第19話 明智十兵衛光秀
1568年10月には、信長が京の三好三人衆を難なく撃破し、京を抑え上洛を果たすと、足利義昭は征夷大将軍の座に着いた。一方、秀吉は、長秀、光秀とともに京の政務を任されていた。
「光秀どの、帝が信長さまに会われたいと申しているようじゃが、お主ならば、朝廷と交渉できるであろう。」
「秀吉どの、帝を敬われなされ。」
そう秀吉に進言した者は明智光秀である。秀吉はこの者を最初に見た時から、あまり好きには思えなかった。
「そうであったな。」
「口には気をつけなされ。」
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1566年5月、第13代足利将軍義輝が、三好三人衆等に討ち取られたという大事件「永禄の変」が起こる。これにより、義輝の他にも、弟で鹿苑寺の院主だった周暠、実母慶寿院が打ち取られた。しかし、同じく弟であり、一乗院門跡であった、覚慶は家臣の計らいにより、窮地を脱した。その後、覚慶は各地を放浪し、とうとう織田信長の下に流れ着いた。一方、その頃畿内では、三好家の中での主権争いが松永久秀と三好三人衆の間で繰り広げられていた。結局、両者決着を付けきれなかった。1568年2月そんな中、三人衆は14代将軍として足利義栄を就任させた。だが、義栄はその頃病を患っていたため、入京出来ず、三人衆は将軍を上手く利用することができなかった。
半年後の1568年9月には、信長が上洛軍を編成し、上洛を開始する。これに対して、三人衆や三好康長、篠原長房が上洛を阻止しようとするが、阻止出来ず、義昭・信長は上洛を果たした。同月30日には、三好氏の居城摂津芥川城に入城すると、三好勢は阿波に撤退した。義昭は芥川城滞在中に摂津の池田勝正、伊丹親興、河内の三好義継、畠山高政に支配を認めた。また、親義昭側に付き、三好三人衆と争いを続けていた松永久秀には大和を切り取り次第で与えるとした。義昭は18日には将軍に任命され、22日に参内を果たした。
10月26日、信長は義昭を連れ上洛をし、義昭を将軍に即位させるという目的を達成したため、岐阜へ帰ろうとしていた。そのため義昭は恩人である信長を見送る目的で宴会を開いた。そこには、織田家の重臣や幕臣等も参加していた。
「禿げ鼠!何かしてみせよ!」
「のっ、信長さま、それでは、また柴田さまに言われてしまいまする。」
「権六(柴田勝家)よいであろう。」
「。。。信長さまがおっしゃるならば、良いのでは。」
「ハッハッハ。かたじけのうございます。。。それでは、皆様!秀吉めが、猿踊りをさせていただきますぞ!」
秀吉が踊り始めると、会場は盛り上がった。秀吉が30分ほど踊ると、信長は飽きたのか、秀吉に踊りを止めさせた。
「義昭さま、儂はここらでお暇させていただきます。」
「信長どの、もう少しおられよ。」
「明日にも経ちます故。」
「そうであるか。」
「では。」
そう言い、信長は宴会の席から抜け、側近とともに、寝室へと向かった。部屋を出て、廊下を歩いていると、庭に佇む中年の男性が居た。信長はその者に惹かれ、声を掛けた。
「お主、何をしておる。」
すると、遠くを眺めていた男性は慌てたように平伏した。
「も、申し訳ございませぬ!将軍さまだとは思いもせずに!」
「。。。信長じゃ。よい、面を上げよ。」
「は、はっ。」
男性は恐る恐る顔を上げた。すると、そこには噂で聞くような信長像とはかけ離れた男が居た。
「名を何という。」
「某は、藤孝さまの奉公衆の、明智十兵衛光秀にございます。」
「。。。十兵衛よ、将軍さまを頼んだぞ。」
「はっ!」
すると、信長は奥の部屋へと消えていった。
「なぜ、足軽ごときの分際で、信長さまに声を掛けられるのじゃ。」
と、秀吉はその様子を影で見ながら、心の中で思った。
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12月24日に松永久秀が信長への礼のために岐阜に下った。久秀の居ない隙を狙って、三好三人衆が動き出した。12月28日に斎藤家旧当主斎藤龍興を先鋒とした軍が、将軍方の三好義継家臣の守る堺方面に位置する和泉家原城を攻め落とした。1569年1月2日には堺を出発して、京に向かい、4日に東福寺近辺に陣を置くと、まず京の将軍の詰城である勝軍地蔵山城をはじめとして、洛東や洛中周辺諸所に放火して将軍の退路を断った。
−本国寺−
対する将軍方は本国寺に立て籠もり、籠城する構えを見せた。翌日、三人衆は10000の兵を連れ、攻め寄せてきた。戦場が寺ということもあり、守りの方が厳しい筈が、織田家臣、若狭武田家臣延べ2000が奮闘した。
「将軍さまをお守りせよ!」
「我らは若狭武田家臣山県盛信!」
「宇野弥七にある!」
「逆臣どもめ!正々堂々勝負せよ!」
若狭武田家臣山県盛信、宇野弥七の2人がとくに奮闘し、敵の先鋒薬師寺貞春が寺内に侵入しようとするのを防いだ。三人衆達は寺内に入ることすらできずに日が暮れたため、兵を収めた。その間に、細川藤孝、三好義継、池田勝正、伊丹親興が救援として攻め上がった。
1月6日に将軍襲撃の知らせは岐阜にも届いた。信長は、松永久秀とともに、部下をろくに連れずに馬を走らせた。その日は、雪が降っていたが、京に急行した。同日、七条では、三好勢が三方から攻撃を受けていた。これを受けて、本国寺の兵も打って出た。その中には、信長に城で声を掛けられた明智光秀もいた。彼は、鉄砲衆を指揮し、三好勢の足止めに貢献していた。
「放て!」
光秀が言うと、彼の前方から、煙が上がり、正面の敵が倒れていった。血が飛沫を上げて、飛び散った。
三好勢の被害が増えたため敵は不利を悟り、撤退しようとした。彼らは必死に逃げたが、逆臣を許すような者は居なかった。結局、両軍は桂川湖畔で合戦に及んだ。
「逃げよ!」
三好方の方からそんな声が響いた。彼らは我先にと川を渡ろうとしたが、川の流れに足を取られ、上手く抜け出せなかった。
「放て!」
明智隊より放たれた銃弾が馬に乗る武将に当たった。彼は、最初に何秒かは乗り続けたが、すぐにズルリと馬上から落ち、飛沫を上げた。彼はそれでも死なず、立ち上がろうとし、刀を杖のようにした。しかし、彼をまたもや銃弾が襲った。彼の体は打たれるごとに動いた。続けざまに5,6発を撃たれた彼は、最後に後ろを振り返り、何か呟いた。容赦のない最後の1発が彼の眉間を貫き、彼は回転力を失ったコマの様に川に倒れた。すでに川は赤く染まっていたため、何も変わらなかった。石の様に人間が重なっていた。
「敵将、討ち取ったり!」
その首は本国寺へと持っていかれた。調べると、信濃の名門小笠原家の小笠原信定という人物だとわかった。彼は武田信玄に所領を追われ、三好家の客将となっていたのだ。
−1月10日−
信長は10騎ほどで本国寺に駆けつけた。寺は半壊状態であったが、義昭が無事だということを聞き、心から安堵した。そして、信長は城で以前見た、男がいるのに気が付いた。
「光秀か。」
「あっ。信長さま!」
「聞いたぞ。お主が公方を守ってくれたのだな。」
「いえ、某はただ。」
「よい。お主に褒美を渡そう。」
「いえ、某に褒美など、もったいないですぞ。」
「良いのじゃ。受け取れい。」
光秀は困ったような顔をしたが、考え直し褒美を受け取ることとした。
信長は、今回の襲撃により、将軍の警備の手薄さに危険を感じ、防御力を兼ね備えた将軍御所の建築を始めたのだ。
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