II:Ensemble

トゥール公国歴 三一七年


 ――九年前――


 カレンはまだ十歳の子供だった。

 夜風が涼しく肌に心地良い、晩秋の夜。

 クレイトフ、クレア、そしてカレンの三人は女神の調べ亭に食事に訪れていた。

 三人が談笑を交えつつ食事をしていると、親子連れらしき二人が店内に入ってきた。クレイトフとそう歳は変わらない、少しくたびれたチロルハットを被った口と顎に髭を蓄えた男と、その息子であろう男の子だった。男の子の方もカレンと歳はそう変わらないように見えた。

 その男は男の子の手を引き、カウンターまで歩み寄ってきた。

 店主であるレイブックが近付いてくる男の持つギターケースに目をやると、感心したように言う。

「ほう、お客さんギター弾きかい?」

「えぇ……」

 男はチロルハットと同じく少々くたびれはじめた外套を脱ぐと帽子を取り、少し笑った。

 ここ数年でのことではあるが、最近は少しずつギター弾きが増えてきている。ギターは交響楽団には選出されない楽器だったこともあり、御世辞にも花形とは言えない楽器だったが、レイブックはギターにしか奏でることのできない多彩なコードの音色がとても気に入っていた。

 男は人当たりの良さそうな優しい顔立ちをしている。優しさが仇になり不幸を招いてしまうような、そんな不安さえ掻き立てるほどの優しい顔立ちだった。

「是非とも聴いてみたいもんだねぇ。どうだい、一曲お願いできないかね?」

 レイブックはほんの興味本位から、男にそう言ってみた。

「……あの、お恥ずかしい話なのですが、今朝、財布を掏られてしまいまして……。それで、もしも私のギターで満足していただければ、この子の寝るところを提供してくださいませんか?」

 男はレイブックの申し出に条件を付けた。鼻の下の髭を指で擦ると、恥じ入るように頭を下げるこの男の言葉に嘘はない。レストランの主人という職業柄、様々な人間を見てきているのだ。人を見る目は確かだと自負している。

「あぁ、別にかまわないよ。ちゃんとあんたの分と一緒に客室をあてがってやるさ。じゃあ、お手並み拝見といこうかね」

 レイブックはそれだけ言って、カウンターに肘を突くと目を閉じた。

 フィデス市生まれのフィデス市育ち。生粋のフィデスっ子。トゥール公国最大の音楽の街で育ったレイブックは耳が肥えている。自ら旋律を奏でることはできないが、その演奏が素晴らしいものか、そうではないものかを聞き分けるくらいのことは朝飯前だ。

 そして、本当に素晴らしい音楽を聞かせてくれた相手には、手厚く遇するのがレイブックの流儀だ。

 かつて初めて店に訪れたクレアに秘蔵のワインを馳走したように。

 男はグランドピアノの椅子を少し前に出し、それに腰かけた。使い込まれたギターケースから、さぞ名のある職人が手がけたのであろうことが一目で判るほどの素晴らしいギターを取り出す。

 音合わせを始め、コードを一つ、ゆっくりとアルペジオ。

 そんな仕草一つで、この男が一流以上であることがうかがえる。期待と共に興味深くレイブックは男を観察する。この男の奏でる旋律が、女神の調べ亭で二度目の〝奇跡〟を起こすことなど想像もせずに……。


―― The Creafariss River progresses straightly toward the season which comes to an end.

 If its way is lost, a figure is changed and it is merely running intently.

Daytime is in a solar light together with that wind. Night draws a new crescent itself ――


 食事をしている二十人ほどの人々の手がぱたりと止まり、彼等は皆そのギター弾きの奏でる音と唄、双方が奏でるハーモニーに耳を奪われた。

 何年か前、クレアが初めてこの店に訪れた時、クレアが弾いたピアノでも同じことが起こり、女神の調べ亭ではその調べを〝奇跡〟と呼んでいた。

 四分程度の開放的な調べは余韻を残しつつ終わり、人々は皆彼に惜しみない拍手喝采を贈った。

 彼はそんな女神の調べ亭の客たちに会釈をしながらカウンターに付いていた息子らしき男の子の隣に戻り、レイブックに笑いかける。

「……どう、でしたか?」

「素晴らしいなんてもんじゃないね。ここが震えたよ」

 そうレイブックはととん、と自分の胸に二度拳を当てて笑顔を向けた。

「それは良かった」

「あんなに素晴らしいものを聴かせてもらったんだ、宿だけなんてケチなことは言わないよ。ついでにフィデスでとびっきり美味い飯とワインをご馳走させてくれないか?」

「……ありがとう」

 男は胸に当て頭を下げると、照れくさそうに笑った。

「そうだ、名前を教えてくれないか?俺はフィデスで一番美味い飯を食わせる女神の調べ亭のオーナー、レイブック・シャーフロットだ」

 レイブックが厨房に入って行く前に、振り返り胸を張って名乗る。

「フィデスと言わず、公国一じゃ!」

 などという言葉が常連客から飛んでくる。レイブックはありがとうよ、と笑って見せる。

「ウェイン・リーンファルトといいます。こっちが倅の……」

「アルト!」

 ウェインと名乗った男の隣に座っていた男の子はそう言って弾ける様に笑った。父親そっくりの人当たりの良い優しい笑顔だ。レイブックはアルトにちょっと待ってな、と言って厨房に入って行った。


 カウンター席に座り、今日の食事と宿を取れることを感謝しつつアルトの顔を見ると、背後からウェインを呼ぶ声がかかった。

「ウェインさん、とおっしゃるんですか?私、クレア・ランズウィックという者ですけれど……」

「はい……?」

 突然自分の名を呼ばれ、ウェインは振り向いた。そこにはどこか儚げな印象の小柄な女性が立っていた。

「とても素敵な曲を聴かせていただいて……。ありがとうございます。次は私の曲を聴いていただけませんか?」

 小首をかしげながらクレアは言うと、ゆっくりと微笑んだ。

「えぇ、喜んで」

 ウェインはクレアに笑顔で答えると、クレアは軽く会釈し、ピアノの方へ歩いて行く。

「ウェインさん、あれの夫でクレイトフと言います。そこのテーブルで一緒にどうですか?妻もそう言っていたので」

 クレアのすぐ後に話しかけてきたのはクレイトフだった。

 同じ音楽を嗜む者として話をしてみたいと思ったウェインは快くその申し出を受け、アルトを連れてクレイトフとカレンのいるテーブルに移った。レイブックの妻、エルーミが隣のテーブルから使っていない椅子を一つ持ってきてくれたので、ウェインはエルーミに会釈をするとそれに座った。

 同時に、静かにクレアのピアノが流れ始める。ゆっくりと、ゆっくりと歩き出すように。

「この曲は彼女が創った曲で、星彩の途というんですよ」

 囁くようにクレイトフは言った。

「そうですか。私の曲は風の道標といいます。私が創った曲で……。でもあまり弾かないことにしてるんです。綺麗ごとかもしれませんが、あまり金を取りたくないんです。音楽では」

 流れ始めた心優しい調べの中、ウェインは静かに目を閉じた。話すのはこの優しげなピアノを聞き終わってからでも遅くはない。それにクレイトフも気付いてくれたのか、ウェインに話し掛けてくるようなことはしなかった。

「おれアルト、君は?」

「あ、カ、カレン、ランズウィック」

 アルトは声を押さえてカレンに名前を訊いた。カレンは少しだけ驚いて、おずおずとアルトにそう言った。

 カレンの名前を聞いたアルトはまた弾ける様な笑顔になり、よろしくね、とカレンの手を取った。

 ウェイン、クレイトフ、アルトもカレンも店の者全員がしばし弾き手の優しさがそのまま表現されたような調べを黙して聴いていた。

 星彩の途が終わって再び大きな拍手が店内に響く。クレアが拍手を贈ってくれた人々に会釈をしながらテーブルに戻ってきた。

「……素晴らしいです。色々なところを旅して、色々なピアノを聴いてきましたが、これほど素晴らしいピアノは本当に初めてですよ」

 嘘偽りない心からの称賛の言葉をウェインはクレアに送った。これほど気持ちを音として表現できる、クレア・ランズウィックという音楽家をウェインは早くも尊敬さえしていた。

「ありがとう、ウェインさん」

 クレアは嬉しそうにはにかんで、クレイトフの隣に腰を下ろした。

「ね、母さんのピアノ、とっても上手でしょ」

 カレンがアルトにそう言うと、アルトは何度もコクコクと頷いた。ウェインのギターを一番近くで、数え切れないほど聴いてきたアルトだ。音楽に対する知識も充分にあるだろうし、耳も肥えているはずだ。嘘を付かない正直な子供が自分の曲を気に入ってくれたのが嬉しかったのか、クレアは優しく微笑んで、アルトに礼を言った。

「クレア、ウェインさんも君と同じで、音楽では金を取りたくないんだそうだよ」

 クレイトフはクレアに言って、ウェインにも同意を求めるように笑いかけた。

「そうなんですか?私も最近の音楽協会に不審を感じてそこから抜けました。時々ここへきて本当に音楽が好きな人達、音楽を知らない人達に素敵な音楽を、と思ってピアノを弾かせて戴いているんです」

 少し恥ずかしそうにクレアは語った。

「それは素晴らしいですね……。ただ私は本当に困った時はついつい金のために弾いてしまいます。情けない話ですが、今日のように本当に困った時などは……。音楽がそういうことに使われるのを嫌悪しているはずなのですが……」

 自分独りならば多少のことは平気なのだが、まだ子供のアルトにはそんな思いをさせたくない、という気持を判ってくれるだろうか。言い訳がましいことは百も承知だが、それでも親というのはそういうものだ。

「アルト君、いくつ?」

 クレアはそんなウェインの心情を察してくれたのか、アルトに優しく問い掛けた。

「きゅ、九歳です」

 アルトはそんなクレアの優しい笑顔に見惚れながら答えた。ちょうど、そこにレイブックが料理を運んできてくれた。

「はい、お待ちどう」

 レイブックがウェインとアルトの前に料理を置くと、脇に抱えていたワインのボトルを二本置いた。

「今日という日に感謝しなくちゃならんようだ。風が記した道標に星彩が煌めく……。なんともいい夜だとは思わないか?」

「あら、今日はマスターもずいぶんと詩人ね」

 レイブックの言葉に感慨深くなったのか、クレアも笑顔でそう言った。

「ま、そんなこともあるさ。さぁウェインさん、アルト、遠慮はいらんからな」

 レイブックは料理と父の顔を交互に見ているアルトに気付いて、そう声をかけた。ウェインの許しが出るのを今か今かと待っているのだ。子供とはいえ、食い意地を張っているのは少々恥ずかしい気もしたが、昨日は夕食も僅かなものを二人で分け合い、財布を掏られたせいで今朝から何も食べてはいない。空腹も極致と言える。無理もない。

「すみません、たかだか一曲のギターでこれほど……」

 ウェインは過ぎる待遇に苦笑しつつ頭を下げた。

「いやぁ、こんなものじゃまだまだ足りないくらいさ。さぁ、冷めないうちに食っちゃってくれよ、公国一美味い飯をさ!」

「では、遠慮なくいただきます。ほら、アルトも」

「うん、いただきまーす!」

 アルトは父の言葉の後、すぐさまフォークとナイフを手に取って、目の前にある料理にかぶりついた。

「しっかりしてますね、アルト君は」

 クレアはそう言いながら小さなアルトの口に付いたソースを拭き取った。アルトは一生懸命に料理を食べている。照れているのだろう。アルトの母親はアルトを生みすぐに逝った。母親を知らないせいか、クレアに母性のようなものを感じ取ったのかもしれない。

「ははは、いい喰いっぷりだ。さ、このワインはこのテーブルに付いた人へのプレゼントだ。遠慮しないで味わってくれ」

 レイブックはそう言うと皆のグラスにワインを注ぎ始めた。

「あら、マスターのグラスがないけど……?」

 クレアはそう言いながら、もう一本のボトルでレイブックにもワインを注ぐようなジェスチャーをすると、一緒にワインを飲んで欲しい旨を伝えた。

 レイブックの言う通り、今日は本当に良い夜だった。店全体が優しい空気に包まれている。

「お、そいつぁ嬉しいねぇ。それじゃ俺もご馳走になるとするよ」

 レイブックは一度厨房に消えると、アルトとカレンのためのジュースと自分のグラスを持ってすぐに出てきた。レイブックはアルトとカレンの席にジュースを置くとクレアにワインを注いでもらう。

「……」

 ウェイン、レイブック、クレイトフ、クレアのグラスが言葉もなくチン、という小気味の良い音を鳴らした。

 それを見ていたアルトとカレンはお互いのグラスにジュースを注ぐと大人達の真似をした。

「はははっ」

「へへへっ」

 誰からともなく笑いが漏れて、みんなが笑顔になる。

「ねぇ、カレンは何歳なの?」

「十歳。だからわたしの方がいっこお姉さんだよ」

「ふーん。そぉなのかぁ」

 乾杯の後に談笑とは何とも大人びている。ウェインとクレイトフは顔を見合わせた。

「先程、色々なところを旅していると仰っていましたけれど、ここもすぐに出て行かれてしまうのですか?」

 クレイトフはそう言いながら、ウェインのグラスにワインを継ぎ足してくれた。

「えぇ、先ほどまではそう思っていたんですがね……。アルトの方も良い友達ができそうだし、長居してみようかと思い始めたところですよ」

 ウェインは楽しそうに話しているアルトとカレンを見てそう言った。

「決めた!わたし、大きくなったら母さんみたいなピアニストになる!」

「じゃあおれだって父さんみたいなギター弾きになる!約束な、カレン!」

「うん、約束!」

 そんな子供達を見て、ウェインとクレア、クレイトフは微笑んでいた。



 ――もうあれから九年にもなる――

 ふ、とレイブックは我に返った。

 確かに子供達は大きくなり、カレンもクレアと見紛うばかりに美しく成長した。容姿ばかりではなくピアノの腕前までも。

 カレンがクレア・ランズウィックの遺産、星彩の途を初めてこの店で披露してくれた時、クレア、ウェインに続き三度目の奇跡を起こすほどの腕をカレンは既に持っている。

 カレンの奇跡を目の当たりにした時、思わず目頭が熱くなったほどだった。

 もしも、あの忌まわしい事故や病気などがなかったら……。

 もしも二度の不幸が起こらなかったら……。

 そう思わずにはいられない。幾年月が過ぎた今でも。

 今はどんな生活を送っていたのだろう。自分を取り巻く人々は。

 クレイトフ、カレン、アルトはきっと幸せだったかもしれない。不幸だったかもしれない。今となっては一つの現実が残されるばかりだ。

 だけれど、それでも、きっとレイブックは二人の、本当に大切な友を喪うこともなく幸せに今を過ごしていたに違いない。

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