VII:Rondo

 トゥール公国 主要地方都市 フィデス市 ランズウィック邸


 ――翌日

 アルトはレイブックに諸々の事情を全て話し、カレンの家に向かった。腕の痛みのこと、自分のことでカレンに心配をかけたくないので黙っていて欲しいという旨を全て伝えたうえで、だ。

 ランズウィック邸の前までくると、ピアノの音が聞こえてきた。

 昨夜カレンから聞いたのだが、今日は朝からみっちりしごかれているらしい。昨夜聞き取れた、楽しそうな音は一切聞こえないことから、レッスンを楽しめてはいないことが伝わってくる。

 アルトは中に入ると、クレイトフの書斎を訪ねた。

「どうしたんだい?アルト。カレンならレッスン中だぞ」

「……まったく、クレイおじさんまでそんなこと言うの?」

 アルトの顔を見るなり、クレイトフはからかい半分でアルトに言った。

「当たり前じゃないか、カレンをもらってくれるんだろう?」

「……」

 無邪気なクレイトフの笑顔に、アルトは額に手を当てて溜息を吐いた。クレイトフにしろ、レイブックにしろ、どうも大人たちは自分たちをくっつけたがっている。確かにアルトもカレンは好きだが、結婚だとか、もらうだとか、そんな先のことまでは考えていないし、想像もつかない。

 それに肝心なカレンの気持ちもアルトには判らないのだ。

「ま、それはさておき、どうなんだい?カレンのこと好きじゃないのかい?」

 真顔で言われると、アルトも逃げ場がなくなってしまう。カレン本人よりもまず父親に告白しなければならないとは、何とも形容しがたい、複雑な気分になった。

「そ、そりゃあ好きですよ。だから帰ってきたようなものだもの」

 嘘ではない。グラナート家と決別して、強さを得たいがためにここに帰ってきた。しかし、それはやはりカレンがいたからなのだ。幼い頃にここで出会い、初めて恋をしたカレンがここにいてくれたから、帰ってこようと思ったのだ。

「それなら安心だよ。結婚はまぁ今は冗談としても、ね。……で?私には何の用だったんだい?」

 クレイトフは柔らかい笑顔でアルトにそう言うと、アルトがカレンではなく自分を訪ねてきた理由を訊いてきた。

「うん、実は……」



 アルトが全てを話し終えた後、クレイトフの顔は蒼白になった。

「アルト……言い辛いことだが、これは恐らくクレアと同じ病だ」

「クレアおばさんと、同じ……?おれ、死ぬの……?」

 アルトはさほど驚きはしなかった。しかし明らかに絶望していた。

 クレアと同じ病気だということまでは判からなかったのだろうが、どこかでこの症状が、いつか死に至るものなのではないか、ということには薄々感付いていたようにも思える。

「いや、そうとは言い切れない。……今聞いた分だと病の症状はまだ左腕だけで留まっている。ギターを、こんなこと言いたくはないが、ギターを捨てれば助けられる」

 クレイトフは憎々しげに言う。勿論アルトにではない。アルトの左腕を蝕む病魔に対してだ。同じ病で二人も愛する者を喪わせてなるものか、という思いがクレイトフにはある。

「ギターを……」

 その一言でアルトは、それが何を意味するのかが判っていたようだった。

「危険だが、左腕を切断するしか方法がない。私もクレアを喪ってから、常にこの病に打ち勝つ方法を模索してきた。しかし、今もって、何一つ見つけられなかった。元から絶つ、という手段以外はね……」

 この先、もっと医学が進歩すればいずれは解明できることなのかもしれない。だが、今はその希望に縋ることなどできはしない。

「ちょっと待ってよクレイおじさん。おれ、ギターがなくなったら、何も残らない……。それこそ死人と同じ様に」

「しかし、そのままだと持って二年だ。早い方が良い、すぐにでも手術しなければ病状が進み、切断しなかったとしてもギターは弾けなくなる。クレアがそうだったように、本当に死んでしまうことになる」

 アルトの言葉にわざと言葉をかぶせ、これは脅しでも何でもない、と付け加える。

「……」

 クレイトフの言葉にも、しかしアルトは無言を返すばかりだった。

 確かにクレイトフにもアルトの気持ちは痛いほど判る。カレンと同じように、亡き偉大な親に追いつき追い越そうとしている、純粋で、とても鮮烈な輝きを放つ二人の情熱をクレイトフは良く知っている。それがアルトとカレン、二人の生き甲斐であり、二人を繋いだ絆でもある。八年もの年月を経て、やっと繋がったそれを、再び忌々しい病が引き離そうとしている。

 カレンはもうすぐピアニストとしての階段を登るだろう。そしてこの病でアルト一人が前に進めなくなってしまう。

 いや、全てを失ってしまうと言っても過言ではない。

 しかし、それでもアルトを喪う訳にはいかない。カレンのためにも、この街の人々のためにも、自分自身のためにも。

「アルト……。少し、考えてみてくれないか?この病でまた、私達の愛する者が死んでしまったら、遺された私達はどうすれば良い?私達はアルトやカレンのように絶望から這い上がって前向きに生きて行けるほど強くはないんだよ……」

 クレイトフの妻、カレンにとっては母親であるクレアの死でカレンの悲痛な気持ちは痛いほどに判るだろう。目の前で父親を亡くしたアルトには、誰よりもその痛みや悲しみが判るはずだ。そして、何よりも最愛の妻を喪う、という恐らくまだアルトには想像もつかない悲しみを、クレイトフは痛感している。

 それでも、遺された者の、もう前を向くしか、上を見て歩く道しか遺されていない人間の悲痛さは、アルトにも判るはずなのだ。

「救える方法があるのに救えなかったいや、救わなかった私は一生後悔することになるだろう。カレンの親として、カレンを遺し死を選んだ君を怨むことになるかもしれない」

 それでも、遺して逝くという行為を自ら選ぶということは、充分に有り得るのだ。医者であるクレイトフにはそれが判る。

「辛辣な言い方になってしまうが、生きる手立てがあるのに死を選ぶのはアルト自身の勝手な言い分だ。もちろんギターをなくしたアルトの気持ちを考えずに周りの人達の幸せばかりを口にする私も勝手だということは承知の上だが……」

 クレイトフにもアルトの意地は良く判っている。誰よりも偉大な父を敬愛し、誰よりも近くで父のギターを聞いてきたアルトだからこそ、ギターが喪われてしまえば、それはアルトの言う通り、死んだも同然なのかもしれない、と。

「しかし、君も知っているだろう、ウェインさんが亡くなった時にどれだけの人が悲しみに暮れたのかを……」

 もう二度とあんな思いはしたくはない。医者だというのに、ウェインもクレアも救えなかった。

 二度もその愛すべき命は自分の手から零れ落ちてしまった。

 愛する者を救えなくて何が医学だと自身の非力を呪った。

 母の死をきっかけに、生きる望みを捨てず、それすらをも生きるための目標と定めた娘の芯の強さに敬服した。

 しかし、そのカレンでさえ、アルトが死んでしまったらどうなるか判からない。

 アルトにしてもそうだ。ギターを失くしてしまえば生きる目標がなくなってしまう。しかし、生きていれば必ずいつか笑える日がくる。死ぬよりも生きる方が苦しいこともあるだろう。片腕を失ってしまっては辛いことも多いだろう。それでも、死んでしまっては得られない幸せを知らぬままに、そのままアルトを逝かせる訳には行かない。

 生きている者の勝手な解釈だと言われようが構わない。死んでしまった者の気持ちなど、ただの一言も聞いたことがないのだから。

「少し、時間くれないかな」

「……できるだけ早いうちに返事を頼む。これは私自身の意地でもあるが、この病でもう誰一人として死なせたくはない。もう誰かが死ぬ、という悲しみを繰り返したくないんだ」

「……」

 アルトはクレイトフの決意を込めた言葉に無言で頷いた。

「あ、そうだ、このことはカレンには……」

「あぁ、判ってる。が、コンテストが終わるまでだよ」

「……うん」



 アルトは部屋に戻り、一人、考えた。

 カレンはもう既にクレアと同じピアニストなのではないだろうか。コンテストで優勝などしなくても、フィデス交響楽団に入らなくても、今やカレンは音楽を知らない人達に音楽の素晴らしさを教えることができている。カレンにとってコンテストの優勝はカレン自身の問題ではないかとも思っている。それに比べ自分はどうなのだろう。確かに今、自分のギターの腕はウェインに近付きつつはある。女神の調べ亭でも自分の弾くギターは好評だった。しかし、それではカレンとの誓いを守ったことにはならない。何一つ、今の自分にとって誇れるものはない。こんな自分はきっとカレンに並び立つことすらできないのではないだろうか。

 だからこそ、今ギターを捨てる訳には行かない。

(死を選ぶのはアルトの勝手な言い分だ)

 クレイトフの言葉が脳裏を過る。

「!」

 ちょうどその時、コンコン、とアルトの部屋のドアがノックされた。

「――わたし。……カレン」

 ドアの向こうから聞こえてきたのはカレンの声だった。まだ昼を過ぎたばかりで、レッスンは続けられているはずだというのに。

 アルトはドアを開けると、とりあえず笑顔でカレンを迎えた。

「どした?」

「えへへ。抜け出してきちゃった」

 ぴょん、と跳ねて、カレンはアルトの部屋に入った。

「抜け出してきたって……。この大事な時に……」

「……」

 アルトはドアを閉めながらカレンに言った。カレンはベッドに腰掛けると、無言でアルトを見つめた。その眼差しは真剣だった。

「大事な時、だからだよ……。わたし、判ったの。わたしは、わたしに必要なのは技術なんかじゃない。わたしがどれだけ楽しく、気持ち良く音楽をやれるかってことが、一番わたしに必要なことなの。……だから、アルトに会いにきたんだよ」

 確かにその通りだろう。昨夜のカレンの演奏は本当に聴いていてカレンの気持ちが伝わってくるようだった。先ほどのレッスンでは微塵も感じられなかったことが、レッスンの無意味さを示しているとアルトも感じる。

「そっか。強いんだな、カレンは。自分がどうするべきか、ちゃんと決めたんだろ。……凄いよ」

(それに比べて、おれは……)

「強くなんてないよ。凄くなんてないよ。わたしはアルトやリエリー、父さん、レイおじさん達にいっぱい、色々教えてもらって、助けてもらって、わたしはそれから動いただけだもん。今までピアノ続けてこれたのだってみんなのお陰だよ」

 カレンは一言一言、噛み締めるように、ゆっくりと言った。それはカレンが実感したことであって、嘘偽りない本当の言葉だ。

 自分独りだけでここまでこられた訳ではない、という事実だ。

「それはさ、カレンの弾きたいって気持ち一つなんじゃないのかな」

「ふふ、それもあるよ。でもわたしはね、母さんみたいなピアニストになるのとは別に、いつか、絶対アルトにわたしのピアノを聴いてもらうんだって、決めてたんだもん。だから、やっぱりアルトのお陰でもあるの。帰ってきてくれて良かった……」

 アルトの手に触れて、カレンは少し俯いた。

「あの時、十歳の女の子が初めて男の子に恋したあの気持ちのまま、今もわたしは、ずっと、あなたが、好きだから……」

 カレンは俯いたまま言った。耳まで赤くして、その小さな身体を震わせて、必死に、長く閉じ込めていた想いを打ち明けている。

 その真っ直ぐな想いに、アルトはどうしようもなく胸が締め付けられる。狂おしいほどに愛しい。

 気付いたら、アルトはその細い肩を抱きしめていた。カレンの熱い吐息が耳元に触れる。

「カレン……」

 アルトはカレンの頬に手を当て、カレンの唇に自分の唇を重ねた。

 静かに、長い時が過ぎて行く。

 二人の鼓動と息遣いだけが、この世界の全てのように感じられる。

 やがて二人の唇が離れ、カレンはアルトの胸に顔を埋めた。

 アルトはゆっくりと髪を撫でると、静かに口を開いた。

「カレン、おれもさ……」

 今度はアルトが告白する番だった。するとカレンが顔を上げ、今度はカレンがアルトに口付けた。

 思いが通じたというのに、二人は何も話さずにいた。二人でベッドに腰掛け、お互いの手をつないでいるだけで良かった。

 何も、言葉はいらなかった。

 どのくらいそうしていただろう。不意にカレンがアルトの手を握っている右手に力を込めた。

 アルトはゆっくりとカレンの顔をみると、カレンが口を開いた。

「ねぇ、アルトの曲、聴きたい……。そうすればきっと明日は優勝できると思うから」

 アルトの手を胸元に持ってきて、両手で、アルトの左手を包み込むと、カレンははにかむように言った。

「……それじゃ、弾かない訳にはいかないな」

 アルトは笑顔で答え、ゆっくり、静かに暖かなカレンの手から左手を弾くと、ギターケースからギターを出した。

 軽く音を合わせると、風の道標を弾き始める。

「違うよ、アルト。アルトの曲が聴きたい」

 前奏の途中でカレンは首を振った。今カレンが欲しいのはアルトの、アルトにしか弾くことのできないメロディーなのだ。ウェインやクレアの思い出の詰まった曲は今聴くべき曲ではない。

「ん、判った」

 アルトは風の道標を中断して、自分が作ったオリジナルメロディー、風の先へを弾き始めた。

(これで、いいよな、親父……)

 アルトは前奏を弾きながら、激しい後悔とともに一つのことを胸に決めた。

(今夜の内にこの街を出よう。あと何年か、何ヶ月かの命かもしれないけど……。できるだけ多くの街を回って、いろんな人達に聴いてもらおう。親父と、おれの曲をさ……)

 その曲の名の通り、様々な街に吹く一陣の風のように、人々の心に一瞬だけでも触れることができれば良い。

 残り少ない生命。僅かな時間しか残されていない自分には、それが似合いなのかもしれない。

 カレンに想いを伝えたのは間違いだった。

 カレンに、ただ残酷な現実を突き付けてしまうだけの行為だった。

 だけれど、生涯でただ一人、好きになった女性、カレン・ランズウィックの目の前で、無様に倒れる訳にはいかない。

 そして生き延びたとしても、ギターを失ってしまっては尚のこと、カレンと並び立つことなどできはしない。

 どれほどに深く、大きな喜びがあったとはいえ、カレンの想いを受け入れてしまった自分を呪う。

(……生涯、恨まれてもいい。それだけのことを、してしまったんだ)

 アルトの手元をキラキラとした目で見詰めるカレンに、アルトの胸が痛む。今、カレンの気持ちを受け入れ、カレンを喜ばせた自分が、誰よりも手酷い裏切りをする。

 許されることではない。

(それでも、おれは約束を、自分から破りたくないんだ……) 

 少しでも父、ウェインに近付ける唯一の道。

 もう追い越すことなど不可能かもしれない。

 そこまで辿り着くことはできないかもしれない。

 カレンと並び立つことは、きっと不可能だろう。

 けれど、もう自分には時間がない。アルトは弾きながら、最愛の少女の横顔を胸に焼き付けた。

(もう、会えないかもしれないけど……。おれは必ずカレンとの誓いを守るから……)


―― The setting sun burns a blue horizon. One flower shakes to a wind and tells early summer.

The traveler who loved the wilderness rides on a horse and makes a highway run freely all day long.

Draw the blue sky which is not forgotten on a dream.

The guitar is played and a morning is felt with usual music.

How far do you take the body which took a solar shower today?

Shower my body with sunlight Where can you take me today

Where can you go on from here Don't be worried. It is audible. Your voice ――



 開放的な調べ。

 自由で、壮大で、少しだけ淋しい、そんな旋律……。

 荒野に吹く一陣の風。

 狂ったような彩の青い、青い空。

 眩しくて、でも暖かな日差しと、ただ、独りきり。

 どことなく風の道標も彷彿とさせる、乾いた旋律だった。

 漠然と、そんなことだけがカレンの頭の中に浮かぶ。

 目を閉じ、足でリズムを取りながらカレンはすぐ隣にいるアルトの奏でる開放的な旋律に酔いしれていた。

 ――しかし。

「……!」

 不気味なほどの不協和音と共に、唐突に、その演奏が途切れた。次いで聞こえてきたのはごとん、という音だった。

 アルトが突然ギターを取り落としたのだ。アルトは左腕を押さえ、カレンにもたれ掛かるようにベッドに倒れ込む。

 見る見るうちにアルトの顔が蒼ざめて行く。

「……ア、アルト?」

「ぐっ……!」

 歯を食いしばり、懸命に痛みに耐えている。

「ち、っきしょ……!」

 アルトは痛みに耐えながら、呪いの言葉とも思える言葉を吐いた。

「アルト、アルトッ!」

 カレンはとにかくこの状況がただごとではないことを察知し、必至にアルトに呼びかける。アルトは瞬きもせず目を見開いて歯を食いしばっていた。

「いやっ!……ね、いやだ、やだよ、アルトッ、ねぇアルトってばぁ!」

 何も反応を見せないアルトに恐怖する。カレンの脳裏に、昨夜のアルトの蒼白い顔が過った。

 ただの目眩などではなかったのだ。昨日もこの症状が出て、それを見せないために洗面所に、鍵までかけて、アルトは誤魔化した。コンテストを控えている自分に余計な心配をかけないために。

「そ、そうだ、父さんを……。待ってて、すぐに父さん呼んでくるから、アルト、少しだけ待ってて!」

 カレンはアルトの頭を抱きしめて、アルトに言って聞かせた。聞こえているかどうかなど判らない。ただ、苦しんでいるアルトにそう声をかけずにはいられなかった。

 恐怖と不安で涙がぼろぼろと溢れて止まらない。誰よりも大切な人の死を、カレンは誰よりも知っている。

 子供の頃に完全に押しつぶされてしまったあの絶望感と喪失感が襲ってきて、呑みこまれてしまいそうだった。

 アルトの頭をゆっくりとベッドに下ろすと、カレンはそのまま自分の家へ駆け出す。

(神様……!)

 祈りの言葉を胸に、カレンは全速力で家へと駆け出した。

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