第16話 半身の懺悔 その二

 その時のこと、あまりよく覚えていない。


 必死でプシュケから逃げてきて、ジンジンと熱を持ちながら痛みを催す身体を引きずって、ぼやけた視界ですぐそばにある地面を見つめていた。倒れた身体を起こすこともできず、薄れかける意識は激痛で呼び戻される。声を出すことも、涙を流すこともできなかった。ただ、ボロ雑巾のように冷たい地面に横たわって、いつか来るはずの死を待っていた。


 不意にぼやけた視界が暗くなった。意識が途切れたわけじゃない。


「……生きてる……のか……?」


 人の声が聞こえた。私の上から誰かが見下ろしているらしい。影が落ちて私の視界が暗くなったようだ。上を見上げようとしても身体が動かない。声を出そうとしても呻き声一つ出すことができない。


「おい……大丈夫か……?」


 手を差し伸べられた。その手を取ることもできない。身体が痛い。ただ、ただ痛い。


 なのに、死ねない。


「息は……してない……?」


 そっと顔に触れられる感触がした。その瞬間、肌を伝って激痛が走る。あんなに出そうと思ってもできなかった声が口から飛び出した。


「ゔぁっ‼︎」


「⁈」


 涙が滲む。その液体が頬を伝うだけで痛い。口からヒューヒューと変な息が漏れる。もう嫌だ。あんなに死にたくなかったのに、今はもうただ楽になることを願っている。この痛みから逃れる術を求めている。


 身体がふわりと持ち上げられた。地面から離された肌が空気に晒されて痛んだ。私のただれた皮膚からは、汚い液体が流れている。膿なのか血なのかわからない体液。


「大丈夫……大丈夫だからな。俺が助けてやるからな」


 耳元で聞こえた優しい声はどこかで聞いたある気がして、だけどどこで聞いたか思い出せない。痛みに支配された私の意識は、地獄のような記憶を思い出すことを拒否していた。今はただ、この痛みに耐えることしかできない。


 私の身体を支える誰かの大きな手も、肌に伝わる体温もその時はただ邪魔だった。世界の全てを拒絶していた。余裕なんてなかったから。


 ただ死にたいと思っていた。


 誰かに連れて行かれた場所で、私は何処かに寝かされて、ただれた皮膚に包帯を巻かれて、ずっと天井を見つめていた。目を閉じると、その分感覚が研ぎ澄まされて身体中が痛くなる。意識がふいに薄れかけても、痛みが意識を引き摺り出す。


 どのくらいの間、天井を見つめていたのだろう。あまりの痛みに大声を上げることもあった。あまりの熱さに身をよじって暴れることもあった。


 それでも、私の手を握った誰かの硬い手は、その手を離すことはなかった。


 ずっと私の手からは誰かの体温が伝わってきて、その温かさを感じるたびに、少しだけ痛みが和らぐ。壊れそうな心がギリギリのところで繋ぎ止められていた。


 そしてある日、プツンと何かが途切れたように痛みが消えた。


 熱を持っていた皮膚は冷め切って、これまで私を襲っていた激痛は元々そんなものなかったと言うように消え失せた。あんなに動けと願っても動かなかった身体は、まるで羽のように軽やかに変わって、私の意思の通り動かせる。


 身体を起こしてベッドから降り、痛みのない足で歩いていった。辺りを見ても、手を握ってくれていた誰かの姿はない。部屋にあった大きな鏡の前で立ち止まり、自分の姿を確認した。包帯でぐるぐる巻きにされた、痩せ細ったみずぼらしい少女がそこに写っている。巻かれた包帯を解いて、床に血か何かわからない汚れのついた包帯が落ちた。


 膨らんでいた私の顔は綺麗に戻っていて跡も残っていない。でも、包帯の取れた腕や足は醜くただれた火傷のような跡が残っていた。着ていた服を脱いで、鏡の前で回ってみる。顔と手以外の皮膚は全てただれていた。これが、あのローブの者たちが言っていた後遺症だろうか?


 わからないけれど、痛みのなくなった身体はあまりに軽くて、醜い自分の姿など気にせずに鏡の前でくるくると回ってみせた。


 カシャンと後ろで音がして振り返る。床に転がった医療器具と、私を呆然と見つめる眼鏡をかけた銀髪銀目の男。左目に傷がある。


「……お……まえ……大丈夫……なのか……?」


 優しげな声は聞いたことがあった。私を見つけてくれた人。私を連れてきてくれた人。そして、唯一私を私だと認識してくれた兵士。


 その人は私に駆け寄ってきて、そっとただれた腕に触れてきた。


「痛く……ないか……?」


 死んだものだと思っていた。私の前から姿を消したその時に、私を置いて逝ってしまったのだと。


 その人の問いにも答えずに、私は久しぶりに声を絞り出した。


「……生きて……いたの……?」


 私の言葉にその人は一瞬不思議そうに私を見つめて、思い出したように目を見開いた。銀色の綺麗な瞳が私の目に映る。


「おまえ……兵舎にいた……」


 その人も私のことを思い出したようだ。今まで包帯を巻いていたから気がつかなかったのだろう。


「何があったんだ? リブラに襲われたか? その身体は……」


「……」


 答えられなかった。自分でもよくわからない。知ってるなら教えてほしい。


 私の身体はどうなってしまったの?


 何も答えない私にその人はなにかを察したらしく、私を優しく抱き寄せた。


「わかった。わかった、もういい。大丈夫。辛かったな……」


 痛みがあった時、邪魔だとしか思えなかった体温は私の心を癒すものに変わっていた。その温もりに涙が溢れた。自分がどうなったかもわからない。


 それでも、この人が生きてくれていただけで安心できた。


「名前は?」


「美萌草……」


「そうか……美萌草」


 その人は私の目を真っ直ぐに見つめる。


「助けてくれてありがとう。おまえのおかげで俺は生きている」


    ◇


 その人の名前は玉砕と言った。私と同じで戦争を経験した傷跡が身体中に残っている。だけど、玉砕は慈悲に溢れた強い人だった。


 玉砕は私に語った。戦争を終わらせたいのだと。これ以上、苦しむ人を生みたくないのだと。


 それは私も同じだった。地獄を見てきた、地獄を経験してきた。傷つく人をたくさん見てきた。二つの国の不理解によって生まれた戦争。何の関係もない人々が、ほんの一握りの醜い思想でどれほど苦しんでいるのか。領地? 文化? そんなもの知ったことか。こんなこと続けてはいけない。


 私は玉砕についていった。玉砕は多くの人に手を差し伸べて、多くの人を救った。玉砕に救われた人々は玉砕の強さに惹かれて付いてきた。


 そして、リンネが生まれた。


 最初は、玉砕は教団を作ることに反対していた。自分はそんなに偉大な者ではないと。神のように崇められるべき存在ではなく、ただの人間なのだと。


「宗教というものは、相応の不理解を生むだろう。俺はそんなものが作りたいわけじゃない。ただ、人を救いたいだけなんだ。神になんてなれない」


「ならなくていいのよ」


 人々が求めているのは神などではない。導いてくれる存在。この地獄に終止符を打ってくれる存在。それだけなのだ。そして、人をやめた私はそんな存在になることはできないから。


「人であるあなたについて行きたいの。あなたの考えで救われる人がいるの。それだけなのよ」


 私の言葉に、玉砕は主導者になることを決めて、教団リンネが誕生した。多くの人が玉砕に惹かれて、数年が経つ頃にはリンネは大きな教団となっていた。国に対抗できるほどの集団になり、タータンが戦争を起こすことを抑制することができた。リブラも戦況が不利になり、戦争は一時休戦となる。


 だが、あまりに激しすぎた戦争はその傷痕を確実に残していった。


 富裕層と貧困層の大きな差。貧困地には多くの孤児が残され、死体が転がっている。


 そして、教団プシュケの存在。


 玉砕についていく中で、自分の体を自分で調べてわかったことは、私の細胞再生は狂っているということ。即死する致命傷を負わない限り、私は死なないこと。体の成長は止まらないため、細胞の限界、寿命がくればもしかしたら死ぬのかもしれない。だが、確実に私の身体は人間ではなくなっていた。


 当然の報いなのだろうか。母と偽り死にたくないと懇願した結果なのだろうか。


 プシュケはリブラに本拠地を置き、猛者を作り続けている。私はそれがいかにして作られているかも、それがもともと人であることも理解していた。理由は知らないが、プシュケは戦争を求めている。


 一度差し出された手を取った私が許されることはないのだろう。それでも、プシュケはプシュケだけは私が潰さなければ。醜い復讐心だ。どうしようもない憎しみ。だけど、あの子たちを見たら、その憎悪はさらに掻き立てられた。


 玉砕が連れてきた瑠璃は紛争で両脚を失った元少年兵。親の顔も知らない、普通の日常も知らない。そして、自分のことが大嫌い。


 鈴凛はまだ幼いのに、一夜にして幸せを打ち砕かれた。消息不明の姉を探しながら、自分の心を押し殺している。


 陰はずっと心を閉ざしている。大切な人を失った悲しい目をしている。全てを拒絶しようとして、どうしてもそれができない優しい子。


 そして、チカゲ。


 雨が降る夜の日、血みどろになった玉砕が連れて帰ってきた女の子。見たことがない服を着ていて、虚な瞳をした人ではない少女。玉砕は右腕を失って機械義手になった。


 ちぃちゃんがプシュケになんらかのことをされたのはちぃちゃんの記憶がなくてもよくわかる。おそらく、私と同じような苦しみを負ったはずなのだ。しかも、ちぃちゃんはまるでこの世界から拒絶されているかのような異様な雰囲気を漂わせている。ちぃちゃんの死んだ瞳を見るたびに、ただ優しく抱きしめたくなった。


 どうして私だけではいけなかったの? この子がなにをしたというの?


 苦しい思いをするのは私だけでいい。この子たち全員の罪を全てかぶってあげたい。それで許されるなら喜んで。


 誰かの醜い願いと残酷な世界のせいで、悲しい子供たちが増えることは許せない。この子たちが幸せに笑えるようにも、私はプシュケを潰す。


 母親面をして愛してしまったのだから、それが私に課せられた業でしょう? こんな不完全な、人とも化け物とも言えない私の愛なんて、あの子たちの枷にしかならないのに。


 もう死にたくないなんて思わない。玉砕には悪いけれど、私は一度死んでいるのだから。輪廻の流れからはみ出した私に、来世など存在しないなら、今この瞬間に命を燃やして贖罪を果たすしかないでしょう。


 最後にあの子たちに心からの愛を伝えられたら、それだけで私は救われる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る