第34話 最後の言葉

 崩れていくエリザベートの身体を見つめながら美萌草は悲しそうな顔をしていた。


 エリザベートは愛しい人の名前を呼ぶのをやめて、ただ嗚咽を漏らす声が響いている。エリザベートの視界は既にぼやけていて、すぐそばに立っている美萌草の姿の輪郭がぼんやりと映った。


 不意に、美萌草が何者かの気配に気がついて後ろに振り返る。そこには、冷たい瞳をした、身体中を包帯で巻いている男が立っていた。


 美萌草の頬に冷や汗が伝う。武器は壊れて使い物にならない。エリザベートに食われた右腕は再生しておらず、抉られた腹部の再生も途中で止まっていた。


 テトは真っ直ぐ美萌草に向かって歩いてきて、美萌草が身構える。片手に折れた六尺棒を握り、テトを睨みつけた美萌草は、思うように動かない体を無理やり動かして、テトに向かっていった。


 手にした六尺棒の刃を振りかざし、首元を狙ってその刃を突き立てようとした瞬間、テトは眉一つ動かさず刃を避け、美萌草の背中に回し蹴りを喰らわした。


 美萌草の身体が後ろに少し飛んで、地面に倒れる。テトは倒れた美萌草を一瞥し、背を向けてエリザベートの元へと向かって行った。


「……テ……ト……様……?」


 ぼやけた視界に映った人影に、エリザベートがかすれた声で問いかける。テトが「あぁ」と短く答えて、エリザベートのそばで膝をついた。エリザベートはその返事に満面の笑みを浮かべた。


「……テト……様……あぁ……テト様……」


 テトがエリザベートの頬に向かって、躊躇いがちに手を伸ばした。脆いガラスに触れる時のような慎重な手つきで、そっとその指がエリザベートの頬に触れる。


 エリザベートは笑いながら一筋の涙を流した。


「……テト様……エリザベートは……」


 触れられた手に安心したようにエリザベートは目を瞑り、冷たい手の感触に酔いしれるように最後の言葉を口にした。


「永遠に、テト様を愛しています」


 はっきりと紡がれたその言葉を最後に、包帯が巻かれたテトの冷たい手の中で、エリザベートの顔が崩れ落ちた。


 変色して縮んだ小さな肉片がテトの足元に転がり、テトは何も言わずにゆっくりと、惜しむように立ち上がる。


「……エリザベートを殺したのはお前か?」


 テトが後ろで自分の首元に刃を突き付けている美萌草に、背を向けたまま問いかけた。美萌草がその声色に息を呑む。手が微かに震えていた。


「えぇ。そうよ」


 滲み出る恐怖を飲み込んで、美萌草がはっきりと答える。テトが振り返った瞬間に刃を振れるように身構えた。


「……そうか」


 テトが振り返る。美萌草が刃を振りかぶって、テトがそれを止めた。刃には触らず、六尺棒の柄を包帯がほどけた手で掴む。テトの皮膚が赤黒く変色したミイラのような細い腕に、美萌草が目を見開いた。


 テトに握られた六尺棒はジューッと音を立てて溶け始め、美萌草が慌てて六尺棒から手を離す。武器を無くして美萌草はテトから距離を取ろうと退いた。テトはそんな美萌草に見向きもせず、包帯がほどけた自分の手を見つめていた。その瞳は悲しそうだった。


 美萌草はテトの様子に困惑しながらも、どうにかテトに対抗できる手段を考える。


「無駄なことをするな。勝ち筋がないことはわかりきっているだろう」


「……それでも、勝たなくてはならないのよ」


「その身体でか?」


 テトが美萌草のボロボロの身体を見つめる。食いちぎられた右腕は再生せず、腹部の再生が途中で止まっていることが、何よりの証拠だった。


「お前の細胞再生はもう限界だ」


「……」


 テトの言葉に美萌草が黙り込む。


「何年前だったかは忘れたが、脱走した最初の成功個体がここまで生き延びているとはな」


「!」


 美萌草が驚いたようにテトを見つめた。テトは全身を包帯で巻かれていて、その顔立ちなどはわからない。だが、美萌草のことを知っているほど年老いているとは思えない、若い声をしていた。


「教祖様に歪みを植え付けられたにも関わらず、歳をとっているのが証拠だろう。お前の細胞再生は限界がないわけではなく、速度が速いだけだ。それは寿命を使っていることに等しい。現に、お前の傷は再生していない」


 美萌草が悔しそうに右腕の切断面を抑えた。血は止まっているが、再生する様子はない。


「お前の命はもうほとんど無い。わかっていなかったわけではないだろう」


「……それでも、戦わねばならないのよ」


 美萌草が身構える。テトはそれを冷たく見つめて、小さくため息をついた。


「……もう、終わりにしよう。私はあの方を救わなかった……救えなかった」


「……? なにを……」


「もう生きる理由もない。いや、元々生きたかったわけではない……失ってから気がつくなど、あまりに人間臭く、あまりに愚かだった。……少しぐらい愛していると言ってやればよかったのだろうか」


 美萌草はテトの言葉に困惑した様子でテトを見つめている。


「お前と戦う意志はない。戦う理由は無くなった」


「……は……?」


「長すぎる生涯だった。あまりにも長い年月を共に生きた。自らの手で救うことなど叶わなかった私にはこんなことを言う権利はないが、最後にあの方をお救いしたい。我が教祖は孤独な方だ」


「……どういうことなの? あなたの教祖はいったい……」


「全て教えよう。この戦いに終止符を打ってくれるのならば」


 テトが始めたのは、はるか遠い過去の昔話。この戦いの始まりであり原点。教祖と呼ばれる存在の真実。歪んだ世界の理と、もつれあって完成してしまった世界の異物の話。


 入ってしまった世界の亀裂は修復されず、その歪みが多くの悲劇を生んだ。繰り返される過ちと悲しみの中で生まれた化け物は、孤独に何かを求めてもがき続けていた。消えることも許されず、眠ることも許されず泣き喚いて。


 それは、悲しい、悲しい化け物の話。居場所を無くした異形の話。


    ◇


 プシュケ本部の白い廊下は、チカゲの血によって赤く染まっていた。襲いくる猛者の群れを千切っては捨てを繰り返し、廊下は猛者の死体で溢れかえっている。チカゲは顔色一つ変えず、息絶える猛者を冷たく見つめていた。


 チカゲの後ろにいる陰は動くことを許されず、ただ棒立ちしていた。襲いかかる猛者は全てチカゲが処理し、陰が出る幕はない。陰が少しでも動こうとすると、邪魔をするように血の障壁ができる。


「……チカゲ」


 陰がチカゲの名を呼んで、チカゲが振り返り「なに?」と言うように首をかしげた。その純粋無垢な表情に陰は複雑そうな顔をする。


「……なにもない」


 チカゲが不思議そうな顔をして、陰の後ろから向かってきていた猛者を血の刃で貫いた。チカゲいったいどこに向かっているのかもわからず、陰は黙ってチカゲについて行く。


「……」


 先ほどから陰は嫌な胸騒ぎを覚えていた。チカゲに切られた傷がじんわりと痛む。


「陰?」


「!」


 チカゲが音もなく陰のすぐそばに来て、俯いていた陰の顔を覗き込んだ。チカゲの黒い瞳に陰が映っている。


「怪我した?」


「……違う。違うよ、大丈夫」


「……そう」


 チカゲの背後では赤い血による殺戮が巻き起こっている。猛者は見るも無惨に切り刻まれ貫かれ、息の根を止めていった。


 不意にチカゲが大きな扉の前で立ち止まり、陰もそれにつられて立ち止まる。チカゲがじっと見つめている大きな扉は、ハイドラのいる礼拝堂の真上に位置する大広間に繋がる扉。陰の胸騒ぎが大きくなる。


「……チカゲ……?」


 陰の問いかけに答えず、チカゲはじっと扉を見つめている。


 陰が再度チカゲに問いかけようとした瞬間、大きな音と共に扉が大破し、何者かが陰に向かって襲いかかった。


 チカゲがいち早くそれに気がつき、赤い血が飛びかかってきた何者を弾き飛ばす。大破した扉を超えて何者かは部屋に飛ばされ、チカゲがそれを追いかけて大広間の中に入る。


 弾き飛ばされた何者かは地面に打ち付けられて、ヨロヨロと起きあがろうとしていた。チカゲはその様子を冷たく見つめ、血は容赦なく襲いかかる。


 何者かはよろめきながら立ち上がり、襲いかかる血の間から、その白い髪が見えた。


「やめろっ‼︎」


「⁈」


 陰の叫び声に血が止まって、ただの液体に戻り地面に落ちた。チカゲを追いかけてきた陰の目に、白髪の少女が映っている。


 陰と同じ真っ白な髪、血のように赤い瞳、血色の悪いガリガリの手足。頭の左側の形が殴られたように変形し、陥没している。骨と皮しかない細い足には足枷が嵌められ、その目は虚で口は半開きになっていた。人間とは形容し難い、屍のような姿。


 だが、少女は目を見開いて少女を見つめるチカゲに酷似していた。その顔立ちも、身長も、髪の長さも、まるで生き写しのように同じだった。


「……陽……?」


 震えた声で陰が問いかける。信じられない、信じたくないと言うように、すがるような目で少女を見ている。チカゲは困惑して動けない。


 少女は虚な目をしていた。その瞳は濁っていて、視界が鮮明なのかもわからない。半開きの口からは涎が垂れ、骨格が歪んでいるのか、その足元はフラフラしている。

少女は歪んだ笑みを浮かべた。


「オにィちゃン」


 大勢の声が混じり合ったような歪んだ声だった。陰が大きく目を見開いて、込み上げた吐き気に口元を押さえる。


「……嘘だ……陽は……陽はっ……!」


 陰の身体がカタカタと震えている。目の前で笑う妹のような人間でない何かを信じることはできない。


「陽は死んだっ‼︎」


 それは悲痛な声だった。目の前の現実を真っ向から否定する叫び。


 それを無視して、少女はフラフラと陰に向かって歩き出す。その表情は最愛の兄を見つけた妹のようで、獲物を見つけた化け物のようだった。


「オにィちゃン。やクソく。ずっトイッしョ」


 陰の瞳から涙が溢れる。歪んだ声を聞かないように、耳を塞いだ。


    ◇


 テトの長い昔話が終わり、美萌草は驚愕のあまり声も出せなかった。


 伝えられた真実は誰も信じられるはずもない。だが、テトの真剣な表情が、それが全て事実なのだと物語っていた。


「……そう……そうなのね……」


 絞り出したような美萌草の声は震えている。


「結局……誰も悪くないのね……全て……この世界のせいなのね……」


 その言葉にテトは何も答えない。肯定も否定もできず、悲しそうでボロボロの美萌草を見つめていた。


「全て私が背負ってあげられたら、どれほど良かったのかしら」


 美萌草の心から復讐や憎しみという感情は消えていた。ただ残ったのは、この世界への憤りと同情に近い悲しみ。


「その子はどこにいるの?」


「最深部の礼拝堂だ。行くのか?」


「えぇ。だって……」


 顔を上げた美萌草の瞳は決意に満ちていた。


「解放してあげないと」


 柔らかく微笑む美萌草は聖母のようだった。テトは何も言わず、ただ目を伏せる。


「最深部に続く階段は美麗が立ち塞がっているはずだ。この階に直接礼拝堂に続く通路がある。それを使え」


「えぇ。ありがとう」


「その言葉は受け取れない」


「……そうね」


 美萌草がテトに背を向けて、部屋の出口へと向かった。そして、少し考えた後に立ち止まり、振り返って改めてテトの顔を見た。


「……最後に一つだけお願いしてもいいかしら?」


 静かに頷いたテトに美萌草は笑みを浮かべて「ありがとう」と言った。そして、最後の願いを告げた。


「ちぃちゃんに……チカゲに、美萌草が死んだと伝えて」


 美萌草の言葉にこれまで一切動かなかったテトの表情が動いた。驚いたような顔をして美萌草を見つめる。


「……それから、ごめんねって」


「……わかった」


 テトの返答を聞いて、美萌草は再度「ありがとう」と告げ、その場を後にした。

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