第11話 伊勢神宮と剣豪大名
近江国を抜け、南の伊勢国に入った。伊勢国の国史には名門北畠家が就いており、現在の当主は北畠具房であるが、先代当主北畠具教は、剣術を好み、塚原ト伝から、剣術、兵法を学んでいる人物であった。
-伊勢神宮-
今日は行事があるわけではないが、人で賑わっていた。話を聞くと、いつもこの様子らしい。普段は参拝客で溢れ、平和なはずだった伊勢を揺るがす事件がこの歳(1667年)に起こった。
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-伊勢の情勢-
当時より、南伊勢は守護大名である北畠家が、中伊勢は長野氏(工藤長野氏)、北伊勢は関氏が勢力を振るっていた一方、北伊勢では「北勢四八家」と呼ばれた豪族が手を組んだり、裏切ったりして生きながらえていた。また、1660年に桶狭間の地にて、「東海一の弓取り」と称された今川義元を討ち取ったことから急速に力をつけてきている織田信長が、旧同盟国の斎藤家を攻め、美濃平定を狙うと同時に、上洛への道として、必要になる近江の南腹に位置する伊勢をも攻め滅ぼそうと画策していたのだ。そして、1667年8月に信長は滝川一益を総大将とする軍を編成し、進軍。年内には、北勢四八家を降伏させ、翌1668年11月には関・長野・神戸の3氏を降伏させる。1569年には講和条件として、信長の次男である信雄を具房の養嗣子とさせた。遂には、北畠具教と具教の息子2人と北畠家臣14人を殺害し、北畠家の乗っ取りに成功した。
このため、信綱たち一行が伊勢参りをした時期が伊勢が平和であった最後の時期である。
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-霧山御所-
ここ、霧山御所は1576年頃に築城され、代々北畠家の居城とされてきた。そして、現在は北畠具政がこの城にいる。彼が信綱に指南を乞うたため、信綱たち一行は伊勢に来たのだ。この城は16000騎(騎兵だけなので、足軽や、他の兵種を含めると、更に巨大な軍となる)を率いる大将が入るだけの規模であった。
「そなたが、信綱どのにござるか。」
「いかにも。私は上泉信綱にございます。今は、放浪に身にござる。」
「そうか。ならば、予が召し抱えていたそうか。」
「いえ、儂とて、未だ若輩者。放浪の旅をし、己を鍛えているのであります。」
「残念だ。早速だが、予に一つご教授いただきたい。」
「分かりもうした。」
秀綱さんが指南している間、弟子の俺たちは暇だったので、霧島御所の周りを散策した。5日で稽古は終わった。
「信綱どの、かたじけない。予も今となっては、老骨に鞭を打ち続けなければならないと思いましたぞ。」
「そうですか。後は、稽古を積むだけです。」
「かたじけない。おぉ、そうじゃ。信綱どの、そなたに合わせたい者たちがおる。その者たちは大和に戻ってしまったが、柳生宗厳という者と、宝蔵院胤栄という者だ。」
「では、大和に向かってみます。」
「彼らは、柳生庄という、柳生宗厳の住処におるようです。信綱どのの話をすると、ぜひ会いたいと申すもので。」
「分かり申した。ならば、大和に向かいましょう。上洛をする上で、通ることも出来る故。」
「おぉ、そうか。かの者たちも喜ぶであろう。」
「では、失礼仕ります。」
こうして、伊勢での仕事も終え、次は北畠具政の勧めにより、大和国にいる柳生宗厳と、宝蔵院胤栄という者に会いに行くことになった。
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具政は、数々の剣豪に指南を受けたからか、織田の刺客に襲われたときには、太刀を手に、19人の敵兵を討ち、100人近くの敵兵に怪我を負わせたというほど、剣術に長けていた。
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