第23話 孤独の願い

 思い出した。思い出してしまった。忘れてはいけなかったこと。私が一体何なのか。


 その世界はとても平和で、戦争なんてテレビの向こうのニュースでしか聞かなかった。私の知っている世界は、自宅がある住宅街と、小さな公園と、友達のいる学校があって、駅に行けば自分の背丈の倍以上大きなビルが立ち並んでいた。


 私にはお母さんとお父さんがいて、その日は大好きだったお兄ちゃんのお葬式があって、私は学校の制服の黒いセーラー服を身にまとっていた。


 優しくて本当に大好きだったお兄ちゃんは、ある日交通事故にあって突然私の目の前から消えた。泣いても、泣いても、お兄ちゃんが戻ってくることはなくて、お葬式があった日にはもう、流せるような涙も残っていなくて、ずっとうつむいていた。


 お葬式の後、お母さんとお父さんは親戚の挨拶に行って、先に帰っていいと言われた私は、薄暗い夕闇の中、一人で帰路についていた。ぼんやりと外灯が光っていて、それがとても不気味に見えたのを覚えている。


 突然、私が歩いていた地面が崩れて、私は落下した。まるで世界に亀裂が入ったように、私の足は宙に浮いていて、下は真っ暗や闇が支配していた。何が起こったのか理解できないまま、私は下へ下へと落下して、だんだん自分が落ちているのか登っているのかわからなくなって、気がついたら全く知らない場所に座り込んでいた。


 見たことがない建物と、漫画やアニメでしか見ないような服を着て歩いている人々。大きなビルなんて存在しない、全く違う別の場所。


 立ち上がることもできず呆然とその場に座り込んでいると、行き交う人たちが私のことを不思議そうに見ていた。わけがわからなかった。まるで一人だけ別世界に来てしまったような異様な光景。頭の中が真っ白でどうしたらいいのかもわからない。


「見つけた」


 不意に聞こえた声が私に向けられたものだとは思わなかった。目の前に現れた、白いローブを着た人物を見るまでは。私よりも背の低い、小さな子供ぐらいの姿。白いローブを深くかぶっていて顔は見えない。


「見つけた、見つけた。ようやく、やっと……」


 ブツブツと呟きながら近づいてくる人物に、何故なのかわからない恐怖が込み上げた。なんだろう。私よりも小さい子供に見えるのに、鳥肌が止まらない。


 私に近づいてきたその人は私の腕をガッと掴んだ。私の手よりも小さい、褐色の肌をした子供の手。無理やり立ち上がらされて、私の手を引いたままずんずんと歩いていく。絶対に子供の力ではなかった。


 どこに行くの? ここはどこ? 聞きたいことは山ほどあるのに、小さな背中は私の問いかけを拒絶するように冷たくて、わけがわからないままついて行った。


 その時、その手を振り払っておけば良かったのかもしれない。そうしたら、こんなことにはならなかった。私は人間のままでいられた。


 いや、振り払うことなんて出来なかった。私がここにきた時点ですでに運命は歪んで、後には戻れなかった。多くの人を巻き込んで、歪んだ秩序は元には戻らず、掻き乱しながら進むほかない。


 わからない。思い出してもなお、私が一体何なのか。私は何者になってしまったのか。答えを知っているのは、あの顔を隠した名も知らぬ子供だけ。


 たとえ、自分が何者なのかわからなくても、忘れたくなかった。大切な人の姿を、私のいるべき世界を。そんな願いも全て奪われて、元には戻らない。


 私が連れて行かれた場所は、ボロボロに朽ちた教会の地下、真っ白な研究所のような場所。私の手を引く人物に問いかける間はついになく、何もわからないまま拘束された。


 それは、生き地獄という以外表しようのない時間だった。


 身体の内側から、自分という存在が歪んでいく感覚。熱いのに寒い、痛いのに痛くない、そんな訳の分からない感情が私の中を支配する。歪んでいく、崩れていく。私という存在は、何かに飲まれて沈んでいく。頭の中で響く何が私の心を狂わせた。助けてと口に出すことすら苦しくて、その苦痛にひたすら耐えるしかなかった。


「……成功した……やっと……」


 目を開けた時には、私はもう人間ではなくなっていた。


 自分の息を感じない。体温を感じない。身体に血が流れる感覚も、空腹感も何もかも。それなのに、私は生きている。そのことに涙を流すことも許されない。


 私を作り出した人物は、私を見てとても満足そうだった。


 私の記憶にはモヤがかかったように、大切な人たちの顔も声も思い出せなかった。違和感を感じても、ここが私の居場所ではないという証明ができない。ずっと、生きているのに死んでいるようなフリをして、小さな部屋の一角に座り込んでいた。せめて、大切な人たちがいたということを忘れないように、何もせず、何も感じず、骸のように。


「これが、教祖様の言っていた完全体?」


 ある時、私の部屋に誰かが入ってきた。黒い服を着た女性と、赤い服を着た女性。見ただけでその異様さに、人間ではないと気がついた。


「そうみたいですね。ほら、見たことない服じゃないですか?」


「そうね。異世界から来たなんて信じられなかったけれど本当のようね。それにしても……」


 黒い服を着た女性が近づいてきて、私の顔を上げさせた。硬く目を閉じた顔が私の視界に映る。やめて。これ以上、私に無駄な情報を与えないで。忘れてしまう。忘れたくない。


「本当に生きているの? 教祖様は喜んでいらしたけど、私たちとなにが違うのかしら?」


「さぁ……? 私たちを殺せるんだとおっしゃっていましたよ。異物なんだとか……」


「まぁ、なんでも構わないわ。この様子だと、反抗する気もないようだし。ねぇ、この子名前はなんていうの?」


 名前? 私の名前。名前。私の名前はなんだった? 思い出せない。大切な名前。忘れてはいけない名前があったはずなのに。


「わかりません。答えてくれそうもないですし……」


「じゃあ、付けてしまいましょうか。名前がないと不便ですもの。呼んだら来るように覚えさせないと」


「そうですね……可愛い名前がいいですね」


 やめてやめてやめてやめて。思い出せそうなのに。もう少し、もう少しで思い出せそうなのに。私のことを呼ぶ声も、私の名前も、優しい表情も。


「……血……黒……影……チカゲ……チカゲにしましょう」


「わぁ! いいですね! 可愛いです!」


 違う‼ そんな名前じゃない。私にはもっと、もっと暖かくて大切な人に与えられた名前があった。思い出せないけれど、たしかにあった。それを汚さないで。私をここの住人にしないで。あなたたちとは違う。


「あなたはチカゲ。唯一の成功例なのだから、けして教祖様の期待を裏切らないようにしなさい。そうしたら、教祖様が喜んでくださるのだから」


 教祖様とは、私をこんな場所に連れてきたあの人のことだろうか。もう、そんなことすらどうでもよかった。戻る場所もわからない。ただ、理由もわからず生きている。誰に言われたわけでもないけれど、感覚的に自分が死ぬことができないのだと悟った。


 忘れないように。忘れないように。忘れないように。


 忘れてしまったら、私は私ではなくなってしまう。存在自体が消えてしまう。それがとても恐ろしかった。嫌だった。なにを忘れてはいけないのかも、忘れかけているのに。


 開けられた扉に興味を持ったのはどうしてだったか思い出せない。だけど、なぜかこの真っ白で無機質な場所から、異形しかいない異様な空間から逃げ出そうと不意に思った。


 逃げて、逃げて、追ってくる人たちを何人も殺した。私の血は誰かを殺す凶器になっていて、誰も私を止めることはできなかった。


 外に出れば全て夢で、私の知っている世界が広がっているかもしれない。そんな、儚い希望は打ち砕かれて、明るい外に出て視界に飛び込んできたのは、私の知らない世界だった。


 いいえ、そもそも私の知っている世界ってなに? 思い出せない。


 頭の中がグチャグチャになってわからなくなった。視界の端が赤く染まり始めて、世界が赤くなる。身体に違和感を覚えて、私の目から赤い何かが流れている。涙ではない、生暖かい何か。


 私は誰? 私はなに? ここはどこ? 私は、私は。


 私はチカゲ?


 何が壊れる音がして、全てが赤色に染まった。違和感の正体も、自分がどうなってしまったのかも、私を歪ませた人物も、名前をつけた人のことも、全て、全て赤くなる。


 気がついた時には、私は誰かに背負われていた。怖いと思ったけれど、身体は動かなくて、伝わる体温が心地良くて、眠れもしない私の身体は世界の全てを拒絶するように、私の意識を赤い海の底へと引き摺り込んだ。


 自分が何なのかわからない。唯一思い出せたのはチカゲという名前だけ。そう言った私に、玉砕さんは悲しそうに笑った。そして、「かわいそう」だと私を優しく抱きしめた。


「この世界の人間じゃなかったからな」


 そう言われた瞬間に、頭を強く殴られた感覚に陥った。頭の中で忘れていたものが一気に鮮明になって溢れた。


 それなのに、私は思い出せない。大好きだった家族の顔も名前も、自分の名前も。


 忘れたいことは思い出せるのに、忘れたくなかったことを思い出そうとすると、私の中の何が邪魔をする。家族の声は、表情は、名前は。あぁ、どうして思い出せないの?


 また視界が赤く染まった。生暖かいものが溢れてとめどなく流れているのがわかる。だけど、私はそれを止めることができない。一度溢れたら止められない。


 大好きだったお兄ちゃんの顔はモヤがかかって見えない。手を伸ばしても届かない。私の居場所じゃなくてもいいから、せめてお兄ちゃんのところに行かせてくれればよかったのに。どうしていなくなってしまったの? ってわがままを言いたかった。こんな地獄みたいな世界いらない。お兄ちゃんのところに行かせてよ。


 私のことを誰か殺して。


 目の前で、私のものじゃない赤い血が飛び散った。私の身体は、私の中を流れる血は誰かを傷つけることしかできない。


 目の前で倒れたのは、たしかに陰だった。赤い血を流して、私に覆いかぶさるように倒れた、私のことを拒絶する唯一の人。私が大嫌いな人。


 それなのになぜだろう。どうして、一瞬だけ、陰と記憶の中でおぼろげに笑うお兄ちゃんの姿が重なった?


 その声がどこかで聞いたことがあると錯覚するのも、その背格好に懐かしさを感じるのも、名前を呼んでくれることに期待するのも。


 だから、私は陰のそばにいた?


 わからない。わからないのに、記憶の中のお兄ちゃんは陰と重なる。それが正しいのかもわからない。だけど、今、陰を傷つけたのは間違いなく私だ。


 玉砕さんが陰に近づいて、陰が弱々しく言葉を発したことに安堵した。それと同時に、自分がしたことをひどく後悔した。


 陰を殺してしまったら、私は誰に殺して貰えばいいの? 誰にすがって生きればいいの? 一人ぼっちは嫌。置いていかれるのは嫌。突然、私の目の前から大切な人がいなくなるのは嫌なの。だから、だからどうか。


 おにいちゃん、私を殺して。

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