第33話 飢餓の化け物

 エリザベートはテト様のそばにいたかっただけなのです。全てを満たしてくれたあの方のためなら、喜んで命だって投げ捨てます。それほどまでに、テト様を慕い、愛していました。


 それだけ、本当にただそれだけだったのに。


 テト様に言われたこと。「邪魔者を排除しろ」という指示を完遂できないまま、エリザベートはここでこの女に殺されるのですか?


 そんなのテト様に嫌われてしまう。テト様のお役に立つことができない、ダメな子になってしまう。それだけは、どうしても絶対にあってはならないのに、どうしてエリザベートの身体は動かないのですか? エリザベートが何をしたと言うのですか?


 あぁ、死ぬなんて絶対に嫌だ。テト様を、あの方を一人残して死ぬなんて、それこそ許されないのに。


 死ぬのなら、せめてお役に立って死にたかったのに。


    ◇


 生まれてからずっと、エリザベートの世界はボロボロで臭い小さな小屋の中でした。


 そこで、母と父と呼ばれる人と生きていました。


 親、と呼ばれるらしいその人たちは、どうやら私を産んだ張本人だったみたいですが、その人たちは、エリザベートを見もしませんでした。本当にいらない子だったようです。


 名前も、教養も、全て放棄された私の時は赤ん坊のころから何一つ変わらず、自分で立つことも言葉を発することもできませんでした。食べるものも満足に与えられなかったので、身体もずっと小さいままでした。生きていたのが不思議なくらい。


 戦争による厳しい生活の中で生まれてしまった子供ほど、必要のないものはなかったのでしょう。子供を養える余裕なんて無く、今日を自分が生き抜くので精一杯。


 だから、放棄した。見ないことにした。生まれて間もない自分の子供を、知らないことにして。


 エリザベートを産んだ人たちのことを恨んだりはしません。仕方ないことだったのだと思いますから。血の繋がった、実の親のようですから。


 それでもエリザベートはしぶとくて、与えられる少量の食べ物だけで生き続けてしまったようです。それほど目障りなものはなかったでしょう。人間にもなり切れていない生物が、自分たちの視界の端で蠢いているのですから。


 必要のない、いらない子。


 それでも暴力を振られることもなく、殺されなかったのは、エリザベートの実の親であったからなのでしょうか。エリザベートにはわかりません。


 エリザベートは知りました。生まれて間もない人間がどれほどか弱く脆いのか。すぐに死んでしまうぐらい、生まれたての赤ん坊が弱いこと。


 エリザベートが赤ん坊の時、あの人たちは私の親だったのかもしれません。でも、そんなの覚えていないですし、なにより、すでにそんな記憶は過去になって、エリザベートにとってはただの他人事だったのです。


 エリザベートの全てはテト様なのですから。


 劣悪な環境の中で、エリザベートに感情と言われるものが芽吹くことなどありませんでした。人の声すら聞いたことがなかったのです。


 それでも確かに、エリザベートの中に生まれた衝動に近いものがありました。後から、それが「飢え」だったと知りましたが、その時は言葉も知らず、ただ襲いかかるその耐え難い衝動に困惑していました。


「お腹がすいた」という空腹の波。手に届くものならなんでも口に入れて、空っぽの身体を満たそうと必死でした。それがたとえ食べ物ではなかったとしても、身体の中を満たせればそれでよかったのです。


 ひたすらに、何かを貪りたい。その衝動がエリザベートが生き続けてきた理由だったのかもしれません。


 ある日、その人たちは突然動かなくなりました。理由はわかりません。餓死したのか、病気にかかったのか。


 あの小屋の中で動ける者は、皮肉にもエリザベートだけになったのでした。


 エリザベートは動かなくなったその人たちに疑問を持つことはありませんでした。そんなこと考えている余裕もないほどに飢えていましたから、小屋の中を這いずり回って食べられるものを探して、ようやく動かなくなったその人たちの近くへと辿り着いたのです。


 それが人間と呼ばれる者だったことも知りませんでした。ただ、耐え難い空腹に近くにあったそれを食べてみました。味なんてわかりませんでした。でも、それは今まで口にした何よりも美味しいと感じたものだったのかもしれません。


 一心不乱に貪りました。身体の中を満たすように、それを食べ続けました。


 しばらくしてそれが無くなってしまうと、エリザベートはまた食べられるものを探して小屋中を這いずり回りました。そして、ついに小屋の外に出てしまいました。


 外のあまりの眩しさに、目が潰れるほどの痛みを感じて、それでも何かを探して這いずりました。エリザベートは飢えによって、突き動かされていたのです。


 外を這いずり回ってついに動けなくなったエリザベートは、冷たい空気に晒されて、冷たくなっていきました。自分が死ぬということさえわからずに、今まで動いていたものが動かなくなったことに困惑していました。


 そして、テト様に出会いました。


    ◇


 テト様はエリザベートに全てを教えてくれました。言葉も名前も歩き方も何もかも。


 テト様がエリザベートを助けたのは、テト様がとてもお優しい方だからなのか、それともただの気まぐれなのか、エリザベートは知りません。だけど、エリザベートはテト様に救われたのです。テト様は神にも近しい敬うべき存在なのです。


「テト様!」


「……どうした? エリザベート」


「エリザベートは永遠にテト様をお慕いしております!」


「……そうか」


 テト様は本当に優しい方で、エリザベートはその温かい瞳が大好きなのです。その声も仕草も何もかも。


 だけど、テト様がエリザベートに触れることはありませんでした。幼かったエリザベートはその理由もわからず、ただテト様を求めて手を伸ばしては、テト様に拒絶されて泣き喚くことを繰り返していました。なんて迷惑な子供でしょう。


 テト様はそんなエリザベートを見捨てずに、触れることはないものの、ずっとそばにいてくれたのでした。


 それは、エリザベートが勝手にテト様について行った時のことでした。


 テト様は人を殺していました。辺りに血が飛び散っていました。頭を潰された人、上半身がない人。それを見てもエリザベートは特に何も感じなくて、ただテト様の姿に目を奪われていました。


 テト様はいつも腕に巻いている包帯をほどいていて、赤黒い皮膚が見えていました。エリザベートに向ける瞳とは、全く違う冷たい目。テト様に触れられた人はドロドロに溶けていって、骨も残さず消えました。


「……テト様……?」


「!」


 テト様は現れたエリザベートに驚いた顔をして、エリザベートがテト様に駆け寄って抱きつこうとすると、テト様はそれを避けてしまいました。


「触るな、エリザベート」


「どうしてですか?」


「こっちの台詞だ。なぜ付いてきた?」


 テト様がエリザベートを責めるような目をしています。怒られることはわかっていました。だけど、だけどエリザベートはどうしても聞きたいことがあったのです。


「テト様は人ではないのですか?」


「……あぁ」


 その日、エリザベートは知りました。テト様が人間ではないことを。そして、それはつまり、エリザベートはテト様と同じ時を生きられないということでした。生きていれば、いつかエリザベートはテト様から離れなければならない。


 そんなこと、想像したくもありませんでした。


 だって、許されるわけないじゃないですか。エリザベートがテト様を置いて逝くだなんて許されない。そんな自分勝手なことできるはずがないのです。


 だから、エリザベートは決めました。死んでしまうことが罪ならば、死ななければいいだけです。テト様が人間ではないのなら、エリザベートも人間でなくなればいい。人間という存在を、捨ててしまえばいいだけなのです。


 エリザベートは本当は、プシュケなんてものに興味などありませんでした。永遠の生だなんてこれっぽっちも興味がなくて、教祖様という存在が疎ましくて仕方なかったのです。


 テト様が敬い慕っている教祖様。テト様は神なのです。エリザベートの全てなのです。頂点なのです。だから、テト様が敬い慕うものなど必要がないのです。テト様は唯一の存在なのですから。


 だけど、その時ばかりは教祖様に頼むしかありませんでした。エリザベートを人間ではなくしてほしいと。教祖様はつまらなそうに、なんの期待もしていない様子でエリザベートから人間という存在を奪い去りました。


 苦痛、だったのでしょうか? わかりません。その時の記憶はあまりないですから。ただ、これで永遠にテト様のおそばにいられると恍惚としていたことだけは覚えています。


 はれてエリザベートは人間をやめました。エリザベートの小さな手は大きな口のように変わってあまりにも醜かったので、服の袖をわざと長くしてそれを隠しました。


「テト様! これでエリザベートはずっとテト様のお側にいられます!」


「……そうか」


 テト様は浮かない顔をしておられました。その理由をエリザベートは理解していました。


 テト様はきっと、エリザベートに人間でいて欲しかったのだと。人間として生きて欲しかったのだと。テト様はお優しいですから、自分のことを化け物だという方ですから、エリザベートにはその化け物になってほしくなかったのでしょう。


 だけど、テト様。それはエリザベートにとっての幸せではないのです。エリザベートの幸せはテト様のおそばにいることなのです。


 理解していました、わかっておりました。テト様が悲しむことも、テト様がご自身を責めることも。


 ごめんなさい、テト様。エリザベートは悪い子なのです。だけど、それでもエリザベートはテト様のお役に立つためにおそばにいたかったのです。


 だから、普段は消してその表情を変えることのないテト様が、人間を捨てたエリザベートを見て浮かない顔をしたことを気がつかないことにしました。知らないことにしました。


 悪い子でごめんなさい。あなたのことを愛しているのです。


 テト様がエリザベートに触れないのも、テト様に触れるとエリザベートが溶けてしまうからなのでしょう。その優しさはよくわかるのです。だけど、エリザベートは溶けたってかまわない。


 ただ、テト様に抱きしめてもらえたら、それはどれほど嬉しいことでしょう。叶わないことを知りながら、そう望んでいるのです。


 エリザベートは化け物になりました。食べても、食べてもお腹が空くのは昔と同じで、だけどエリザベートはテト様のおかげで満たされていました。空腹を紛らわすことだってできたのです。


 それほどまでに、テト様がエリザベートに与えてくれたものはエリザベートにとって大きなものなのです。永遠の時をかけても返すことができないほど、エリザベートはテト様に多くのものを与えていただいたのです。


 だけど、人間は人間でしかなく、永遠なんて存在しなかったのかも知れません。


    ◇


 この失敗作の女に、エリザベートは殺されるのですね。ただ、テト様のお役に立ちたかっただけなのに。


 人間を殺して何が悪いのですか? エリザベートはテト様さえいればそれでいいのです。それに、どうせ人は戦争で死んでいきます。エリザベートが少し食べたぐらいで何が変わるというのですか?


 それでもエリザベートは死ぬのですね。許されないのですね。


 テト様、あぁテト様。


 エリザベートは貴方のお役に立てたでしょうか? 最後まで迷惑な子どもではなかったでしょうか? わがままで、自分勝手で、テト様に不快な思いをさせなかったでしょうか。


 エリザベートは永遠に貴方を敬い慕っております。ずっと貴方のそばにいたかった。たとえ火の中水の中、地獄の底でもテト様について行ったのに。先に離れるのはエリザベートでした。


 貴方が許してくださるのなら、最後に一目お会いしたい。

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