第38話 愛と枷と願い

 みんな、ごめんね。私は結局、自分勝手で押し付けがましいだけだった。あなたたちの枷にしかなれない、なり損ない。


 それでもみんなが愛してくれたから、私は生きてこられたの。


 死なないでなんて言える立場じゃないのに、身勝手でどうしようもない。しかも、私はこれから死ぬのに、あなたたちに何も言えない。


 ごめんね。勝手な女でごめんなさい。それでも愛しているわ。最後に顔が見たかった。


 でもね、私、あの子のこと恨めないの。


 救ってあげたいと思ってしまったの。誰も悪くないのよ。世界があまりに意地悪だっただけ。みんなそれに巻き込まれただけだった。


 ちぃちゃんごめんね。恨んでくれていいから。私という枷を呪ってくれていいから。救えるのはあなただけなの。


 愛しているわ、心から。ごめんね。


    ◇


 静まり返った礼拝堂の中。その場所だけ時が止まったような静寂が包む空間で、玉座に座る小さな人影は、とても退屈そうに息をついた。その微かな音でさえ、静かな空間にはこだまして、吸い込まれていく。


 不意に扉が音を立てて開いた。その音に玉座に座ったハイドラが静かにそちらを見る。扉を開けて現れたのは、美萌草だった。


 右腕が千切れ、腹部に大きな穴を開けた血塗れの美萌草は、おぼつかない足取りで、礼拝堂の中に入っていく。美萌草の深緑の瞳に、目の前の玉座に座るハイドラの姿が映った。


 ハイドラはいつも深く被っていたローブを脱ぎ、その顔を晒していた。褐色の肌に白銀の髪。光の反射によって幾重にも変わる瞳の色は、宝石を埋め込まれているようで、あまりにも人間離れしている。


 その姿は神々しいとも言えるほど、美しく幼い少年だった。普通の人間と変わりない姿だが、一つ違いがあるとするならば、この世界に褐色肌の人種は存在しない。


 ハイドラはボロボロの美萌草を見つめ、芯まで凍りつきそうなほどの冷たい声で言った。


「我を殺しに来たのか」


 美萌草はその場で立ち止まり、ハイドラを見た。その瞳には、殺意も敵意も宿っていない。ただ、悲しげに同情的な目でハイドラを見ていた。ハイドラが怪訝そうな顔をする。


「いいえ。違うわ」


「じゃあ、何をしに来たというのだ? その死にかけの身体で何ができる、失敗作」


「……えぇ、失敗作だわ。あなたが求めていた者とはかけ離れた、失敗作。でもね、あなたが求めている者は、二度と戻らない」


 ハイドラが美萌草の言葉にキョトンとした顔をして、意味を理解してその瞳に憎しみを露わにした。美萌草に明確な敵意を向け、静まり返っていた礼拝堂内の空気がざわめきだす。


「お前……どこまで知っている。誰に聞いた。テトか」


「知っているわ、全て。あなたがただの可哀想な子供だということも」


 美萌草が一歩踏み出した。ハイドラが身構える。よろめきながら歩みを進める美萌草を睨みつけた。


「人間ごときが我を侮辱するのか」


「居場所もなく、世界に拒絶された可哀想な異物。ただ、愛されたかっただけなのに」


 美萌草の瞳が真っ直ぐハイドラを捉えている。その目にハイドラが少したじろいだ。


「黙れ」


「あなたは愛されたかった。だからその姿なのでしょう? 小さな子供なのに泣き喚くことも許されなくて、孤独の底に沈んでいった。あなただって世界の不条理に巻き込まれただけだったのに。……母親に会いたかっただけなのに」


 ハイドラが目を見開いて美萌草を凝視した。握りしめた拳が微かに震えている。美萌草は歩みを止めず、ついにハイドラの目の前にたどり着いた。


「……でも、でもね、死んだ人は生き返らない。失ったものは二度と戻らない。無から有を作ることはできないのよ……」


 美萌草が言った。幼い子供をあやすような優しい声で、語りかけるように慈愛に満ちた表情を浮かべている。


「……黙れ……」


 ハイドラの小さな身体がブルブルと震え出した。かすれた声を絞り出し、ハイドラは顔を上げると声を張り上げる。


「黙れ‼︎ お前に何がわかる⁈ 失敗作のくせに‼︎ 出来損ないのくせに‼︎ わかったような口を聞くな‼︎」


「……あなたが欲しかったのは、不死身の化け物じゃなく、不死身の人間。ずっとそばにいて、自分を愛してくれる人。愛してくれる、母親だったのね」


「うるさい‼︎ うるさいっ‼︎ 黙れっ‼︎ 邪魔をするな‼︎ 我の邪魔をするな‼︎」


「世界があなたを拒絶しなければ、どれほど良かったのかしら」


「黙れっ‼︎」


 ハイドラの悲痛な声は、駄々をこねる子供のようで、美萌草は悲しそうに笑った。存在を許されない可哀想な子供に同情して、震える身体に手を伸ばす。ハイドラは頭を抱え、小さくうずくまった。


「我は……我は……ただ母に問いたいだけなのだ……」


 ハイドラが顔を上げる。その瞳は目の前にいる美萌草の影によって黒く染まっていた。反射して、瞳に美萌草の姿が写っている。


「なぜ我を産んだのかと。なぜ、産み落としたのかと……」


 そう言ったハイドラの声は、氷のように冷たかった。幼い少年の声なのに、どこか人間離れした仄暗い声。美萌草の手が止まり、ハイドラは美萌草を睨みつけた。


「違うわ、違う。あなたは母親を求めているだけ。愛に飢えているだけ……愛してあげられればよかったのに……」


 美萌草がまたハイドラを抱きしめようと手を伸ばした。ハイドラが歯を食いしばり、美萌草が伸ばした手を睨みつける。その目には憎しみと怒りが満ちていた。


「黙れっ‼︎」


 悲鳴にも近い叫び声と共に、美萌草の左胸をハイドラの手が貫通した。


 美萌草の口から赤い血が飛び出す。美萌草の身体を貫通したハイドラの手には、しっかりと美萌草の心臓がまだ温かいまま握られていた。


「……お前に……何がわかる……‼︎」


 ハイドラが腕を引き抜く。美萌草の身体がハイドラにもたれかかるように倒れ、ハイドラがそれを振り落とした。地面に叩きつけられた美萌草の身体から血が溢れ、血溜まりが広がっていく。


 左胸に大きな穴を作った美萌草は、ただ静かに息を止めていた。その頬に、一筋の光る涙が流れていたことに、ハイドラは気がつかない。


 しばらく手にした美萌草の心臓を見つめたハイドラは、歯を食いしばると、心臓を握りつぶした。辺りに血が飛び散り、その血が美萌草の骸を汚す。赤く染まった自分の手を見つめて、ハイドラは血が付くこともかまわず、顔を手で覆った。


「……我は……我は……」


 ハイドラの身体の輪郭が揺めき始める。少年のようだった声は、まるで無数の人が一斉に話しているような不気味な声に変わり、形を留めない身体は、大きくなったり小さくなったりを繰り返した。ハイドラの瞳は地面の血の赤色を反射して赤く染まる。それとともに、ハイドラのいる空間そのものがおかしくなっていった。輪郭が揺れて波打つ。音が変に反響する。


「……我は……ただ……!」


 美萌草の骸は何も言わない。それを見つめて、ハイドラは悲鳴を上げた。幼い子供が恐ろしい夢を見た時のような、甲高い声を辺りに響かせ、ハイドラは絶叫する。


 その声は愛に飢えた化け物の鳴き声のようにおぞましく、母とはぐれた子供の泣き声のように悲痛なものだった。


    ◇


 目の前で額を撃ち抜かれ、ピクリとも動かなくなった美麗を見て、玉砕が向けていた銃口を下ろした。左腕に力は入らない。身体中から溢れる血が地面を濡らしている。


 傷だらけの自分の姿を見て、玉砕が力なくふっと笑った。二、三歩よろめき、その場に座り込む。脇腹からとめどなく溢れる血を止めることもできず、崩れていく美麗の身体の近くで息をついた。溢れる血は地面を染めていく。


 玉砕がそっと手を伸ばし、目を開けたまま息絶えている美麗の目を閉じた。目を閉じた美麗は額に穴が空いているものの、とても美しい顔をしている。


「美麗に勝ってしまうのか」


 聞こえた声に玉砕がゆっくりと振り返った。玉砕の目に映ったのはテトの姿。崩れていく美麗の死体を見つめて、テトは静かに言葉を続ける。


「どちらが化け物か、もうわからないな」


「……何者だ」


「テトという者だ。……美萌草にお前を探すよう頼まれた」


 テトが口にした美萌草の名に、玉砕が目を見開いた。次の瞬間、辺りに銃声が響く。銃弾はテトの頬を掠めて壁に穴を開けた。テトに銃口を向けた玉砕は、静かにテトを睨みつける。


「美萌草に何をした」


「……伝えただけだ、我が教祖の真実を。そして、主導者玉砕、お前にも伝えるように頼まれた」


「お前はプシュケの人間だろう」


「その通り。だが、私にはもう生きる理由がない。全てを終わらせたくなった。それだけだ」


 玉砕はテトを信用せず、銃口を向けたまま睨みつけている。テトはそんな様子にもかかわらず、何食わぬ顔で玉砕に近づいていった。


「殺したければ殺せばいい。だが、お前が今私を殺せば、美萌草の最後の願いは叶わないことになる」


「最後?」


「お前には知る権利があるのだと、知っておくべきなのだと美萌草が言っていた。そしてそれは美萌草の最後の願い……いや、もう一つあるが、最後の願いの一つだ」


「美萌草は今どこにいる⁈」


 声を荒げた玉砕の傷口から血が溢れた。銃口を向けられたまま、テトは静かに玉砕を見つめている。


「……美萌草は、我が教祖の元へと向かった」


「一人で? ……なぜだ……!」


 玉砕が立ち上がろうとして、テトがそれを静止する。玉砕がテトを睨みつけ、声を荒げた。


「どけ‼︎ あいつを……! あいつを死なせるわけにはいかない……‼︎」


「……頼む……どうか、どうか、美萌草の願いを叶えてやってくれ。私は頼まれたのだ。頼まれてしまったのだ。どうか……信じてくれなくてもいい。ただ、美萌草の思いを踏みにじらないでくれ」


 テトの必死の訴えに、玉砕は唇を噛みしめて少し考えた後、向けていた銃口を下ろした。


「……あいつは、何を伝えたかったんだ」


「我が教祖の真実と、この世界の理を」


「お前はなぜ、プシュケを裏切った?」


「もとより生きたいと願ったわけではない。生きたいとも思わない人生だった。ようやく見つけた存在意義も、自ら投げ捨てるような不完全体なのだ。もう、終わらせたいと。終わりにしたいと美萌草に言った。あの女ならば、我が教祖を救えるかもしれないと」


 テトが少し悲しそうな顔をして「愚か者だ」と呟いた。その顔は、あまりに人間味帯びていた。


「伝えよう、私の知りうる全てを。……だが、その前にお前の止血をせねばならないな。そのまま出血死されてもかなわぬ」


 テトがしゃがみ込み、玉砕の止血を始めた。

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