第30話 豪力の化け物

 何が起こっている? 俺の背後にいる嬢ちゃんは何をした? なぜ、この男は俺の口に手を捻じ込んでいる? その手に握られたものはなんだ?


 やめろ。やめろ、その目で俺を見るな。やめろ。


 なぜそんなに抗える。ボロボロになってまで戦える。自らを犠牲にできるっ⁈ やめろ、やめてくれ。


 嫌いなんだ。醜い人間も、クソったれなこの世界も、全て全て嫌いなんだ。だからぶち壊してやろうって思ったんだ。それだけだ。


 やめろ。その腕を犠牲にしてまで守ろうなんて、そんなこと、俺の目の前でするな。俺は、俺は、化け物にまで成り果てたのだから。


 自分の頭が弾け飛ぶ感覚がした。


    ◇


 戦争は市街地にまで及び、運河近くのリブラの市街地はタータンの兵による襲撃を受けていた。市民を巻き込んでの銃撃戦に、多くの人が流れ弾で死んでいく。


 一兵士の俺は市民を守りながら戦うなんて器用なことはできなかった。戦場に赴かなくとも死は近くにある。飛び交う弾丸に足を掬われる。毎日を必死で生きるしかなかった。なんのために生きているのか分からなくとも、ただ生き続けるしかなかった。


 ある日、市街地での銃撃戦で、タータンの兵の攻撃に多くの建物が破壊された。日常の景色過ぎて気にも留めなかったが、その建物から飛び出した小さな人影が目に入った。


 手を繋いで走って行く幼い少女と少年。かろうじて銃弾を避けながら逃げていく二人を目で追った。二人が逃げていく先には、タータンの兵が潜んでいた。大声を上げれば敵にバレる。だが、何もしなければ、あの二人は待ち構える兵士によって撃ち殺されるのだろう。


 わかっていた。わかっていたが、俺は何もできなかった。


 声を出すことも、二人の前に飛び出すことも。目の前にある死に怯えて、生きる理由もないくせに、幼い子供を見殺しにした。


 二人は現れた兵士に小さな悲鳴を上げた。踵を返して逃げようとした二人を最後に、俺は目を瞑り耳を塞いで、その惨状を見ないことにした。


 後ろで数発の銃声が聞こえた。しばらくの静けさの後、人がいなくなる気配がして、俺は隠れていた物陰から顔を出す。周りに生きている人間の気配はなく、どうやら生きているのは俺だけだった。皆、撃ち殺されたようだ。


 辺りを見回して、視界に飛び込んできた幼い子供の死体。血に塗れ、手を繋いだまま背中から撃ち抜かれた少女と少年は、ピクリとも動かない。


「……あ……」


 助けられたのは俺だけだったのだろう。わかっていながら見殺しにした。少女と少年の開いた瞳孔が、俺を責め立てるように見ている。心が抉られるようだった。


「うわあああっ‼︎」


 俺しか動く者のいない静かな場所で、敵にバレるとか何も気にせず、ただ声を上げて泣いた。


 家族なんていない。大切な人なんていなかった。それでも、今、この二人を守れたのは俺だけだったはずだ。俺は、人の心さえ失ったのか? 生きる理由はなんだ。死を恐れる理由は? 手を伸ばした先に守れる者がありながら、その手を後ろに隠してまで生き残った理由はなんだ。救えた者を殺した理由は?


 その時、誓った。死ぬぐらいなら誰かを守って死にたいと。自分よりも弱い者を守れる力があるのなら見殺しにしたりなどしないと。


 そんな決意は目の前の二人には届くはずもないのだと、その決意はやがて後悔になるのだと教えてやればよかった。


    ◇


 その日もまた、市街地での銃撃戦だった。多くの爆弾が宙を舞い、銃弾が飛び交う地獄絵図。数人のタータンの兵士を撃ち殺して、銃弾の掠った腕の傷口に包帯を巻いていた時、後ろの方に人の気配を感じた。


 振り返って見てみると、物陰に幼い子供が二人隠れていた。険しい顔をしている少女と、その後ろで震えている少年。


「危険だっ‼︎ 下がれっ‼︎」


 少女は俺の声にビクリと肩を震わせて、慌てた様子で後ろの少年を立たせて逃げていこうとする。逃げられそうなことを確認して、俺は前を向いて敵を探した。


 俺たちに向かって飛んできている何かに気がついた。


 それが手榴弾だと理解するよりも早く、俺は駆け出していた。逃げようとしていた少女の手を掴んで引き寄せた。少女と少年の手が離れて、振り返りながら悲痛な顔をする少年が俺に伸ばした手をつかもうと伸ばした手は、虚しく空を切った。


 守るように少女に覆い被さり、後ろで地面に落ちた手榴弾のピンがカチンと外れた音がする。その瞬間、そう遠くない後ろの方で爆発音が起き、爆風と肌を焼く熱が俺たちに襲いかかった。


 爆風に吹き飛ばされ、それでも守ろうと少女を庇う。熱で焼けた背中を地面に打ち付けて、激痛が走った。


 しばらく誰も動かなかった。再度爆発物が飛んでくることはなく、俺は少女の身体を支えながら起き上がる。少女が無事であることを確認し、後ろを見た。


 少年が倒れていた。


「いやぁっ‼︎」


 動かなかった少女が少年を見て、弾かれたように少年の元へと駆け寄る。少女が少年の小さな身体を抱き起した。少年の片腕は爆風に吹き飛ばされた時に折れたのか、変な方向に曲がっている。頭からダラダラと赤い血が流れていた。


 少女が少年の名前を呼びながら、少年の身体に泣きついて縋り付いている。俺は、また守れなかった。また、殺してしまった。守れたかもしれないのに。


 後ろの銃声も耳に入らない。聞こえるのは少女の悲痛な叫び声。少年は何度少女に名前を呼ばれても、ピクリとも動かなかった。


 それは、どのくらいの時間だったのだろう。とても長いようにも思えたが、ほんの一瞬だったのかもしれない。少女の叫び声がまるで俺を責め立てているようで、耳を塞ぎたくなるのをぐっと堪えた。一番辛いのは、この少女なのだ。


 泣き叫んでいた少女が顔を上げた。涙で濡れた瞳で真っ直ぐ俺を見つめて、震えた声を絞り出していた。


「……助けてくれて……ありがとうございました……」


 涙を必死で堪え、腕の中で動かない少年を抱きしめながら、少女はそう言った。


 俺はまた守れなかったのだ。手を伸ばしても届かなかった。


「……近くに兵舎がある。そこなら多少安全だ。一緒に来ないか?」


 少女は首を横に振った。


「弟を置いていけないから……」


 その言葉に胸が抉られる。少女は悲しそうに、息絶えた弟を見ていた。


「じゃあ一緒に連れて行こう。兵舎でなら埋葬してやれる。な? だから行こう?」


 少女は少し考えて、小さく頷いた。少年の身体を抱き上げると、驚くほど軽かった。少女は俯きながら、俺の服の裾を掴んでついて来た。


 栗色の癖毛の髪に、俺と同じ黄緑色の瞳をした、可愛らしい少女。同じ髪色と瞳を持つ少年の亡骸を悲しそうに見つめては、涙を堪えて俯く姿に、胸が締め付けられるようだった。


 少年を埋葬し、少女を兵舎の中に入れようとしたところを、他の兵士に止められた。


「なんで子供がいるんだ?」


「さっき保護したんだ」


「まさかここに置いておく気か?」


「え……?」


 兵士は顔をしかめて少女を見た。少女が驚いたように俺の後ろに隠れる。


「無理言うな! 子供の世話ができるほどの余裕なんて無い! それにお前、ここら一帯の孤児全員連れてくる気か?」


 何も言い返せなかった。この少女のような子供は山程いるのだ。それらを全て保護できる余裕なんてどこに行ってもない。


「誰かを守る力なんて、誰にも無いんだ」


 少女に兵舎で保護することができなくてすまないと謝ると、少女は悲しそうに微笑んだ。


「大丈夫。弟を弔ってくれてありがとう、兵士さん」


 その姿にいたたまれなくなり、俺は少女と約束をした。毎日夕方に兵舎裏で会うことと、兵舎で配られる配給の食料を少女に分け与えること。少女は申し訳ないからと一度は断ったが、俺が説得すると渋々承諾した。


    ◇


 その日から、少女と毎日会った。夕方になると兵舎裏で少女と座り込んで、少ない食料を分け合って話し合う。


 少女の話はたわいもないものだった。猫を見つけたとか、今日は食べ物が沢山あったとか。そんなことを満面の笑みを浮かべて楽しそうに話す少女に、自然と頬が緩んだ。


 死と隣り合わせのこの場所で、その時だけが心の安らぐ時だった。少女の笑顔に救われていた。


「……今日、人がたくさん死んだの」


 ある日、少女がいつもとは違う暗い表情で言った。


「私と同じぐらいの子達もたくさん死んだ。私は逃げたけれど、逃げられなかった人がたくさんいたの。……ねぇ、兵士さん。私たちはいつまでもこんなところにいるのかな……?」


 少女の表情に胸が痛かった。その日、俺は同じ境遇の兵士を盾にしたのだ。


 背後から飛んできた爆発物に気がついたのは俺だけで、俺は他の兵士に声をかけることもなく、迷いなく近くにいた兵士の背後に回り込んだ。爆発音とともに俺たちの身体は吹き飛ばされたが、俺は腕を打撲した程度で、盾になった兵士は死んでいた。その顔を見ても、俺は何も思わなかった。生き延びて、今日もまた少女に会えると安堵した。


 不意に傷を負った腕が痛んだ。


「どうしたの? 怪我したの?」


 少女が心配そうに見つめてくる。俺と同じ色の瞳に俺が映っている。少女は願うように手を組んで「兵士さんの怪我が早く治りますように」と呟いた。


「兵士さん。兵士さんは死なないでね。私ね、私、弟もいなくなっちゃってもうどうしたらいいかわからないの。兵士さんがいなくなったら私、きっと死んじゃう」


 無垢で悲しげな姿の少女を思わず抱きしめたくなって伸ばした手を俺は後ろに隠した。


 この少女に手を伸ばすには、俺の手はあまりにも汚れていたから。俺のために願う少女は俺が差し出そうとした手に、不思議そうな顔をする。


「……俺は死なない。お前のために死なないから、お前も生きてくれ」


 誰かを守りたいという誓いは、この少女を守りたいという誓いに変わっていた。他の誰かよりも、今目の前にいるこの少女を守りたいと、そのためならば何を犠牲にしてもかまわないと。そう、願ってしまった。


 願わなければよかったのだ。そんな希望、打ち砕かれるとわかっていたのなら、持たなければよかった。約束なんて交わさなければよかったのだ。


 くだらない。守れるはずがなかったのだから。くだらない。どうせ奪われるのだから。この世界で一番醜いものはなんだ。一番愚かなものはなんだ。


 化け物と呼ばれるべきなのは、同じ人さえ人とは思わない、血も涙もなく切り捨てて、残酷な惨状を見もしない、そんな人間だっただろう。


 化け物になって守れたのなら、それでかまわなかったじゃねーか。


    ◇


 いつもと同じように、夕方少女と兵舎裏でたわいもない話をしていた。穏やかな一時のはずだった。


 俺たちがいた兵舎がタータンの兵士に襲われた。なすすべもなく、兵舎にいた人々は捕らえられ、気まぐれに殺された。残虐に残酷に、血を流しながら殺された。


 少女と俺も捕らえられ、拘束されて身動きが取れなくなった。どうにか少女だけでも助けようと思ったが、どうすることもできなかった。少女の顔が恐怖で歪んでいる。


 守らなければならないのだ。守れなかったこの少女の弟の分も、この子だけは。そう思っても縛られた手は動かず、少女に手を伸ばすことすらできなかった。


 捕らえられた人々とともに兵舎裏で監視され、兵舎の中にいた人々を殺し終えたタータンの兵士たちが近づいて来た。人を殺した後のはずなのに、兵士たちは笑っていた。まるで、殺しを楽しんでいるかのような、歪んだ笑みだった。


 兵士の一人が近くにいた少女に手を伸ばした。俺は身動きの取れない身体で、声の限り叫んだ。


「やめろっ‼︎ その子に手を出すなっ‼︎」


 兵士がこちらを見た。それは人を人と思っていない冷たい目。その兵士の目に、俺はどのように映っていたのだろう。そこら辺にいる鼠と同等の下等な生物? 敵国の己の敵? 間違いなく、人には見えていなかっただろう。その兵士は笑っていたのだから。


「おい、そいつ黙らせろ」


「⁈」


 背中に走った痛みに、背後から斬りつけられたのだと理解した。地面に血が落ちた。少女は青ざめた顔をして「やめて、やめて」と泣いていた。


 痛みなど感じなかった。涙を流す少女をただ守りたかった。あんな約束を交わさなければ、少女は今日この場にいなかったはずだ。俺のくだらない自己満足の正義感さえ無ければ、少女は今も市街地のどこかで生き延びていたかもしれないのだ。


 だから、痛めつけるのならば俺にしろ。神なんて信じていなかったが、その時だけはただただ願った。


 俺たちの様子に兵士は少し考えた後、笑った。笑って、俺の前に一丁の拳銃を置いた。わけがわからないまま、縛られていた俺の手は解放された。俺の後ろでは、数人の兵士が銃を持って、俺が抵抗した瞬間に撃ち殺されるのは明白だ。


 兵士は自分の前に少女を引き摺り出して、少女も困惑した表情をしていた。兵士が歪んだ笑みを浮かべながら言った。


「それでこいつを撃ち殺せ」


 意味がわからなかった。なぜ、こいつらは笑っているんだ? 人の死を目の当たりにしながら、なぜそんなことを言える? いや、そうか。こいつらにとって俺たちは人間ではないのだ。


「そしたら、お前だけは助けやるよ」


 目の前に拳銃が置かれている。背中から血がとめどなく溢れている。少女は青ざめて震えていた。拳銃を手に取る。兵士が笑う。


 誰が、てめーらみたいな奴の言いなりになってやるか。


 撃った。銃から弾が飛び出した。その弾は少女の後ろの化け物の頭を撃ち抜いた。少女が目を見開く。血が飛び散る。


 さぁ、殺せよ。その銃で俺を殺せ。俺は化け物を殺しただけだ。人の心もない、人を人とも思わない化け物を殺しただけなんだ。


 自分の命を諦めた。それでかまわないと思った。目の前の少女を助けられたなら、それでいいと。


「この野郎っ‼︎」


 後ろから罵声が聞こえた。死を覚悟した。それなのに目の前で少女が倒れた。


 兵士が手に持っていた銃で少女の頭を殴ったのだ。俺はすぐに押さえつけられて、身動きが取れなくなった。


 少女が頭から血を流して、自分を殴った兵士を見つめていた。


 俺に撃たれた兵士は動かない。その横に立っていた兵士が躊躇なく、まるで見せしめとでも言わんばかりに、少女を立て続けに殴った。少女が小さく悲鳴を上げる。その声も殴られた衝撃で掻き消され、少女の顔が変形していった。兵士は眉一つ動かさず、少女を殴り続ける。少女が声にならない声をあげて、辺りに血が飛び散って、それでも暴行をやめない兵士に、俺は何もできずその光景を見つめていた。


 次第に少女の声は聞こえなくなって、少女は動かなくなった。


 流れたものが血だったのか、涙だったのかはわからない。目の前でなぶり殺しにされた少女は動かずに、見るも無惨な姿で死に絶えた。


「おい」


 その瞬間、少女に伸ばそうとした右手の感覚が消えた。見ると、腕があったはずの場所は血溜まりに変わっていた。痛みではなく熱さが襲う。流れた血は地面を赤く染め、少女の血と混じり合った。左腕が動かなくなって、両腕を切り落とされたのだとわかった。それでも、俺の目には少女の亡骸しか映らなかった。


 俺が約束なんて交わさなければ、この少女と出会っていなかったら。いや、手にした拳銃で頭を撃ち抜いてやっていたら、少女は苦しむことなく一瞬で、遠いどこかに行けたかもしれない。


 守るってなんだ? 苦しめただけじゃねーか。痛みに悶えながら、涙を浮かべて死に絶えた。守れるわけがなかっただろう。奴らは化け物で、化け物に人間が勝てるわけがない。そのくだらない正義感で救われた者がどこにいた? 守れた者がどこにいた? みんな死んだ。みんな殺された。苦しめたのは誰だ?


 こんな世界で俺一人の力など、ちっぽけなものでしかない。踏み躙られて消えていく。奪われていく。だったら、俺は。


「生きたいと願うのか?」


 あぁ、そうだ。もう奪われることのないように、絶対の力を手に入れて、くだらないことに背を向けて、ただひたすらに生きてやる。


 手を差し伸べた教祖とやらに忠誠を誓うさ。叶わなかった誓いを捨てて、化け物にだってなってやろう。この世界は化け物で溢れている。


    ◇


 なんだ? これは。走馬灯とでもいうのか? なんだよ、ちくしょう。死なねーんじゃなかったのか? なんで身体が崩れてる。なぜ再生しない? あぁ、結局人間は人間でしかないとでもいうのか。人間という化け物にしかなれないのか。


 嫌いだ、大嫌いだくそったれ。こんな世界も人間も自分自身も。負けるのか、あの義足のにーちゃんに。あいつは守り切ったのか。腕をぶっ飛ばすなんて無茶しやがるな、人間のくせに。


 あぁ嫌だ。嫌だ死にたくない。なんのために生まれたんだ。結局何もできなかったじゃねーか。まだ、まだ動けよ。化け物になったんじねーのか。


 でも、そうか。やっと逝けるのか。守れなかったあいつらのところに、やっと。

もう、いいか。あぁもういい。もう疲れただろ? 疲れたんだ。それに、俺はあいつらに言わなきゃならねーことがあるんだ。


 名前も知らない、顔も思い出せないあいつらに「守ってやれなくてごめんな」って謝らなきゃならねーんだ。

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