第35話 不完全な化け物
どれほどの時を共に過ごしたのだろう。何年生き続けてきたのだろう。何百年もの時を生き、とうの昔に私の生きる目的は消え失せていたはずだった。
痩せ細ったみずぼらしい少女に出会うまで。
鈴を転がしたような可愛らしい声も、何かを求めるように伸ばされる小さな手も、名を呼べば弾けるように笑う幼い顔も、汚したくなくて触れることはできなかった。私では叶わなかった人としての生をまっとうして欲しいと願ってしまった。
歪めたのは私なのだろう。
すまない、エリザベート。私と出会わなければ、もっと別の未来があったかもしれない。化け物になることも、戦いに敗れ崩れ落ちることも、愛していると伝えておけば良かったと後悔することも。
私は愚かななり損ないなのだ。人にもなれず化け物にもなれず、誰一人として救えない。汚すことを恐れて、手を伸ばすこともできない。生きたいと願ったわけではなく、ただ自由になりたかっただけで、なんと中途半端な存在なのか。
エリザベート、お前は幸福だったのだろうか。私は恨まれるべきなのだ。お前を化け物にしてしまった、その笑顔に応えられなかった。救えもしないとわかりながらも手を差し伸べた。それでもお前は愛していると言ってくれるのか。
愛していた。愛していたよ。
伝えれば重荷になると思って告げなかった。言わずとも伝わると思っていた。生きることに飽きていた私がただ気まぐれに伸ばした手を掴んだお前の純粋さが、何よりも眩しかった。
最後までそばにいてやれば良かった。離れなければ良かった。そうすれば、永遠に共に入れただろう。お前が辛い思いをすることはなかっただろう。
それでも、またお前の笑顔が見たいと願うのは、あまりに身勝手なことなのか。
◇
私がまだ人間だった頃、記憶に残っているものといえば、手を伸ばしても届かない真っ白な汚れひとつない天井だけだ。私は生まれた時から病気だった。
全身の皮膚は赤黒く爛れ、膿が溢れている。その皮膚は微かな風が触れるだけで熱を持ち、激痛を伴った。身体の自由はなく、毎日寝室のベッドの上で天井を眺め、たまに襲いかかる痛みに耐えていた。
涙を流せば皮膚を伝い、それがまた痛みになることを理解して、泣くことも笑うこともやめた。
私が生まれたのは戦争が激化し、毎日のように人が死ぬような、一般人なら明日を生きるので精一杯の頃。そんな中で私が生かされ続けたのは、私がリブラの貴族に生まれたからだ。
両親は、医者に治らないと匙を投げられた私を見捨てることはなかった。心の底から私を愛し、体を動かせない私の世話をして、私が満足できるほどの食糧を与えた。
それが心の底から煩わしかった。
両親が医者に向かって涙ながらに訴えていたのを、微かに聞いたことがある。
「あの子は私たちの天使なのです」
「どうにか、あの子を生かしてあげてください」
この私を、醜くみずぼらしい子供のことを、奴らは天使だと言って縛りつけた。延命長を重ね、貴重な薬に大金を払い、治ることのない病が治ると信じてやまなかった。それを狂気と呼ばずに愛と呼ぶのは、あまりに残酷な仕打ちだ。
お前たちは知らない。時折襲う激痛に怯えて、眠ることも許されない夜を。微かな空気の震えが、鋭い刃物となって肌を刺す感触を。外から聞こえる何らかの音に、羨ましいと願う虚しさを。痛みに身をよじろうとも逃れられず、叫び声を上げても紛れることのない苦痛を。
痩せ細った身体を動かすこともできず、ただ空虚を見つめて横たわっている者を、果たして人間だと言えるのか。いっそのこと、心臓の止まった屍になった方がマシだった。
天使のように自由でありたかったのに、私の羽は生まれた時からもがれていて、私は冷たい地を這っていた。ピクリとも動かない私を見つめる両親の生暖かい瞳は、私にとって恐怖でしかなかったのだ。
殺して欲しかった。
永遠に続く苦痛に耐えるぐらいなら、殺してくれと叫びたかった。だが、奴らはそれを許さない。毎日運ばれてくる味のわからない豪勢な食事と、何のために飲むのかわからない薬を押し込まれ、私は生かされた。
「私たちの天使」
「愛しい子」
積もるのは恨みと憎しみばかり。それを愛と呼ぶのは反吐が出る。呪いではないか。楽になることを選んではならないのか?
十数年、何も変わらぬ月日を過ごした。見える景色は天井のみだった。口から漏れる微かな息すら、自分のものなのかわからないほどだった。それでも、私の死は近づいてきていたらしい。
両親は医者から告げられたことに酷く動揺し大袈裟に泣いた。表情の一つも動かさない私に縋りつき、何度も何度も謝罪した。その謝罪は「健康に産んであげられなくてごめんね」や「治してあげられなくてごめんね」など見当違いなものだったが、その時、私は確かに満たされていた。ようやく死ねるのだと。楽になれるのだと。
今まで生きてきたどの瞬間よりも満ち足りていた。泣き喚く両親の声が聞こえないほど。初めて、顔を歪めて笑うほど。それほどまでに、死は私の救いだった。
医者からの宣告を受け、私が自分の死を今か今かと待ち侘びていたある日の昼下がり。両親が、見ず知らずの者を連れてきた。
両親は私のいる寝室に自分たち以外の者が立ち入るのを過度に嫌っていた。それは自分たちの天使のみずぼらしい姿を誰かに見せたくなかったからなのか、誰かが持ってきた病原菌に私が殺されるのが嫌だったのかはわからないが、私は医者と両親以外の人間に会ったことがなかったため、現れた者に驚いた。
厳密にいうと、その者は人間ではなかった。
「……みずぼらしいな」
私の前に現れたのは、白いローブを深く被っていて顔の見えない、背の低い人物。その声は少年のようで、どこか違和感があった。
その人物は不意に私の身体に手を伸ばした。褐色の肌をした、小さな手。その手は迷いなく私の腕を掴んだ。その瞬間、激しい痛みが走り、私は久しぶりに声を発した。言葉にならない叫び声が自分の口から飛び出して、喉を焼いた。
「何をするのっ⁈」
母が掴みかかって止めようとする。だが、その人物は表情一つ変えず、掴みかかってきた母を突き飛ばした。その力は少年のものとは思えず、突き飛ばされた母は尻餅をつく。
「その痛みから解放してやると言ったら、お前はそれに縋り付くか?」
解放? この永遠に続く苦しみから解放してくれるというのか?
ベッドに横たわりながら、いつも外を羨んでいた。外の世界が見てみたい。この狭い部屋から飛び出して、自らの足で地を歩けたら、どんなに幸福なことだろう。痛みに耐えることもなく、羽のように軽やかに舞うことができたなら。
とっくの昔に諦めていた。夢物語もいいところだと。叶うはずがない。私の病は治らないのだから。それを、治すというのか?
「治すのではない。痛みをなくしてやれるだけだ。そして、永遠に続く生を与えてやろう」
永遠の生など耳に入らなかった。私は痛みからの解放を求めていた。ただ自由になりたかった。その言葉に、私は微かに首を動かして頷いた。
その瞬間、その人物は私の心臓を鷲掴んでいた。
皮膚を突き破り、弱々しい脈を刻んでいた心臓を握っていた。母が悲鳴を上げる。ベッドの真っ白なシーツは私の血で赤く染まった。
自分が歪んでいく感覚がした。自分ではない何者かに変化していく感覚。痛みはほんの一瞬で、これまで耐えてきたものに比べればなんてことないものだった。
しばらくするとその人物は私の身体の中から手を抜き出し、母が私に縋り付いてきた。不思議な感覚だった。これまで容赦なく皮膚を突き刺してきた痛みがない。服から覗く手足の皮膚は赤黒く爛れているものの、熱を持つことも痛みを発することもなかった。私は自分の力で起き上がった。両親は私が腕や足を動かしていることに驚いて、大喜びした。
そして、私を抱きしめるために近づいてきた父の頭を、私は握り潰した。
母は悲鳴を上げることもできず、血の気の引いた顔をして、その場に座り込んだ。
お前たちは、私が動けるようになったことを喜ぶのだな。自分たちがどうなるかも知らず、のうのうと。お前たちの笑顔は私の憎悪を増幅させるものでしかないのだ。これまで、永遠に続くと思われた痛みに耐えてきた。殺してくれとも口に出せず、お前たちの生暖かい瞳に恐怖を覚えながら、孤独と苦痛に耐えてきた。
お前たちに何がわかる? 我が子の痛みをまるで自分の痛みのように感じようとも、それはただの錯覚以外のなにものでもない。本当の痛みを知っているのは、本人だけなのだ。
お前たちの身勝手さが私を苦しめた。生きていることが幸福だとでも思ったのか? 私にとっては苦しみでしかなかった。
「……なっ……なぜ……テト……どうして……!」
どうして?
決まっている。憎いからだ、恨めしいからだ。お前たちの愛は歪んだ愛だった。
「わっ……私の天使……! どうして……そんな目をするの……⁈」
天使などではない。手を実の父の血で赤く染めた者のことを、お前はまだ天使だなどと呼べるのか? 羽はとっくの昔にもがれていた。お前たちの手によって、天上に行くことさえできなかった。天使と呼ぶにはあまりに汚らわしい。
「……あっ……あぁっ……‼︎」
近づいてくる私に母は怯え、震えながら天使だった者に言った。
「化け物っ‼︎」
母の頭が潰れる。そうだ。その通り。私は化け物だ。お前たちが産み落とした化け物。天使になどなれるはずのなかった化け物。
笑った。声高らかに笑った。転がった父と母を嘲笑った。これがお前たちが天使と呼んだ者の末路だ。
愛と狂気が紙一重だと教えてくれたのは、紛れもなくお前たちだった。
痛みから解放された手足は軽く、声を発しても喉を刺す痛みはない。皮膚は爛れたままだが、それがなんだ。私は自由だ。この足で歩き、この目で外を見ることができる。自由になったのだ。
◇
その日から長い年月を教祖様と過ごした。戦争は何百年と繰り返され、愚かな人間は何一つとして学ぼうとしない。戦争が激化すればするほど、教祖様に縋る人間は増えていき、誰かが言った。
「教祖様の素晴らしいお考えを多くの人に伝えよう」
そして知らぬ間に、プシュケが誕生していた。多くの人間が教団に入ろうとも、教祖様が一体何者なのか知っているのは私だけのようだったが、教祖様は私のことを信頼しているわけではなく、ただ気まぐれに自分の出生を話しただけだったらしい。
その証拠に、成功例が増えれば増えるほど、教祖様は私から興味を無くしていった。それでも構わなかった。
数百年の時を生きた私は、人であった時に見ることの叶わなかった外の世界を知った。
それは、美しいというにはあまりにかけ離れたもので、これ以上見たくもないと思えてしまうほどだった。見えぬものは、見えぬからこそ美しかったらしい。
生きるのに飽きてきていた。そんな時、エリザベートを見つけた。
貧困地の小汚い小屋の前で、息も絶え絶えのみずぼらしい少女が倒れていた。手を差し伸べたのは、その姿が幼い時の私に似ていたからだろうか。名前もなかった少女にエリザベートと名付け、一通りの教養と衣食住を与えて、父親まがいのことをしてのけた。
エリザベートは私を本当の父のように心から慕い、どこにいくにも私の後を追ってきた。その様子に愛着が湧いたのは、至極当たり前のことだったのだろう。
可愛いからこそ、触れることはできなかった。私の皮膚は人を溶かす。エリザベートを傷つけたくなかった。
エリザベートは全てに飢えているようだった。手を差し伸べた当初、私のことを人間と認識せず、伸ばした指にかぶりつこうとした程に、いつも何かに飢えていた。
きっと愛にも飢えていたのだろうが、人の愛し方がわからない私は、満足にエリザベートを愛してやれなかった。それでも、人として生きて欲しいと願っていた。
「エリザベートはずっと、永遠にテト様のお側にいられますね!」
エリザベートは知らぬ間に、私と同じ化け物へと変貌していた。
あぁ、私はお前の飢えを満たしてやることができない。何者にも触れられない私の手では、その愛くるしい頬に触れることすら叶わない。
私のせいだ。化け物は化け物しか産まなかった。それでも、エリザベートへの償いに、ずっとそばにいてやりたいと思っていたのだ。どんな姿であろうとも、どれほど飢えていようとも、愛していると伝えたかった。
やはり私は、天使にも神にも人間にすらなれぬ、失敗作のようだ。
見て見ぬ振りをしてきた。教祖様も飢えていた。だが、私ではどうすることもできないと。
あの女は自らの命も惜しまず、誰かのために生きている。その身が人ではなかろうと、愛を持って人に尽くしている。その優しさで、教祖様の心は溶けないだろうか。いや、無理だろう。あの方を救える者は、もうこの世にはいない。
せめて、解放して差し上げねば。あの時、教祖様が私を自由にしたように、あの方も何かに縛られることのない場所へ。そんな場所あるのかどうかわからないが、せめてあの方の中で何が変わればそれでいい。
あの方を解放できるのは、チカゲしかいない。
私にはもう生きる理由がない。そもそも、エリザベートがいなければ既に終わっていた命だ。最後ぐらい、何かの役に立って死のうではないか。
結局、教えていただいた名を呼ぶ機会はあまりありませんでしたね、ハイドラ様。
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