第27話 生の呪縛 その二

 隣で仲間が冷たくなっていくのを見た。仲間が腐っていくのを見た。自分の身体が足の先から冷たくなって、視界が霞んでいった。それでも、息をし続けた。


 どれ程の時間が経っただろう。きっとそれほど経ってはいない。だが、その時間は永遠のように感じられて、すぐそばにある仲間の死顔が、腹から流れる血液の感覚が、俺の記憶に焼き付いた。


 しばらく時間が経って、助けが来た。俺は兵舎へと連れて行かれて、血の匂いが漂う汚い部屋の片隅で、手当てされるのを待っていた。


 兵舎では看護婦とまだ幼い少女たちが忙しなく動き回り、負傷者の手当てをしている。その姿をぼうっと眺めながら、このあまりに酷い世界を嘆いていた。自分よりも小さな少女たちが必死で、血塗れになりながら自分よりも大きな大人の手当てをしている。


 この子たちもきっと平和な世に生まれていたのなら、家族と笑い合い友と遊び、幸せな生活をおくれていたはずなのに。それなのに、なぜこんな重苦しい空間で泣きそうな顔をしながら、こんな子供たちが血に塗れているのか。


「母さん」


 この場所で聞こえるはずのない言葉が聞こえた。その言葉は俺の近くで少女に手当てをされていた兵士が言ったものだった。自分の耳を疑う。あの兵士は自分よりも歳の小さい少女を母だと思い込んでいるのか。


 だが、手当てをしていた少女は伸ばされた兵士の手を握り、クマが酷い血色の悪い顔で微笑んだ。


「……大丈夫。大丈夫ですよ。母はそばにいますからね」


 それは今にも泣きそうな笑顔だった。兵士の手を握る手が震えている。

なんて可哀想なんだろう。兵士も少女も。


 異様な光景に涙が出そうになった。兵士は手を握られたまま、安心したような穏やかな顔をして、ゆっくりと目を閉じる。少女の手から兵士の手が滑り落ちて、その手が地面に落ちた時、少女の瞳からふっと光が消えた。


 なんて残酷な世界なんだ。死の淵に立たされた兵士が、大切な人の妄想に囚われ、目の前にいる少女にそれを押し付ける。それはもう、仕方のないことだろう。だが、あの少女はどれほどの罪悪感に苛まれている?


 嘘をつき、自分の心さえも押し殺して微笑みを浮かべる。あの少女にも大切な人がいるはずなのに、家族がいるはずなのに、自分の名を呼んでくれる者はいない。


 兵士を見送った少女がこちらに向かってくる。赤茶色の髪をした、深緑の瞳を持つ少女は、俺の前に座り怪我の手当てを始めた。まるで死人のような悲しい目をしている。


 その顔を見て、俺は生きねばならないと、この戦争を終わらせなければならないと誓った。苦しむ人をこれ以上増やしてはならない。こんな幼い子供にまで苦辛を強いる戦争なんてものを終わらせなければ。


「……悪いなぁ……」


 俺の傷の止血をしていた少女が顔を上げる。驚いたような顔をして、俺のことを見つめていた。まるで、自分に話しかけられていることを理解できていないようだった。


「こんな嬢ちゃんにさ……こんな必死な顔させて……死ねないよな……」


 驚いて硬直している少女を見て、その頭を優しく撫でたくなった。この子はずっと一人きりで耐えながら、この血生臭い場所で戦っていた。兵士にとって大切な人に成り代り、自分は自分だと叫びたいのも押し殺していたのではないだろうか。その苦しみを全てわかってやることはできずとも、少しでも和らげてあげたかった。


「ありがとな……」


 少女の瞳から涙が溢れる。その涙を拭ってやりたいのに、俺の身体は動かない。動かすことができない。少女は涙を流しながらも必死に声を上げるのを堪えているようで、俺の傷を止血する手を止めなかった。


「……俺が……終わらせる……」


 生かそうとしてくれているこの少女のためにも、俺はこの戦争を終わらせなければならないのだ。


 その日の夜に、俺は足を引きずりながら兵舎を出た。死にかけの身体が何を動力にしていたのかはわからない。戦争を終わらせるという強い決意なのか、それともただこの地獄のような戦場から逃げ出したいという臆病な心だったのか。


 それでもひたすらに歩き続けて、戦場から離れた貧困地で座り込んで数日間眠った。


    ◇


 俺が死ななかったのは、少女の願いなのか、母の加護だったのかわからない。ただ、俺は死ぬことを許されなかったのだから、生かされたのだから、願われてしまったのだから、終わらせるのだ。これ以上、苦しみを増やさないために。


 生きながらえた俺は、目を覚ましてから貧困地にいる人々を救うために行動した。怪我人の手当てをしたり、見つけた食べ物を子供に分け与えたり、そんな小さなことだった。 戦場に戻っても、野垂れ死ぬことは明確だった。左目は傷ついてもう見えない。そんな兵士、戦場で盾ぐらいにしかならないだろう。


 そんな理由を並べて、ただ逃げたかっただけかもしれない。戦場で多くの人が死んでいくことに目を背けて、自分ができることをしているのだと。


 それでも、どんなに小さなことであったとしても、人々に手を差し伸べ続けた。気がつけば俺の周りには人が集まっていて、俺の手助けをしてくれる人が増えて、俺を慕ってついて来てくれる人が増えた。皆が俺を頼り、俺の考えを心の支えにして生きていた。


 人々が暮らせるような場所ができ、安定した食糧と医療器具を揃えるために数年が経った。戦争はその間も続き、多くの人が死んでいった。


 その日、俺はリブラへ偵察に行っていた。貧困地が増え治安が悪くなっているタータンと変わりなく、リブラも同じような状態で貧困地には多くの衰弱した人々が座り込んでいる。


 この惨状を見てもなお、国は戦争をやめようとしないようで、リブラは戦争に生物兵器を投入し始めたと聞いていた。


 リブラの貧困地で人々を助けていた時、彼女を見つけた。


 地面に倒れていたのは、おそらく十代ほどの少女。服から覗く腕や足の肌は赤黒く火傷のように爛れていて、顔の半分がブクブクに膨らんでいる。その姿に死んでしまっているのかと思ったが、近づいてみると身体が微かに上下を繰り返していて、息をしているようだった。


 声をかけても返事はない。試しに少しだけ顔に触れてみると、少女は悲痛な叫び声を上げて慌てて手を離す。少女は瞳に涙を浮かべながら、ヒューヒューと微かな息をしていた。このまま放って置けば、この少女は死んでしまうかもしれない。そう思い、その少女を連れて帰った。


 連れ帰った少女はずっと痛みにうなされているようで、時折大声を上げたり暴れ出したりした。皮膚病か何かかと思ったがそうではないようで、いったい何が原因なのかもわからずどうしもしてやれない。目は開いているのに何も見えていないようで、虚な目をする少女の手を握り、なだめてやることしかできなかった。


 少女を連れ帰って来て数週間が経ったある日のこと。包帯を変えてやろうと部屋に入ると、少女が鏡の前で立っていた。驚いて手に持っていたものを落とす。


 少女の顔の腫れは引いているが、身体全体に火傷のような跡が残っていた。そして、赤茶色の髪に深緑の瞳を持ち、その少女は兵舎で出会い、俺の手当てをしてくれた少女だった。名は美萌草といった。


 美萌草はいろいろなことを話してくれた。プシュケのこと、自分の身体のこと。それはきっと忘れてしまいたいような、残酷な記憶。


 それでも、美萌草は俺について来てくれた。リンネができる時、神にはなれないと言った俺の背を押してくれたのも美萌草だった。


「人であるあなたについて行きたいの」


 その一言がどれほど支えになったかわからない。美萌草がいなければ、タータンを抑え、戦争を一時休戦状態にすることもできなかっただろう。


 美萌草は賢く優しい女性で、家族にも等しいほど信頼できる人物だ。凄惨な過去を持ちながら、他の誰かを救おうと奮闘して、優しすぎて押しつぶされそうになる。美萌草はなにも悪くないのに、全て抱え込もうとする。


 そんな彼女が愛おしくて、狂おしいほどに美しく見える。ずっと側にいて欲しいと思う。そんなことを言えば、きっと彼女の枷にしかならないということは理解しているから、俺は何も言わない。ただ、生きてくれればそれでいいのだ。そう、思うことにした。


 美萌草だけではない。陰も瑠璃も鈴凛も、かけがえのない家族だ。俺が父となれなかったような、大切な家族。母が望んだ家族の形。


 皆、それぞれに過去を持ち、戦争を終わらせたいと思っている。だからこそ、プシュケを許すことなどできない。人の命を物のように扱い利用するプシュケの教祖と呼ばれる存在に、報いを受けさせねばならない。


 チカゲを壊した者を許さない。


    ◇


 タータンの貧困地を見て回っていた時だった。前の方からフラフラとした足取りで歩いてくる人影を見つけ、近づいた。黒い髪をした、見慣れない服を着た少女で、虚な瞳をしていた。


 不意に少女が膝から崩れ落ちた。驚きながら駆け寄って抱き起す。


「どうした? 大丈夫か?」


「……」


 少女はブツブツと何かを呟いていて、よく見れば身に纏った黒い服は血塗れだった。どこか怪我をしているのかと思ったが、少女が怪我をしている様子はない。


 顔を覆い、何かを呟いている少女にどこか異様さを感じながら、その声をよく聞こうと顔を近づける。 


「……助けて……」


 少女の声が鮮明に聞こえて、顔を覆っていた手が外される。少女は血の涙を流していた。その瞬間、少女の身体から血液が溢れ出して、胸に亀裂が入る。そこから溢れた血が、まるで意志を持っているかのように俺に向かって襲いかかってきた。


「⁈」


 慌てて後ろに飛び退く。血がかすめた頬に切り傷がついて血が流れた。少女はブツブツと何かを呟きながらうつむいている。少女から流れ出した血は刃のように辺りのものを切り刻み、がむしゃらに暴れまわっていた。


 リブラの生物兵器なのだろうか。このままにしておくのは危険だ。


 助けてという言葉が気にかかりながらも、腰に挿した青竜刀を取り出して、血の刃を避けながら少女に向かって走り出す。血の刃はがむしゃらに動き回っているだけで、広い場所ではかわすのは容易だった。


 少女の元へと辿り着き、その小さな身体に向かって青竜刀を振りかぶったその瞬間、俺の右腕が飛んだ。


「っ⁈」


 青竜刀を握っていた右腕は、血を辺りに撒き散らしながら遠い地面にドシャリと落ちる。


 見ずとも肩から夥しい量の血が流れているのがわかった。突如襲った激痛にその場で膝をつきそうになったが持ち堪え、俺に狙いを定めた血の刃をかわす。


 だが、切断面から流れる血と、衝撃で襲いかかった激痛に思わず膝をついた。血の刃が俺に向かって迫ってきていた。死を覚悟した。仲間が目の前で死んでいった時と同じように。それでも抗う方法を探して。


 血の刃が不意に止まったかと思うと、血はただの液体に戻り、辺りに血溜まりが広がった。驚いて少女の方を見ると、少女は目を開けたまま血溜まりの上に倒れていた。譫言のように助けてと繰り返し、目は開いているのに何も見えていないようだった。


 虚な顔をした少女を放っておくことができず、雨が降り出す中、右肩から血を流して少女を連れ帰った。俺に助けてと救いを求めた者の手を振り払うことなんてできなかった。


 たとえ、チカゲが人間では無いとしても、別の世界から来た者だとしても、チカゲはチカゲなのだ。だから、何があったとしても守りたい。これ以上あの子から奪うものなど何も無いだろう。


 もしあるとしても、俺が代わりに背負う。それが呪いに近いものだとしても。

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