第37話 慟哭の化け物

 私は誰よりも美しくなければならない。美しく端麗で艶やかに、そうでなければ生きている意味がない。


 そう、言われたの、私が大嫌いな男に。


 男? 私、殺される。男なんかに、汚らわしい男なんかに銃口を向けられている。


 なぜ? 私は美しくなければならない。こんなところで死ぬはずがない‼︎ 


 そんな目で見るな、私を見るな。私は美しい、私は美しい、私は美しい‼︎ 


 私は、私は誰よりも美しい‼︎


 お前のような男に殺されるだなんて、王凛を殺した罪人も裁けずに死ぬなんて、教祖様に与えられた命を失うなんて。


 違うっ‼ これは夢、悪い夢。現実のはずがないでしょう?


「見ないでぇぇっ‼︎」


 銃声が聞こえた。何も見えなくなった。色彩は全て奪われる。


    ◇


 私はタータンの貴族として生まれた。由緒ある高貴な家柄。その中でも三人姉妹の一番下として生まれた私は何の才も持ち合わせていなかった。


 上の姉二人は、長女は歌、次女は踊りと才能を持ち合わせていのに、私が授かったものは美しい容姿のみ。それでも、私の容姿は人を惹きつけ、両親は私を溺愛した。


 姉二人はどれほど私のことが妬ましかったのかしら。どれほど才を磨いても、結局評価され表に出るのは私ばかり。姉たちは私のことが大嫌いだった。毎日のように繰り返される嫌がらせと、私に向けられる冷たい視線。ヒソヒソと交わされる私の悪口。


 それでも、私は姉たちのことが好きだった。長女の美しい声も、次女の煌びやかな踊りも、私を惹きつけて仕方がなかった。どれほど嫌なことを言われても、嫌なことをされてもずっとそばをつきまとう私は、姉たちにとってとても気味が悪かったでしょう。


 それでも信じてやまなかった。いつか、美しい姉たちが私に笑いかけてくれるのではないかと。両親にどれほど可愛がられようと、それを見た姉たちが悲しそうな顔をするのが嫌だった。


 ある日、両親が私たち姉妹に告げたことは、姉たちの顔を久しぶりに輝かせた。


 タータンの貴族の中でも頂点に位置する権力を持つ名家の一人息子が、自分の妻となる女を探していると。そして、その候補に私たち姉妹が選ばれ、三人のうち誰か一人が選ばれると。


 それを父上から聞いた時の姉二人は、今まで見たことがないほど喜んでいて、私は嬉しくなったものだった。もしどちらか一人が選ばれてしまって姉に会えなくなったとしても、姉が幸せならばそれでいいと。その美しい笑顔を浮かべてくれていれば私は十分だった。名家の息子が来る日を心待ちにして、ソワソワと準備をしている姉たちが微笑ましかった。


 だが、私の願いとは裏腹に、両親は私が選ばれると確信していて、私のために豪勢なドレスを仕立て、私を着飾った。そんなものいらないと拒む私を無視して、それは、それは美しく仕上げてみせた。姉たちは悔しそうだった。


    ◇


 当日、姉たちより豪華なドレスを着せられた私は浮かない顔をしていたでしょう。姉たちも不安そうな顔をしていた。


 そんな私たちの前に現れたのは、美しい顔をした高貴な男性。


 姉たちは一目で恋に落ちたのでしょう。私ですら、その素晴らしい容姿に目を奪われたのだから。


 頬を高揚させる姉たちと、一人浮かない顔をしていた私を一瞥し、その方と私の目が合って、私は目を逸らした。選ばれるのは姉でいい。私はここにいたいと、姉のそばにいたいのだと示したつもりだった。


 だけど、その方は真っ直ぐ私の元へと歩いてきて、私に手を差し伸べた。


「お前が一番美しい」


 その言葉は両親や他の男性たちに何度も言われた言葉だったけれど、その方から発せられた言葉は色づいて見えた。


 あぁ、私はあの瞬間、頬を高揚させていた姉たちと同じように、恋する乙女と化していた。その手を取るのに少し躊躇って、恐る恐る手を取ってしまった。


 姉たちの顔から血の気が引いて真っ青に変わる。長女は今にも倒れそうだった。それでも私はその方に身を委ねた。初めて、美しいと言われて喜びを感じた瞬間だった。この方に会うために生まれてきてよかったとすら思った。


 私は酔いしれていたのでしょう。周りすら見えないほど、愚かに。


 夫の家に嫁ぎ、数週間が経った頃、実家から一通の手紙が届いた。その内容は、私の心を深く抉ることになる。


 手紙には、姉たちが自殺したと書かれていた。お互いの心臓に果物ナイフを深く突き立て、寄り添うように死んでいたと。


 目の前が真っ暗になった。姉たちを私が殺したと言っても過言ではなかっただろう。姉たちは、私の夫に選ばれることを最後の希望としていたのに、伸ばされた手を振り払わなかったのは私。


 両親からの手紙には、決して私のせいではないから、姉たちの分まで幸せに生きなさいと綴られていた。夫も私を慰めた。


「お前は美しい。その美しさは周りから妬ましく思われ、嫉妬されるものだ。生きているだけで犠牲が出ることもある。お前の美しさは姉上たちのおかげで際立っていたのだから、姉上たちもお前の糧となれて幸福であっただろう。安心しなさい。姉上たちは決してお前を恨んではいない」


 その言葉を私は鵜呑みにした。そうでなければ壊れそうだった。姉たちは私のせいで死んだのではない。苦しんで死んだのではない。幸福に、安らかに眠ったのだと。


 夫は私の容姿を幾度となく褒めちぎった。何一つこなせない私をそばにおき、お前は存在するだけで価値があるのだから、そのままでいいのだと諭した。


 その言葉に甘え、与えられるドレスに身を包み着飾った。夫は私の珍しい黒色の瞳をいたく気に入ったらしい。


「お前の瞳はオニキスのように美しい。ずっと私のそばにいておくれ。お前は美しいだけでいいのだから。それ以外、何も必要ないのだから」


 夫は厳格な人だった。美しいもの以外自分のそばに置きたくないと、いつも美しいものに囲まれていた。


 それに見合うほど夫は美しかった。


 私の存在意義は美しくあること。夫の装飾品であること。だから、この世界の誰よりも美しくなければならない。何一つこなせない女は美しい花であらねばならない。


 夫は私に優しかった。だから、私も美しくいようと思えたの。夫のそばに咲き続ける一輪の花として。


「愛しているよ。何よりも美しいお前を、何よりも輝く君を。お前以外、私は愛せない」


 満たされていた。夫に心の底から愛されて、私の心は満ち足りていた。あんなに思っていた姉たちの顔も名前も忘れるほどに、夫の愛に酔いしれていた。それほどまでに、夫は魅力的な人だった。私以上に人を惹きつける美しさ。誰もが手を伸ばし、汚らわしいと払い除けられる。その中で私は触れることを許された。


 あの人に魅了された時点で、私はどうかしていたのよ。


    ◇


 夫婦になって数年後、愛くるしい娘が生まれた。私と夫の血を引いているのだから、それはたいそう美しく、赤子の時から他の者よりも、頭一つ飛び出していた。瞳の色は私と同じ黒い宝石。


 その愛らしさに、私はこの子のためならば何を捨ててもいいと思ったほどだった。それは夫も同じだったようで、生まれた娘を見て、何度も私に感謝した。


「お前をそばに置いてよかった」


 その言葉だけで満ち足りた。この子はどのように成長するだろう。それは、それは美しく、気高く育つに違いない。大輪の花のように美しくなるだろう。


 何一つとしてこなせなかった私は、娘の世話だけは熱心にやった。娘が顔をクチャクチャにして笑う姿が愛らしかった。愛情を一心に注ぎ、成長した姿を想像して頬を緩め、あぁ、早く並んで歩きたいと願っていた。


 夫は私が娘の世話をすることをよく思っていなかったらしい。夫は私に何もして欲しくなかった。ただ美しく、その場に存在するだけで満足だった。夫の不満げな視線を感じつつ、私は娘に愛を注いだ。


 娘が生まれて数年が経った。娘は美しく成長し、その華やかさはさらに増した。誰もが振り返るほどの大輪の花。そう呼ぶにふさわしかった。


「母上!」


 娘は立派に育ち、心優しく親思いな素晴らしい子供だった。いつも私と夫の後を追いかけ、輝かしい笑顔を浮かべながら手を伸ばす。その姿がいつの日だったか、二人の姉を追いかけた私に似ていた。


「私の目は母上と一緒の色!」


「えぇ、そうね」


 私と同じ黒い瞳は光を宿し、私の瞳よりも輝いていた。本物の宝石のようだった。


 赤子の時は顔を見にくる程度だった夫は、娘が言葉を覚え、自由に動き回るようになった頃には娘とともにいる時間が増えていった。沢山の娘の土産物を腕に抱えて帰ってくる夫の顔には満面の笑みが浮かんでいた。そして、私のための土産物は日に日に減って行った。


 疑問に思うことはなかった。親が子供を愛でることはおかしいことではないのだから。


 だけど、なぜかしら。その頃から私に向けられる夫の視線が冷たく感じたのは、なぜ?


 私は気がつかなかった。夫の心の変化に、輝いていたはずの日々に、娘が驚くほど美しく育った事実に。


 なんて愚かな女なのかしら。何もできない女は、何一つ気づかずに、破滅の時を待っていたのに。


 夫が私に冷たくなった。話しかけても生返事で、話すことは娘の事ばかり。ついに私への土産物は消え、家の中は娘の玩具や可愛らしいドレスが溢れていた。毎日のように積み重なるプレゼントについた札に書かれた名前は、私ではなく娘に変わっている。


 私は焦った。


 娘は多くの才能を持ち合わせていた。何もできない母とは違い、歌も踊りも何もかも、そつなくこなしていた。夫はそれを大いに喜び、あれよ、あれよと娘に色々なことを習わせた。成長を続ける娘は日に日に美しさを増し、誰もが彼女に惹かれていった。


 娘の成長を喜びながら、夫に何かしたのだろうかと頭を悩ませる夜が続いた。私が娘の世話をしたから? それとも、何か気に触ることでも言ってしまったのかしら? どれほど悩んでも、答えは見つからなかった。


 ついに、夫が私と口を聞かなくなった。話しかけても聞こえないふりをする頻度が増え、返事をしてもとても面倒くさそうな声を出す。今まで私の声をひとつたりとも聞き逃さず、笑顔で返してくれた夫はどこに行ったというの?


 娘は私にとても懐いていた。実の母親なのだから、それは当たり前のことだったのかもしれない。


「母上! 今日、新しいお歌を習ったの!」


「母上! 私の踊り、見にきてくれますよね?」


「母上! 見て! 父上から新しいドレスを貰ったの!」


 その笑顔に救われていた。夫の態度に不安を覚えつつ、それでも娘がいればそれでいいと思っていた。この子が生まれた時、この子のためならば何を捨ててもいいと思ったのだから。


 だけど、ついに夫は私のことを完全に無視するようになった。


 どうして? それだけが頭の中を支配する。娘の笑顔も疎ましくなっていった。限界を迎えた私は、夫に直接問いただした。


「どうして無視するの⁈ 私が何か気に触ることをしたのなら、ちゃんとそう言ってちょうだい‼︎」


 夫の返答は思ってもみないものだった。


「お前はもう美しくない」


 その言葉は私を真っ直ぐに貫いた。私の存在意義、存在理由、その全てを今、あなたは否定した?


「娘の方が美しい。美しいもの以外、私のそばにふさわしくない」


 頭を殴られたような衝撃だった。あなたが選んでくれたのに。二人の姉を蹴落として、あなたが美しいと言ってくれたのに。私以外愛せないと言ったのに。


 それなのに、必要ないと捨てるの? そばにいればそれでいいと言ったくせに、何もできない女を一人、置いていくの?


 家の主人から存在を否定され、召使いたちも私のことを無視し始めた。何もできない私は夫の顔色を伺いながら、ひっそりと家の中で生きて行くほかなかった。家に住み着いた、一匹の薄汚い虫のように惨めに。


 私に話しかけてくれるのは心優しい娘だけだった。傷心している母を気にかけ、毎日のように笑顔を浮かべながら話しかけてくる。それが何よりの支えだった。私の心が壊れるのを、ギリギリのところで食い止めてくれていた。


 大丈夫、私には娘がいる。心優しく、清らかで可愛らしい娘だけは、私の手を握って目を輝かせてくれる。大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。


 娘がいれば私は生きていられる。愛されていると感じられる。


「なぜ、父上は母上に冷たくするの?」


 聞こえた言葉に扉を開けようとしていた手を止めた。夫は今、娘の部屋で娘と話しているようだ。そして、娘の問いかけはあまりに無垢なものだった。私は息を潜め、聞きたくないと思いつつ、次の言葉を待った。


「……美しくないからだよ」


「母上は美しいわ! 誰よりも美しい目をしているもの! 父上はおかしい!」


「そんなことはない。お前の瞳の方が美しい。その瞳はまるでオニキスのようだ」


 夫は言い放った。それはかつて私に言ってくれた言葉。一瞬で私を魅了した、魔法の言葉。


「奴の瞳はもう、年老いて澱んでいくだけだ。老いは人を醜く変える。この世界で誰よりも美しいのはお前だよ、愛しい娘。お前以外、愛せない」


 何が音を立てて崩れ落ちる音がした。


 お前以外、愛せない? それは私に向けられた言葉だったはずなのに、いつからあなたの心は娘に奪われていたの? 


 あぁ、憎い。お前が。娘が。私のことを笑うの?


 お前だって老いていくじゃないか。自分だけはいつまでも美しいと、そんな妄想にいつまで浸っているの? そして、要らないものは投げ捨てるの? 人は誰でも老いていくのに⁈


 憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い‼︎


 娘が、あの男が、全てが。私は美しいのに。あなたが選んだくせに。姉を殺したのに。全て捧げたのに。愛してくれると言ったのに。なんて醜い、汚い男。それでも心の底から愛している男。私が生涯を捧げた男。私を見なくなった男。


 娘さえいなければ。


「母上……?」


 娘が私の部屋の扉を恐る恐る開けて、その美しい顔を覗かせた。輝く瞳は本物の宝石のように美しい。


「母上、どうかしたの? とっても顔色が悪い……」


 あぁ、なんて心優しい子。部屋から出てこない母を心配して、駆け寄って小さな手で私の手を握る。その手は温かい。なんて立派に美しく育ってくれたのかしら。母としてそれほど嬉しいことはなかったのに。


「母上……大丈夫。私がそばにいますからね。ずっと、ずっと……」


 美しい声、美しい顔、美しい瞳。その全てが妬ましい、疎ましい、煩わしい。愛しているわ、愛していたの。


 だけどね、あなたは私から全てを奪うには、完璧すぎた娘だった。


 気がつけば、リビングで果物ナイフを手に立っていた。目の前は血で染まっている。その血は、娘の左胸からとめどなく溢れていた。手にした果物ナイフは赤い血で染まり、私のドレスにも血が飛び散っていた。


 娘は目を見開いて、驚いたような表情をしたまま、冷たくなって床に転がっている。血で染まった美しかったはずの髪も、冷め切った肌も、色彩を失った唇も、澱んで濁った色をしている瞳も。


 なんて醜いのかしら。


 私はこんなものに怯えていたの? おかしな話だわ。私の方が美しいに決まっていた。こんな小娘に負けるわけがないじゃない。


 それに、この子だって老いていくわ。人間なんですもの。だったら、あの人に捨てられる前に、美しいまま散らしてあげた方が良かったのね。そう、きっとそう。


 ぬるりとした感触で、顔にも血が飛び散っていることがわかった。拭おうとは思はなかった。


 後ろから聞こえた物音に振り返る。夫が目を見開いて、倒れた娘を凝視していた。その顔は真っ青で、血の気が引いている。口元が歪む感覚がして、私は夫が娘の姿が見えやすいように移動した。夫に見せつけるように。夫がフラフラと娘の元へと歩いていく。


 ねぇ、見て。私がやったの。私が、あなたの大切なものを壊してやったの。それ以外愛せないと断言したものを、この手でぐちゃぐちゃにしてやった。


 だから、見て。私を見て。


 夫が私を罵倒するのを待っていた。殴られたってかまわない。怒りに任せて私を殺してくれてもいい。ただ、見てほしいの。


 無視しないで、ちゃんとその目に私を映して。愛していると言ってくれなくてもいいから、私を見て。


 夫が娘の骸に縋りついた。そして、聞いたこともない大きな声で叫んだ。その様子に一瞬驚いて、私は口元を歪めた。娘を腕に抱いてうずくまる夫に近づいて、耳元で囁く。


「私が殺したのよ」


 夫の声が一瞬止まった。あぁ、やっと私に反応してくれた。


 ねえ、私を見て。そして罵倒して殴って「どうして実の娘を殺したんだ」って非難して。私の方を向いて。


 夫はまた声を上げて泣きじゃくった。私を無視して、私の声は夫に届かない。心を満たしていた高揚感がすっと消えて、身体から血の気が引くのがわかる。指先が震えて、ナイフを落としそうになった。


「……ねぇ、あなた……私が、私が殺したの。私が……」


 声が震えていて、弱々しい私の言葉は夫の泣き声に掻き消された。夫は自分の服が血で染まるのもかまわず、娘に縋り付いて、聞いたこともない大声をあげて、その瞳に私は映らない。


「私を見てっ‼︎」


 どうして? どうして見てくれないの? あんなに愛してくれたのに、その醜い小娘を選ぶの? どうしてそんな酷いことができるの。どこまで私の心をズタズタに壊せば気が済むの?


 果物ナイフを振り上げて、私は夫を刺した。追いかけ続けたその背を。いつからか私の視界には夫の背中しか見えなくなった。その背中は血で濡れていて、夫は娘に覆いかぶさるように倒れた。まるで、娘を守るように。


 私の口から絶叫が漏れた。


 やめて、そんなもの見せないで。死んでなお、私をもう愛せないことを証明しないで。ただ見てくれれば良かった。それだけで救われた。


 それなのに、あなたは私を突き放す。


 憎い、男が憎い。目の前の男が、私を愛せないと見せつける男が、美しくなければ使い捨てのように投げ捨てる男が。


 憎い、憎い、男なんて汚らわしい。どうせ捨てられるのならば、最初から拒絶して仕舞えばいい。憎い憎い憎い、大嫌いだ男なんて。全て全て消え失せてしまえ。


 指先が目の隙間に入り込む。そのまま邪魔な眼球を抉り出した。見たくないこんな光景見たくないの。


 目の前が赤くなる。それは娘の血? 男の血? それとも私の血?


 色彩は消える。何も見えなくなる。暗闇に溺れ、愛されていた宝石を潰し、赤く染まる世界に身を委ね、全てを憎んだ。


    ◇


 なにかしら、これ。


 私? そんなわけがないじゃない。私がこんな愚かしい女であるはずがないわ。私は美麗なのよ? この世界の誰よりも美しいのよ? 男を愛すなんて、実の娘を殺すだなんて、そんなことするわけがないでしょう?


 私がお慕いするのは教祖様だけなのよ。男なんて見ただけで吐き気がする。


 ここはどこ? 真っ暗ね。いいえ、私の視界はいつも真っ暗だけれど、そうじゃなくて……そう何も感じないのよ。音も匂いも風の感触も、まるで無の中に放り出されたようだわ。気味が悪い。


「美麗さん」


 王凛? その美しい声、王凛なの? 王凛、あなた今までいったいどこに行っていたの? 私に何も言わず勝手にまた外に出ていたのね。許されないわよ。ほら、そんな遠くにいないでこっちにいらっしゃい。


「……美麗さん……もう、いいんです……いいんですよ……」


 どうしたの? 王凛。そんな悲しい声をして。あぁ、王凛。とても久しぶりに感じるわ。もう二度と私のそばから離れてはダメよ? いいわね?


「はい。私は美麗さんのそばにいます。ずっと、ずうっと一緒にいますから……あなたを一人にしませんから……だから……」


 王凛。あなた手が温かいのね。本当にどうかしたの? 私の手を取ってどこにいくつもり? 私、今足が悪いのよ。あまり早く歩けないわ。


「もう……終わりにしましょう?」


 終わり? いったい何を? あぁ、そうだわ。私、あの汚らわしい男を殺さなくてはならないの。私に銃口を向けた、あの愚かしい男を。こんなところにいる場合じゃないわ。


「美麗さん、美麗さん。私、何があってもそばにいますから。離れませんから……もう疲れたでしょう? 美麗さんはもう十分苦しんだんです……十分すぎるほど……」


 王凛? あなた泣いているの? やめなさいよ。ほら、泣かないの。美しい者に涙は似合わないのだから。あなたは笑っていればいいのよ。それだけで美しいのだから。


「一緒に行きましょう。ずっと、ずっと一緒に」


 ……えぇ。そうね。行くわ、あなたとともに。私の美しい声とともに。暗闇の中でもあなたが手を引いてくれるもの。歩いていけるわ、ゆっくりと。王凛。あなたの手、本当に温かいのね。いったいどこに行くの?


 ……いいえ。いいわ。あなたとならどこへでも行くわ。それでいいの。それがいいの。だからその手を離さないで。私も二度と離さないから。


 楽になれるなんて思ってはいないけれど。

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