I:Etude

 渦中の人、カレン・ランズウィックお嬢様は今、フィデス市郊外にある小さな村へと向かっていた。

 優しそうで柔和な印象を受ける大きな目は少し下がっていて伏し目がち、真っ直ぐで細い、亜麻色の髪を肩まで伸ばしている。正にお嬢様の呼び名が相応しい少女だ。おっとりとしていて優雅さすら伺える物腰は生まれもってのものだろう。柔らかくも暖かい、母性的なイメージも彷彿とさせる。

 昨年フィデス市立音楽院を主席で卒業という学歴とピアノの腕前もさることながら、今年のコンテストで好成績を収めることができればフィデス市交響楽団入りも間違いないと噂されているほどの才女だ。

 学院を卒業した後は貴族の血を引く者達が催す夜会や学院主催の演奏会に呼ばれたりと、その人気も実力も既にフィデス市内で噂になるほどだった。

 そんなカレンが向かっているリーンの村には父、クレイトフの旧友が経営するレストランがあり、その店の名を女神の調べ亭といった。現在の主人、レイブック・シャーフロットの何代も前から続いている歴史のある店だ。カレンの目的地は正にそこ、女神の調べ亭なのである。

「あらあら?もうレッスンの時間。またマーティンに悪いことしちゃった」

 カレンは去年の一八歳の誕生日に父に買ってもらった懐中時計を取り出して時間を見た。外装には見たことのない種類の花のインタリヨが施されていて普段は少々地味なデザインなのだが、陽の光に当てて角度を変えるとインタリヨがキラキラと美しい輝きを放つ。それがとても気に入っている。

 たまたまレッスンの時間に出かけてしまったのかどうかはカレンにも判らないことではあるが、いつものことになってしまっているので、もうカレンはそのことに関して気にしないことにしている。

 遊びではなく立派な店のお手伝い、とは本人の弁だが決して嘘ではない。客の少ない時間帯は皿洗いや掃除などをし、客が多くなってきたらピアノを弾いて聞かせる。それがカレンの女神の調べ亭での役割だ。

 その昔、母、クレアがそうしていたように、今はカレンがその亡き母と同じ道を歩み始めている。

 クレイトフもそのことについては賛同してくれている。お金を稼ぐためにピアノを弾く訳ではない。ただ、昔馴染みの音楽好きな人、たまたま女神の調べ亭に足を運んだ、音楽を知らない人達に、素敵な音楽を聞かせてあげたい、というクレアの想いはしっかりとカレンに受け継がれてる。

 しかし、カレンとしてはやはり交響楽団入りを目指して人が集まるところで練習、というのがもっぱらの目的らしい。


 昼下がりの青い空と白い雲を見上げながら、カレンはのんびりと農道を歩いていた。都市の中心部はほぼ石造りの町並みで、昔から道も舗装されているが、リーンの村へと続く農道はもちろん舗装などされていない。それでも一歩踏み出した時にうっすらと上がる土埃や、髪を揺らす風に交じる緑の香りはカレンの気持ちを弾ませる。もはやピアノのレッスンのことなど綺麗さっぱり頭の中から追い出されていた。元々のんびり、暢気な性格なのは自分でも良く判っている。

「やっぱりこういう澄んだ開放感を曲にするんだったらピアノよりも断然ギターよね」

 ごち。

 カレンがのほほんと独り言を言った途端、珍妙な鈍い音が体内に響くように耳朶へと届く。と同時に目の前が真っ暗になって、次いで額に極近い前頭部に鈍痛が走った。

 「あうっ」と、男性の声が聞こえた。どうやら人とぶつかってしまったらしい。カレンがそんなことを考えた時は、もう尻餅をついた後だった。

「……んー!んー!んんーっ!いぃー!」

 どうにも我慢できない痛みに、カレンは尻もちをついたままの姿勢で堪らず唸った。そのまま相手の顔を確かめようと視線を上げる。ぶつかった相手はまだ若く、カレンとさほど年齢の変わらない青年だった。

 その青年の視線とカレンの視線が合う。

「ご、ごめん。あんまりにも天気が良かったもんで、おれちょっと呆けて歩ってたから!」

 目が合うなり、少し裾が汚れた外套を着けている青年は堰を切ったように謝り出した。人好きのする日焼けした顔、前髪が目にかかるくらい、少し長めの散切り頭。カレンの自分勝手な判断をするならば中々に格好良い青年だった。右手には随分と古めかしいギターケース。カレンの頭にぶつかったのであろう顎を左手でさすっている。

「あ、いえいえ、わたしも同じですから。……本当に良い天気ですものね!」

 カレンは痛みに歪んだしかめっ面を消すと、空を見上げた。青年もそれに倣う。

「あ、服、汚れちゃったですね。ごめんなさい。立てる?」

 青年は視線を下げ、カレンのワンピースに目をやると奇妙に言葉を区切りながら、ギターケースを置き、カレンに右手を差し出した。

「へーきです、こんなの」

 カレンは笑顔になって青年の右手を掴むと立ち上がり、パンパンとお尻の辺りをはたいた。学院時代からの友達には何人か、こういうことが起きると服を弁償させたりする人もいたが、服など洗濯すれば良いだけのことだし、破れたのなら裁縫でもなんでもすれば良いのだ。家の執事であるマーティンに今の現場を見られたとしたら物凄い剣幕で青年に怒鳴り散らしていたかもしれないけれど。

「ほら大丈夫。でも貴方も顎、平気ですか?」

 スカートについた砂埃を掃い終えると、カレンはその場でくるりと回ってステップを踏んだ。

「うん。石頭ならぬ石顎なもんで。……本当にごめんね」

「いえいえ、こちらこそ」

 カレンは青年にパタパタと手を振った。こちらにも非はあるのだ。青年が悪い訳ではなく、むしろカレンの方が何も考えずに歩いていたように思う。

「じゃ、この場はお互い様ってことで」

「ふふ、そうですね。それじゃ、失礼します」

 そう言い合いながらカレンと青年は互いに頭を下げると、各々の道を再び歩き始めた。




 出入り口の木製ドアの上に、擦れては重ね書きをした看板がある。店の名は女神の調べ亭。外装は何年かに一度修繕を重ねているので歴史ある店ではあるが、外観は小奇麗な印象を受ける。

「こんにちはぁ!」

 カレンは開店前の女神の調べ亭に着くなり、ドアを開けると、声も高らかに挨拶をした。

「やぁ、カレン。今日も手伝ってくれるのかい?」

 カウンターに出ていたこの店の主、レイブック・シャーフロットが訪れたカレンを笑顔で出迎えた。いつも眠たそうな垂れ目と無精ひげを生やしている四十六歳の男だ。実際に眠たい訳ではなく、そういう顔つきをしているだけなのだが、そんな顔つきに符合するほどレイブックは能天気な男だ。

「うん、レイおじさん、宜しくね」

 女神の調べ亭は昔ながらの宿と食事処、酒場を兼ねた店で、厨房もフロアも什器の配置レイアウトはオーソドックスかつ、機能的なものになっている。

 椅子やテーブルは木製で、大きめの出窓が四つ、四人がけのテーブルが五つにカウンター席が七つ。入り口から正面にカウンターテーブルがあって、その左手には客室に上がるための階段、右手には古いグランドピアノが一台。カウンターテーブルの奥は厨房になっていて、できあがった料理は階段側の通路からすぐに運び出せるようになっている。

「おぉい、カレンがきてくれたぞー」

 レイブックは厨房に向かって少し大きな声で呼びかけた。

「やっほー、カレン」

 声と共に出てきたのはレイブックの三人の子供達だ。ブロンドのロングヘアーが良く似合う長女のライナは十七歳。母親譲りの勝ち気な目が彼女の魅力だ。長女らしく面倒見が良いせいでいつも弟妹の割を食って貧乏くじを引いてしまう。長男のトムスは十五歳。少し垂れ気味の目は父親譲りで、赤茶けた髪をしている。少しぶっきらぼうだが何かとカレンを気にかけてくれている。末っ子のレイナは十歳と歳が離れているが、レイナもまた父親似の垂れ目が可愛らしい。ライナと同じブロンドのロングヘアーで見た目から優しそうな印象を受ける女の子だ。

「カレンお姉ちゃん、ピアノ、ピアノー」

 ここのところすっかりカレンのピアノがお気に入りのレイナがおねだりをしてきた。

「もう少しお客さんが入ってからね、レイナ。それまではお手伝い、頑張ろ!」

 優しく笑顔でカレンは言うと、レイナの頭を軽く撫でてあげた。

 レイナはニコニコしながらはぁい、と可愛らしい返事をして再び厨房に入って行く。下手に姉や兄がそう言うよりも、カレンの言うことを聞くことが最近は特に多くなってきたようで、カレンは苦笑をしつつライナを見た。

「ま、別にいいじゃない。好かれてるのはいいことでしょ?カレンが動いてくれればレイナも素直に手伝うし」

 長女であり三人きょうだいの一番年上という立場からか、ライナはカレンよりも年下でありながら妙に大人びているところがある。

「何だよ、別にカレンに手伝ってもらわなくったっていんだぜ。どうせまた皿、割るんだから」

 トムスはカレンの頭に手を乗せて、ぐりぐりと回しながら横目でカレンに言った。少し突っ慳貪なのはいつものことだ。

「やぁっ、痛い痛いぃ!さっき人とぶつかってタンコブできてるんだからぁっ!」

 トムスはますます激しく手を回すと、お、ほんとだ、などと言いながら、カレンの額に近い頭にできていた小さなたんこぶを重点的に攻め立ててきた。

 しかめっ面をしながら、カレンは何とかその攻撃を避けて、びし、とトムスを指差した。

「きょ、今日は割らないもん!」

「とか言っといて必ず一枚は割るもんなぁ、カレンはさぁ」

 にひひ、と実に意地悪に、楽しそうに言う。

 トムスは普段からカレンが嫌いだ、と公言している割りに良くこうしてカレンをからかってくる。嫌いだと言われた時はさすがにショックだったが、こうして必ずからかいにくることを思えば、別段口で言うほど嫌われている訳ではないのではないのか、と思うようになった。

「いいもん、じゃあ宿の方お掃除するから」

 女神の調べ亭は大戦時に最も多く見られた宿屋と同じ経営を今も続けている。大戦中は荒くれ者の冒険者や傭兵達が集っては、自分達の体験した戦や冒険談を肴にして酒を飲んだり食事をしたりしていたらしい。

 トゥール公国内でも有名で人気の高い英雄譚にも、吟遊詩人たちの詩にもこの店の名前が登場することから、昔から人が絶えない店なのだということは伺い知れる。

 この女神の調べ亭と同じように、宿屋と食事処、そして酒場を兼ねた店が大戦時や動乱時には多く存在していた。こうした店には常に新しい情報が集まりやすい場であり、戦争時であれば戦況や、冒険時代であれば討伐対象の怪物の情報や埋もれた財宝の情報、冒険者や傭兵などにしかこなせない仕事の依頼情報など、様々な情報が集まる場として常に賑わいを見せていた。

 レイブックの何代も前の主人も冒険や戦争の情報を提供していたらしいのだが、平和な今の時代では傭兵や冒険者はその数を減らし、女神の調べ亭と同じ経営形態をしていた店は次々と姿を消してしまった。フィデス市郊外にある女神の調べ亭がこうして繁盛し続けているのには、それなりの理由がある。

「いいわよ、カレン。そっちは今母さんがやってるから。それよりトムス、あんたねぇ、カレンにそんな偉そうなこと言えるわけぇ?あんただっていくつカップやお皿割ったと思ってんのぉ?」

「今は割ってねぇだろ、今は!」

 ライナはわざと意地悪くそんなことを言う。しかしからかわれていることに気付かないトムスは顔を真っ赤にして大声を上げるばかりだ。

「でもこないだ、客室の椅子、壊したよなぁ」

 ぼそり、とレイブックがそんなことを呟いた。しかしそれはカレンの耳がしっかりと捕らえていた。にやり、と笑うカレンを見てレイブックはしまった、とばかりに両手で口を押さえたがもう遅い。

「あぁ!なんだよ親父!それ内緒にしてくれるって約束したじゃんか!」

「こいつぁしまったなぁ。確か男同士の約束を破ったら……」

「便所掃除一週間!」

 トムスは更に声を張り上げた。自分の失敗を棚に上げて、カレンを責めていることがばれたのが恥ずかしいのだろうか。

「なぁんだ、トムスもカップ割ったり椅子壊したりしてるんだぁ。じゃああんまりわたしの前で威張れないじゃない」

 男の親子のやりとりが微笑ましくて、羨ましくて、くすくすと笑っていたカレンが嬉しそうにトムスに言う。半分は先程の仕返しでからかっているのだが。

「も、もうやらねぇよ」

 カレンと同じようなことを言って、トムスは赤面したままプイッと顔を背けた。

 そんなトムスを見てくすりと笑うと、カレンはカウンターの中に入ると布巾を取ってまずグランドピアノを拭きにかかった。

「カレンってここの掃除始める時は絶対それから拭くよね、いつも」

「だって、母さんとの思い出がたくさん詰まってるピアノだもん。家のピアノと同じ。大切なピアノだから……」

 カレンはピアノを拭く手を止めずに、ライナの言葉に笑顔でそう答えた。

 音楽の街、フィデス市でも僅かに三社しかないピアノ製造社が鍵師動乱前に製造した物らしく、レイブックの四代前、高祖父の時代に購入した時の物なのだそうだ。その時代、まだ楽器そのものが今ほどに流通していなかったこともあり、購入したは良いが当然弾き手もいなかった。高祖父も随分と訓練を積んだが、満足に奏でることはできず、宝の持ち腐れとなっていたところに、一人のピアニストが現れた。

 そのピアニストが、母、クレアの高祖母にあたる、ソニア・グリーンウッドという人物だったらしい。

 カレンの家にある母の形見となってしまったピアノとはまったく違った音色を奏でてくれるこの女神の調べ亭のピアノは、言葉の通り、カレンにとっても縁深く、とても大切で大好きなピアノだ。

「本当に何時聴いても素晴らしいピアノだったもんなぁ。クレアさんのピアノは」

 レイブックはそのピアノとカレンを見ながら、懐かしむように、静かに言った。

 いつも眠たそうな垂れた伏し目を更に細めて、レイブックはカレンが拭いているピアノを見詰める。

「あの日からわたしも、いつか母さんみたいなピアニストになるって決めたのよね……」

「あの日、か……」

 カレンの言葉にレイブックはゆっくりと目を閉じた。

 まるで〝あの日〟のことを記憶から呼び起こすかのように。

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