第17話 血に飢えた心髄

 私の隣で玉砕さんが険しい顔をしている。私の手を握ったまま、何も言わずにただそばにいる。この状況にどこか無関心でなんの感情も現さない私は、もう人の心さえ失ったのだろうか。


 私の頬を叩いたときの玉砕さんの顔。あんな顔、見たことがなかった。


 どうしてだろう。どうして私なんかにこんなに必死な顔をするのだろう。玉砕さんだけじゃない。美萌草さんも鈴凛も瑠璃も陰でさえ。


 違う。違うのに。与えられても返せるものもない。自分のことすらわからない。生まれたてのような私が望んでいるのは、愛なんてものじゃない。


 この身を焦がすほどの殺意。不可能な私の死をもたらす憎悪、嫌悪。自分で死ねない私にもたらされる終わりが欲しい。


 不意に脳裏に浮かんでは消える何かが私に何かを問いかける。何かとても大切なことを思い出そうとして、激しい嫌悪感が生まれる。こびりついたように離れない、離してくれない記憶の断片。


 忘れてはいけないこと。忘れてはいけなかったこと。それはいったいなに?


 思い出そうとするたびに、私の中で違和感が生まれる。ここは私の居場所ではないと何かにささやかれている気がする。私の居場所はこんな血に塗れた血生臭い場所で

はなかったはずだ。もっと明るくて輝かしい、だけどそれがどこなのかわからない。その記憶さえも作られたものかもしれない。


 死ねない私。不死身の身体。人ではない能力。


 もしかしたら最初からこうだった? でも、だったらこの違和感はなに?


 成長しない身体、伸びない髪や爪。それを見るたびに、頭を殴られたような違和感をもよおすのはなぜ?


 記憶が欠如した私は、まるで生まれたばかりのように不安定で、一人取り残されたような疎外感を感じる。この世界から逃れたい。


 自分では死ねないから、誰かに殺されたい。死ぬ方法を探している。なぜかは知らない。わからない。だけど、この世界から逃れるためにはそれしか方法しかない気がして。


 血を流しても死ぬことはない。とめどなく溢れる鮮血が、服や地面を汚すだけ。死にたいという衝動が溢れるたび、身体が私のものではなくなるようだった。そのときの記憶はなくなる。欠如してわからなくなる。


 こんな不安定なままで生きていたくないから。だから、唯一私を拒絶してくれる人のそばにいる。いつか衝動的に殺してくれるんじゃないかって信じてる。


 陰は私のことを嫌っている。理由は知らない。だけど、その言動は私を避けているように思える。私が人ではないから? そんな単純な理由ではない。何かもっと重要なこと。


 私を見つめる目が悲しい、とても辛そうな顔をする。私を突き放したいのか、嫌なことを言うし嫌なことをする。


 私は陰が嫌い。大嫌い。だからそばにいる。殺してもらうため。嫌われるため。


「殺して」


 私の言葉に玉砕は私を叱責した。美萌草さんは私を優しく抱きしめた。鈴凛は悲しそうにごめんと言って、瑠璃は苦笑いして無理だと言った。


 陰は私の首を絞めた。


 首に跡が残るぐらい、強く、強く、私の首を絞めた。明確な殺意のもとで私を殺そうとした。その瞳は私のことを見ていないようだった。どこか遠い場所の誰かを見ている。


 死んでいた心が震えだしたようだった。真っ暗な視界に光が差したようだった。


 殺して、殺して、殺して、殺して、殺して


 私の望みを叶えて。元の場所に返して。どこかは知らない。わからない。だけどとても温かい場所。ここではないどこか。私の元いた場所に。


 陰は私を殺さなかった。殺せなかった。私は死なないから。だけど、陰が私を拒絶し始めたのは確かだった。きっと陰は私を殺してくれる。愛じゃなくて死をくれる。


 だけど、陰は私のことを見ていない。


 私の身体は夢を見ることも許されないから、暗い暗い夜の中、なにかを探して彷徨っている。そうしたら、これが全て夢であってここは現実の世界ではないのだと、なにかが教えてくれるかもしれないから。


 ふらり、ふらりと彷徨って、なにかに導かれるように部屋の扉を開けた。そこは陰の部屋だったようで、ベッドの上で陰がうなだれている。白い陰の髪が月明かりに照らされて、不気味な色をして輝いていた。


 私の足はなにかに突き動かされるように、まっすぐ陰に向かって歩きだした。きっと、殺されたかった。陰から飛び出しはずの罵倒を待っていた。殺してと陰にすがりつくように。


「……陽……?」


 顔を上げた陰は知らない名前を言って、思わず立ち止まった。陰の赤い瞳が長い前髪の隙間から少しだけ見える。その瞳は潤んでいて、涙が溜まっていた。見たことがない顔。私に向けられるはずがない顔。


「陽……?」


 陰が手を伸ばしながら近づいてくる。その手を振り払うことも、避けることもできず、私はそのまま立っていた。陰はおそるおそる私に触れて、私を強く抱きしめた。


「……陽……陽……ごめん……」


 同じ言葉を繰り返す陰に、私はただ呆然と抱きしめられていた。知らない名前で私を呼びながら、陰は涙を流している。聞いたこともないような、震えた弱々しい声で。


「……ごめん……」


 陰は私のことを他の誰かだと思い込んでいるようだった。それはきっと、陰にとってとても大切な人。陰に私は見えていない。


 この空虚感はなんだろう。いったいなにに期待していたんだろう。


 陰が私に笑いかけてくれること? 優しくしてくれること? 大切な存在になること?


 私の名前を呼んでくれること?


 わからない。でも、私を嫌って欲しかった。他の誰かではない私自身を。そうでなくては、私を殺すほどの憎悪にはならないから。


 そう、わかっていながら、私は陰に抱きしめられたまま動かなかった。陰が私にすがりながら泣きついてくる姿に、それを振り解くことができなかった。聞こえる声に、耳を塞ぐこともできず立っていた。


 その夜から、私は度々陰の部屋を覗きに行った。大抵陰は眠っているか、私が来たことに気がついて怪訝そうな顔をする。だけど、ごく稀に、虚な目をして「陽」と言う名前を呼んで、私に縋り付いてくるのだ。


 その姿を滑稽だと笑いたいわけじゃない。蔑みたいわけじゃない。ただ、陰が今にも壊れてしまいそうで、それが嫌なだけ。


 陰が壊れてしまったら、私は誰に殺されればいいの?


 だから、陰が壊れないように、名前しか知らない陰の大切な人のフリをしているだけ。たとえ、陰が私を見ていなかったとしても。


「殺してあげるよ。方法があるならね」


 ヘラヘラと笑いながら言った陰の言葉に、私はすがっている。私を抱きしめている夜とは全くの別人の陰に希望を見出している。


 ちゃんと殺して。殺すまで壊れないで。あなたしかいないの。他の人たちは優しすぎるから。


 なのに、どうしてあんなに必死な顔をしたの? 私が毒を飲んだとき、ようやく見つけた希望に瞳を輝かせたとき、どうして息を切らしながらあんなに必死な形相で私を止めたの?


 違う。違うよ。あなたは、毒を飲んで死を求めた私をただ冷たく見つめていればいいだけなのに。蔑むような眼差しで、冷たくなる私を鼻で笑ってくれればいいだけなのに。


 結局、私は毒では死ねなかった。そして玉砕さんに怒られた。陰はまるで、私が死ななかったことに安堵しているようだった。


 毒ではなく自らの手で殺したかったの? それとも、あなたも同じなの?


 もういっそのこと、プシュケに殺されてもかまわない。殺してくれるなら誰でもいい。プシュケだの戦争だのどうでもいい。私はただ死にたいだけ。


 だけど、美麗の声を聞いたとき、酷く心が掻き回されて、自分の中で何かが壊れた音がした。声が頭の中で反響して、訳がわからなくなった。心が拒絶するように、私の意識は途切れた。


 許されない。私の中でなにかが拒絶している。許されないのは、死にたいと願うこと? 私を愛してくれる人たちを拒絶すること? 逃れたいとあらがうこと?


 私が何をしたというのだろう。


 不意に玉砕さんが私の頭をなでた。その優しさに涙を流すことなんてできない。私から流れるのは赤い血液だけ。


    ◇


「……チカゲ……ごめんな……」


 玉砕さんが辛そうな顔をして呟いた。どうして謝るの? あなたは何も悪くないのに。


「殺してやれなくて……ごめんな……」


 あぁ、やめて。お願いそんな顔しないで。そんな辛そうな顔をしてくれる人に、なぜ殺してくれないのなんて責めたりしないから。責められる訳がないのだから。


 抱きしめられてもそれに応えることなんてできない。どれほど愛されても受け入れられない。嫌えばいいのに。拒絶したらいいのに。どうしてそんなに優しいの?


 だから、陰にすがるんだ。笑いながら殺して欲しくて。辛そうな顔をした人に殺してとは言えないから。愛を受け取れないように。

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