽きるというものだ。
「いい喰いっぷりだねぇお客さん。いやぁ若者はこうじゃなくっちゃね」
「あ、あぁ、ご馳走様です。旨かったぁ……」
青年はレイブックの明るい口調に乗って、少しおちゃらけたように言うと優しく、人好きのする照れ笑いを見せた。相当に空腹だったのだろう。夢中で食べていたせいか、レイブックがすぐ傍で見ていたこにも気付いていないようだった。
「そうだろう、そうだろう、なんたってうちの飯は……」
「トゥール公国一、ですよね」
青年はレイブックの言葉に割り込んだ。レイブックはその言葉に少し驚いたが、再び笑顔に戻ると、青年のギターケースに視線を移した。
「おぉよ。で、どうだいお客さん、いっちょその腕のほどを披露してはくれんかな」
ちょいちょい、とギターケースを指差して、レイブックは笑顔になった。
「え……?あ、あぁ、いいですよ。喜んで」
青年はレイブックの申し出に少々驚きながらも快く承諾してくれた。
「昔ね、この店にはそれはもうとんでもなく素晴らしいギターを弾く男がいてね……」
懐かしむようにレイブックは言った。
「ウェイン・リーンファルト……。この街では有名な音楽家ですよね」
「ほっ、良く知ってるね、この街の二大音楽家の一人さ」
フィデス市郊外のリーンの村では、ウェイン・リーンファルトの名を知る者は少なくない。旅の楽士の耳に入ることも度々あるのだろう。本当に音楽を愛した偉大なギター弾きだったのだから。
「もう一人はクレア・ランズウィックですよね」
「お客さんも若いながらに相当の音楽好きと見える。こりゃお客さんの一曲には期待できそうだ」
青年の言葉に更にレイブックは気分が良くなり、年甲斐もなく期待に胸が膨らむのを感じた。
「二人の話はこの街の音楽好きな人達なら知らない人はいないって聞きました。嬉しかった……。それじゃ、古き良き頃の名曲を……」
青年は古めかしいギターケースを開いてギターを取り出した。
随分と古いモデルのアコースティックギターだ。名工が作り上げた芸術品に年輪を重ね、今では値も付けられないほどの価値があるように見える。ギター自体は良く見る形状のものだが、この若さでこれほどのギターをどうやって手に入れたのか。
ギターを手にした青年はピアノまで歩くと、ピアノの椅子に腰をかける。音合わせを手早く行い、一つコードを丁寧にアルペジオして咳払い。
ゆっくりと、開放的な調べが始まる。
―― The Creafariss River progresses straightly toward the season which comes to an end.
If its way is lost, a figure is changed and it is merely running intently.
Daytime is in a solar light together with that wind. Night draws a new crescent itself ――
「!」
どこかで聞いたことがある、と思う暇さえなく、レイブックの心臓の鼓動が急激に激しくなる。
(こ、この曲!)
その声を最後に青年の奏でる解放的な調べに、店中の人々の口と手がパタリと止まった。この曲を知っている者は驚愕し、知らない者はこの曲の素晴らしさと弾き手の歌声と技に思わずその手を止めていた。
そして、ただ青年から発せられる優しい、開放的な調べに聞き入っていた。
――四度目の奇跡――
動きを止め、その旋律に酔いしれていたのは、食事をしている客だけではなかった。
カウンターテーブルに肘を突いたままではあるが、驚きを隠せない表情のまま聞き入っているレイブック。厨房で洗い物をしていたエルーミ、客室の手入れをしていたライナやトムスも例外ではなく、レイブックの隣に押っ取り刀で駆けつけたカレンも驚愕を隠せないでいた。
「風の、道標……」
レイブックの隣に来て、カレンがごく小さく、震える声で囁く。
この女神の調べ亭に訪れた、最初で最後の、本当にギターを、音楽を愛した偉大なギター弾き、ウェイン・リーンファルトのオリジナルメロディー。
「で、でもこれは……。この曲の弾き手は、もう……」
カレンは信じられないものを見るような眼差しで、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。
レイブックも驚愕を隠せないまま、青年を見つめ言葉を失った。カレンの言う通り、この曲の弾き手はもう九年も前に逝ってしまった、喪われたメロディーだ。
それにこの楽曲はウェインのオリジナルメロディだけあって、彼独特のオリジナルコードを多く使用している曲だ。聴いただけで真似できるものではない。
だが、あの青年が弾き、唄っているのは紛れもなく風の道標だ。そのギターは一分の狂いもなくあのウェイン・リーンファルトの名曲、風の道標を弾いている。
忘れるはずがない。覚えている。レイブックが今までの人生で最も愛したギターの楽曲。もう二度と、生涯聴けることはないと諦めていた楽曲だ。
それを古き良き頃の名曲、とあの青年は言った。
「いや、一人……。たった一人だけいるはずだ。この曲を弾ける人が」
つい先程見た、優しい照れ笑いを思い浮かべてレイブックは言った。今思えば確かにあの笑顔は彼に似ている。そしてもはやギターを弾く青年の姿は、ウェイン・リーンファルトを彷彿とさせる姿にしか見えない。
レイブックの言葉に驚愕を隠せない様子でカレンは独り、呟いた。
「まさか……。アルト、なの?」
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