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 アメリカ最大規模である、NYタイムズが発行する新聞が鈴岡賢一の手に渡った。

「いよいよ、明日かぁ」

 賢一は、期待と緊張のこもった声を漏らした。

「どうしたケンイチ。そんな不安そうな顔をして」

 悩む賢一の横で、アラン・クリスが声をかける。

 賢一が肘をついているテーブルに、クリスは両手に持っていた珈琲が入っているマグカップを置いた。

「いやぁ、だって、明日だろ? 失敗したらって考えると、居てもたってもいられなくてさ。そりゃあ二回目の打ち上げだし、俺らが乗れるのも名誉なことだってのはわかるけど、実際どうなのやら……」

「まあな、それは共感だ。だが、ここに来る前の気持ちを覚えているか? 宇宙に行くなんて、夢だとしか考えていなかっただろ? 実際行けるなんて、思わなかったはずだ。それが、明日叶うんだ」

 クリスの言葉に賢一は顔を上げる。

 クリスはもう五十代半ばだ。依然として紳士的な立ち振る舞いは変わらず、いつも心を支えてくれているリーダーである。

「そうだな」

 クリスが持ってきてくれたマグカップに、口を付ける。良い豆を使ったのか、酸味と苦みに程よくバランスがとれており、何より香りが良い。

「それより、今日の記事は見たかい?」

 恐らく今日発行されたNYタイムズの新聞のことであろう。

「ああ、今見ている」

「前船長、D・アンダーソンが亡くなったんだってな。初のスペースシャトル乗組員だったのに、夢を叶えて一年で亡くなるなんて。もったいない方であった」

 D・アンダーソン、初のスペースシャトル打ち上げに参加した船長である。新聞には、つい先日そのアンダーソンが亡くなったと書かれてあった。死因は、自殺……。内容によると、事前から鬱的症状は確認されていただとか。

「俺も帰還して自殺だとか嫌だな。まあそれはないとは思うけど、実際起きてるからなぁ。一体何があったのやら」

「そう気にすることでもないがな。その人はその人で何かあったのだろう。私達にはあまり関係のない話だ」

 クリスも、マグカップに鼻を近づけて香りを楽しんだ後、唇を付けた。

「ま、気軽にいこう。明日が本番だからな。今日はしっかり寝て明日に備えるんだ」

 そう言ってクリスはバシッと賢一の背中を叩いて部屋から出ていった。


 ◇


 スペースシャトル。それは初の再使用型有人宇宙往還機である。

 開発目的は、低コストやISSの物資補給などの役目だと言われたりするが、実際どうだか。軍事用に考えられたという輩もいる。

 そして、あの八分間は凄かった。重力に逆らう感覚。船体が壊れてしまうのではないのかという不安。もうすぐ夢が叶うのかという緊張。

 大気圏を突破した時の感動は忘れないであろう。

 全身に伸し掛かっていた重力が、その存在を失った時の感覚。そんな感覚は生まれた時から一度も味わえないものだと思っていた。あの瞬間だけは、胎児に戻ったかのようだった。

 スペースシャトル、ラノス号が軌道に乗ったとき、賢一はゆっくりとベルトを外す。

「ようこそ! 宇宙へ」

 隣で、パイロットであるクリスが叫んだ。それと同時に乗員七人全員が手を叩き喜び合った。

「はは、ケンイチ、やったな!」

「おう、感動で涙が出そうだよ」

「だって念願の夢が叶ったんだもんな。ケンイチはまだまだ若いが、私は今日まで、本当に長かった」

 クリスはフライトデッキにある舷窓に目を向け、どこか昔を懐かしんでいるような顔をした。だがそれも一瞬、後ろに振り返って皆に声をかける。

「さあ、今はまだ到達点ではない。通過点に過ぎないんだ。これからやることは多いぞー。気引き締めていくんだ」

 その力強く頼りがいのある声に、慣れない無重力空間の中、皆はそれぞれ実験の準備に取り掛かっていった。

 賢一も船体をつたって準備に取り掛かろうとした時、サブの通信機に支部から受信していることに気付いた。

「クリス、本部への連絡は終わったか?」

「今終えた。どうした?」

「サブの通信機に支部から受信があってだな。対応頼んだ」

「了解だ」

 クリスに後を託し、賢一はその場から離れようとするが、それが何の内容だったのか、知らなければならなかったことになる。


 大気圏を抜けてから四日後のことだった。

 賢一は日々のトレーニングを終えてから、今日も実験に取り掛かることにした。

 そして実験リストを三つくらいこなしてからだ、休憩程度に舷窓に目を向けた。

 見えるのは、大半が青く染まった生命の星、地球だ。太陽を遮る地球は、これ以上になく美しい。

 初めてこの光景を目にした初日は、感動で声も出ない程であった。今ですらその輝きを失わない姿は、大きな活力を与えてくれる。

「綺麗だ」

「そうだろう。私達がこんなに綺麗な星に住ませてもらっているなんて、感謝するべきだ。それなのに、人間はどんどん地球を汚していく。まだ子猫の方が賢い」

 たまたま横を通りかかったクリスが賢一の呟きに応える。

「共感だ。いっそ皆月に住まわせた方が良いんじゃないのか? と思うところである」

「それだと食糧問題とかが起こりそうだが、そのことを考慮しなければそれもそうだろうな。美しい環境で生きていることに感謝できる」

 地球に戻れば、また辛い生活になるんだろうなと賢一は考える。このまま宇宙で皆と幸せに暮らしたいと。でも地球は美味しいものがあるからなぁとも思う。

「して、実験はどうだ? 上手くいってるか?」

「はい。今のところは。大体予想通りの事で終わるのですけど、地球では見られないことが起きるのでいくらでもやってられます」

「それは良かった」

 クリスは笑顔でそう言ってまた奥へと向かっていった。

 賢一はもう一度舷窓に目を向けた。

「……ん?」

 舷窓の向こう側に、何かあるのだ。八百メートルくらい先だろうか。ポツリと、鉛のような何かが……。

 確かに、航空宇宙局は何度か無人宇宙船などを飛ばしたことはある。その部品がそのまま宇宙空間に投げ出されたままな時もある。

 だが、違うのだ。あれは鉄のゴミでもなんでもない。そもそもゴミの大きさをしていない。歴とした形があるのだ。ISSでもなく、ゴミでもなく、じゃあ、あれはいったい何なのだ?

 謎の正体を知りたいという止められない好奇心から、賢一は近くにあった双眼鏡を手に取った。

 そして、それを眼に被せ──

「──嘘だろおい……」

 思わず声が漏れる。

 目にしたものは、もう何度も見たことのあるものだったからだ。

「この船以外に、スペースシャトルなんて……」

 スペースシャトル、それが賢一が見たものだった。船体はほとんど同じ。鏡でもあるのではないかと思わされるほどに奇妙な光景だった。

 でもそれはあり得ない。宇宙に光を反射させるものもなく、スペースシャトルは一隻だけで……。

「……いや、もしや……だがそれは……」

 有り得ないことが賢一の頭に過り、慌ててクリスの元へと移動する。

「クリス!」

 賢一の慌てた叫び声に、クリスといた乗組員が全員彼の方に向く。

「そんなに慌ててどうしたんだケンイチ」

 クリスは作業の手を止め、仲間に後を任せた。

「クリス……知ってるか、タルロス号の話」

「……ああ。今は隠蔽されているが、初めて製造され、初めて失敗したスペースシャトルの話だろう。それがどうしたんだ」

 少し目を細めて、クリスは応えた。

 タルロス号。それは、米国の航空宇宙局が初めて製造したスペースシャトルであり、また初めて失敗したスペースシャトルでもある。

 七年以上前の話の事だ、当初の計画は上手くいっていると思っていた。実際、何も問題はなかったはずだ。

 事の発端は、打ち上げから九分後に起きた。タルロス号と本部は常に無線を繋げていた。位置情報もしっかりと把握していた。だが、タルロス号が大気圏を抜けてすぐの事だ。その通信が何の前触れもなく切れてしまった。

 計画は、失敗に終わった。

 タルロス号は一か月経っても帰還せず、本部は宇宙空間に耐えられず損壊したのだと判断した。

 不幸中の幸いは、そのスペースシャトル打ち上げ計画の話は世間にあまり広まっていなかったことだ。隠蔽することは容易に出来た。

 そしてその事をきっかけに改良したのが、ラノス号である。

「あれは、七年前に壊れて、まだ存在するとか言わないよな?」

 賢一の声は少し震えていた。

「真相はわからないが、少なくとも船体を維持しながら存在してるとは思わんな」

「そうだよな……。まだ宇宙を彷徨っているだなんて、おかしいよな」

「タルロス号を、君は見たとでも言いたいのか?」

 クリスの視線に、賢一はゆっくりと頷いた。

「……どこだ」

「ほ、ほら……あそこに──うわぁ!?」

 賢一が指を舷窓に向けた瞬間、何が見えたのか、恐らく重力があれば腰を抜かしたという表現があっているだろう。身体をガタガタと震わせ、「あ、あぁ……」と同時に声も震えていた。

「ど、どうしたんだケンイチ!? 何も見えないじゃないか」

 クリスも舷窓の方に目を向けたが、その目には美しい星々しか映らず、賢一が何に驚いているのか理解できない。

「なん、で……」

 賢一は目を見開いて、戦慄した様子を浮かべる。

 一体何に驚いているのか、意味不明の賢一の様子にクリスも恐怖を覚えてくる。

「だからどうしたんだよケンイチ!?」

 クリスは賢一の肩に手を当てて問い尋ねるが、彼にはクリスの存在など忘れているように反応しなかった。

 タルロス号、それが賢一の見たものだった。だがその光景が先程と大きく違っていたのだ。

 初めに見たタルロス号との距離は、大体八百メートル。今見ているタルロス号との距離は、

 製造から七年以上も経った船体が、宇宙空間を自由に移動できる動力など残されていないはず……。

 そして、この距離。少しでも当たると大惨事になりえない。

 存在しないはずの宇宙船が、ここに、存在している。あり得ない。でもこのリアルさが、そのあり得なさを否定している。

 驚きの理由はこれだけではなかった。

 船体同士の距離は、それは命を握るほどに近い。それに、船体と船体との間には鏡があるのではないかという程に、恐ろしく対をなしている。

 それが何を意味しているのか。勘の鋭い人であればわかるであろう。

 賢一は、向こうの船内を見ていたのだ。ラノス号と同形の真っ白な船体。そしてそれに反発するかのような船内の暗さ。

 彼の目に、人影が映った。ラノス号から漏れ出した光が、タルロス号へと渡ってその人影へと当たる。

「……せん、ちょう……」

 初のスペースシャトル、タルロス号の船長。見間違えるはずもなかった。だって、それは、彼が若き頃に何度も見た、尊敬する人物だったからだ。だが、それはあまりにも不自然だった。

 彼の身体は、七年前と何一つ変わっていなかったからだ。食料もない船体で、身体を維持できるなんて……。それだけではなく、船長は身体を真っ直ぐに、賢一に向かうかのような体勢をしていた。

 恐怖に侵食されていく賢一は、周りにいる仲間という存在が消え代わりに目の前に存在してしまっているが頭の中を埋め尽くした。

 その瞬間、賢一の息が止まった。

 船長の眼球が動いた気がした。元からだったのかわからないが、その目は賢一の瞳を真っ直ぐに覗いているかのようだった。

 こっちに来い、とでも言うかのように。

 そこで初めて賢一は気付いた。

 目の前にいる船長の後ろにいる、彼等を知っていることに。

 一人の名は、D・アンダーソン。そして、その後ろにいる人の名は……。


 ◇


「アラン・クリスさん! 宇宙はどうでしたか!」

「素晴らしいものだったよ。もう一度行ってみたいね」

 ラノス号二回目の打ち上げは、無事に成功し帰還した。それは喜ばしい事であり、また名誉なことでもある。

 そのような歴史に残る出来事は、色々と聞かれメディアへと流されてく。それにクリスは対応していた。

「そういえば、乗組員の一人、鈴岡賢一さんのことですが……」

 不意に記者の一人が言った。

 その言葉にクリスは少し顔をしかめて応答する。

「あぁ、そのことだが、あまり聞かないでくれるか。私もあまりよくわからないんだ」

「えっと、帰還してからずっと『もうだめだ……』とか『俺は……』だとか呟いていますけど……」

「そうなんだ。ケンイチは、向こうで何かを見たらしいのだが……。まあ、気にしないでやってくれ」

 そう言ってクリスは軽く会釈をしてその場を離れていった。


……

…………

…………………


「……アンダーソン……俺も……」

 暗く、何もない部屋で、賢一は誰かに語りかけるように、独り言を、話しているのをアラン・クリスは胸を痛めながら見ていた。

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失われたはずの宇宙船 穏水 @onsui

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