風と星彩の道標

yui-yui

本編

0:Prelude

 トゥール公国歴 三二六年

 トゥール公国南西部 主要地方都市 フィデス地方 フィデス市


 六王国時代から音楽活動が盛んなこの都市は、音楽の街とも呼ばれている。

 その名の通り、トゥール公国でも最も音楽人口が多く、コンテストや音楽祭も多く催され、数多の旅の楽士や楽団が一度は訪れると言われている。

 二〇〇年余前、トゥール六王国時代と呼ばれた時代に起こった最大最悪の大戦、第二次トゥール六王国大戦。

 トゥール六王国統一の後、トゥール公国となってから勃発したトゥール公国鍵師動乱など、様々な正義亡き戦争のために疲弊し、暗く沈んだ人々の心を支え、いかなる時も人々と共に在り、人々を支えてきた音楽。

 その心優しき音楽の都市がここ、フィデス市である。



 フィデス本市とも呼ばれるフィデス市の中心部、元々は城下町であった所にある豪邸、ランズウィック邸では今、ちょっとした騒ぎが起こっていた。いつものこと、といえばいつものことである。

「お嬢様!カレンお嬢様!」

 フィデス市の中でも指折り数えられるほどの豪邸、ランズウィック邸の中を齢約七十歳ほどの顎と鼻の下に白い髭を貯えた老人が走り回っていた。名はマーティン・スクラングと言い、長年に渡りランズウィック家に使えている執事だ。そのマーティンがちょうど庭園に出る際に使う廊下を通った時に、声がかかった。

「どうかなさったんですか?マーティンさん」

 年の頃は二十歳に届くかどうか。ショートカットの髪型が良く似合っていて暖色の暖かな花をイメージさせるような朗らかな印象を受ける。ランズウィック家に住み込みで働いている召し使いで、名はリア・オースティルという。ランズウィック家の使用人という立場はあれど、カレンとは年も近く友人同士のような間柄で、良く一緒に買い物に出掛けたりもしている。

「おぉリア、お嬢様を見かけんかったか?もうすぐレッスンの時間なんじゃ」

 マーティンはリアに言うと上がり始めた息を整えるかのように嘆息した。

「そう言えば今日は一度もお見かけしていませんね……」

 洗濯物を干す手を止め、リアはマーティンに向き直る。

「そうか、もしも見かけたらすぐにレッスンを受けるように伝えておいてくれんかの」

「えぇ、判りました。あら?もうそんな時間なんですね。マーティンさん、私これから買い物に行かなくちゃならないので、もし外で見かけるようなことがあれば必ず伝えておきます」

 ランズウィック家にとっては別段珍しい騒ぎではないので、特に慌てる様子もなくリアはマーティンにそう答えた。

「おぉ、頼んだぞ!」

 マーティンはそれだけ言うと、再び走り出した。リアも残った洗濯物を再び干しはじめた。



「お嬢様!カレンお嬢様ぁ!」

 マーティンがこの家の主、クレイトフ・ランズウィックの書斎の近くまで走って来た時に、書斎からクレイトフが顔を出した。

「どうしたんだマーティン。騒々しい」

「これは旦那様、毎度のことながらまたお嬢様の姿が見えないのです。もうすぐレッスンの時間だというのに!」

 マーティンは力の限り困った表情をして見せた。娘に甘いクレイトフの前ではこのくらい大袈裟でなければ伝わらないのだ。

 かつて三五歳という若さでトゥール公国でも五指に数えられるほどの名門、フォン・フリッツ大学院、医学部教授、医学博士の地位を手に入れたフィデス市有数の頭脳の持ち主だ。

 フィデス市立音楽協会随一の楽団、フィデス交響楽団に属していた貴族の末裔でもあるピアニスト、クレア・グリーンウッドと結婚し、この豪邸を建てた、いわゆる敏腕だ。

 そんな男でも、いや、そんな男だからこそ、今は亡き最愛の妻、クレアの面影を残した一人娘にはとことん甘い。

「別に良いじゃないか。カレンのピアノの腕前ならばもう充分に上流音楽界に出しても恥ずかしくない。レッスンもあまり意味は成さないんじゃないのか?」

 こともなげにクレイトフはそんなことを言う。マーティンは始まった、とばかりに再び力の限りの呆れ顔を作る。

「旦那様、いつもいつも私が申し上げている通り、お嬢様に甘すぎですぞ。いくらお嬢様のピアノがお上手でもコンテストでは失敗するかもしれません。もしもの時のために、レッスンにレッスンを重ねてですな……」

「レッスンを受けていたって失敗する時は失敗するんじゃないのか?」

 マーティンはもう何度目になるか判らない説教を力説したが、その甲斐もなくクレイトフには「くどくど」としか聞こえていないようだった。しかしそれも毎度のことである。無駄だとは判っていてもどうしてもこの暢気な父娘に、言って聞かせなければならない、という頑固さが毎度のことの原動力なのかもしれない。

「ふむ。だったらカレンの首に首輪を括って鈴でも付けておけばいいんじゃないのか?あっはっはっはっ!」

 実に楽しそうに笑ってマーティンに提案してくる。マーティンは大きく溜息を吐くと、肩をがっくりと落として、レッスンが行われる部屋に向かう。カレンを探すのは諦め、これからピアノの教師に謝りに行くことに決めた。

 そんなマーティンの背に、全く心のこもっていない「お気の毒」というクレイトフの小声が届いた。



 クレイトフはマーティンの脱力した背を見送ると書斎のドアを閉めた。

 そして書斎のドアとは対面に位置する出窓を開け、晴れ渡った空を見上げる。

 亡き妻、クレアを想いながら。

「クレア……。カレンは君そっくりに育ったよ。姿も、ピアノの腕も……」

 この声は最愛の女性に届いているだろうか。

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