第14話 半身の懺悔 その一

 大会議室に集められた陰、瑠璃、鈴凛、チカゲは、シンとした部屋の空気に黙り込んでいた。玉砕は険しい顔をして全員に背を向けている。


「……みんなそんな顔しないで。確かにいい話ではないけれど、こんな雰囲気じゃ話しづらいわ」


 全員を集めた美萌草が苦笑いを浮かべた。鈴凛はとても不安そうな顔をしている。


「……さて、さっそく本題に入りましょう」


 美萌草が立ち上がり、全員の視線が美萌草に向けられる。美萌草が少し居心地悪そうな顔をした。


「単刀直入に言うわ。私は人間じゃない」


 美萌草の一言に、玉砕以外の全員が目を見開く。玉砕は険しい顔をしたまま、背を向けていた。


「……は……?」


「信じられないかしら? まぁ、そうよね……」


 陰の間の抜けた声に、美萌草がまた苦笑いを浮かべた。そして、後ろに隠していた短剣を取り出して鞘を抜く。


「実演した方が早いわ」


 キラリと光った短剣の刃が振り上げられる。刃は真っ直ぐに、美萌草の手の甲に向けられていた。


「ダメっ‼︎」


 鈴凛が立ち上がって止めようと手を伸ばす。短剣の刃は鈴凛の声を無視して美萌草の手を貫いた。赤い血が刃を伝う。瑠璃はなにも言えずに青ざめていた。


 美萌草がゆっくりと刃を手から抜く。刃が貫通した手の甲は穴が開き、血が流れていた。


「……嘘だ……」


「手当てをっ‼︎」


「リンちゃ、いいから見ていて」


 信じられないと言うように青ざめて口を押さえる瑠璃。慌てる鈴凛を静かになだめて、美萌草は怪我の痛みに顔を歪めることもなく、いつも通りの静かな笑みを浮かべていた。陰は険しい顔をしてなにも言わない。チカゲもただ黙っている。


 美萌草の傷は再生して、流れていた血は止まった。


 鈴凛の顔から血の気が引く。チカゲがふいっと美萌草から目を逸らした。瑠璃は泣きそうな顔をしている。


「……ご覧の通り、ちぃちゃんと同じよ」


「……嘘っ……嘘だっ……! だって……!」


「落ち着いて、瑠璃。ちゃんと説明するから」


 瑠璃に優しく笑いかける美萌草。その笑みはどこか悲しそうで、美萌草は自分の手を見つめた。傷が消えた、自分の手の甲。


「私は不完全だから、ちぃちゃんのように死なないわけじゃない。即死攻撃をされれば死ぬわ。それに、後遺症もある」


 そう言って美萌草が服の袖をめくる。覗いた肌は醜くただれ、火傷後のようなものが広がっていた。鈴凛がふらりとよろめいて椅子に座る。


「……さぁ、始めましょう。くだらない身の上話を」


    ◇


 人が死ぬ瞬間を何度も見てきた。死にたくないと嘆く人。死を受け入れて諦める人。最後まで苦しんで逝く人。


 目の前で起こるその一つ一つの出来事に心を動かし続けると、心がはち切れて壊れてしまうから、私は押し留めてなにも見なかったことにする。


 死にたくないと口から飛び出すのを我慢して、我慢して、我慢して。限界がきて差し伸べられた手を取った時、その瞬間、歯車は狂って歪んでもう戻れなくなった。


 許されたいとは思わない。不完全な私がこの世界に存在する事を許されないことは知っている。復讐に飲まれた女など、存在意義はないのだから。


 責めてくれてかまわない。罵ってくれてかまわない。それが私の罰というのなら喜んで受け入れる。


 だけど、これ以上私のような人間を増やすことは許さない。


    ◇


 リブラとタータンの戦いが、まだその火を休めず多くの血が流れていた時、男は兵士として、女は傷ついた兵士を癒すために戦地へと送り出された。私の父も兵として戦地に向かい、私も兵舎へと向かわなければならなかった。


 誰もがその戦いから逃れることはできない。血を流しながら戦って苦しみながら息絶えるのが生まれてきた意味なのだと、そう思い込むしかなかった。


 毎日のように兵舎に運び込まれる重傷者たち。どこからか聞こえる呻き声と肌を包む血の臭い。初めてその光景を目にした時、私はただ呆然と突っ立っているしかなかった。


「包帯が足りないっ‼︎」


「早く鎮静剤をっ‼︎」


「あぁっ‼︎ 血が止まらないっ‼︎」


 慌ただしく動き回る看護婦たち。私と歳の変わらない少女たちが血塗れになりながら、懸命に兵士の手当てをしていた。そこでの生活は地獄だった。


 満足にない医療器具に薬、倒れていく重傷者たち。物を食べようと思っても見るだけで吐き気がする。微かに聞こえる死にかけの声に食欲は消え失せた。


 夜に寝られたことは一度もない。ウトウトと眠りにつこうとしても、誰かの悲鳴で目が覚める。それは重傷を負った兵士の声だったり、恐ろしい夢を見た同じ歳の少女の声だったり。


 私自身が恐ろしい夢を見る。そして何度も飛び起きる。


 飛び起きたところで、私の背中を優しくさすって慰めてくれる優しい母の姿はない。家に置いてきた母は病気に苦しんでいるのだろう。遠く離れた私にはどうしてあげることもできない。


 だんだんと兵舎の血生臭い臭いと重苦しい雰囲気に慣れてきて、看護婦たちに重傷者の手当てを任されるようになった。そこで私の心はさらにえぐられることになる。


 血も薬の鼻を突く匂いももう嗅ぎなれて、手に血がついても不快に思わなくなっていた私は、兵士の呻き声を聞きながらただ黙々と手当てをしていた。兵士は私よりもずっと大きな体で苦しそうに息をしている。


 出来る限りの手当てを終わらせて、他の重傷者の元へ向かおうとした時、腕を掴まれて立ち止まった。先ほどまで手当てをしていた兵士が私の腕を掴んでいる。何かあったのかと思って兵士を見つめた。


「……行かないでくれよぉ……母さん……」


 自分の耳を疑った。兵士は、私よりも一回りほど歳を取った兵士は、私のことを母と呼んだ。自分よりいくつも歳の離れた少女のことを母だと思い込んでいた。


 死を目前にした兵士はおぼろげな意識の中で、自分の大事な人を求める。それは自分の母だったり、恋人だったり、赤の他人をそう思い込んで、子供のようにすがりつく。


 その姿はとても不気味で、私の胸の中にたまらない不快感を与えた。胃がひっくり返りそうなほどの吐き気に見舞われて、本当はその手を振り払ってしまいたかった。涙を流す兵士たち。私だって本当は泣きたいのに。


 だけど、私はその手を振り払えない。私と同じように苦しみに満ちた人に冷たくすることができなかった。少しでも救われるのなら、救われて欲しいと思った。


 だから、私は自分を偽った。


「……大丈夫。大丈夫ですよ。母はそばにいます。ずっとあなたのそばにいます。だから安心して眠りなさい」


 優しくそう言うと、兵士は安心したように目をつぶって、私の腕から兵士の手が離れた。


 その途端、何かが壊れた音がして、我慢していたものが溢れ出して膝から崩れ落ちた。堪えていた涙が流れて止まらない。


 こんな死に方は嫌だ。偽りに見送られて死ぬなんて、なんてかわいそうなの。


 こんな場所で大切な人にも会えずに死ぬなんて。


 私と看護婦たちと少女たちは、何人もの兵士の母になり恋人になり家族になった。私たちに見送られた兵士たちは幸せそうな顔をして逝った。その姿を見ながら、とてつもない罪悪感に駆られる。だってそれは偽りなのだから。


 ある日、少女が一人首を吊って発見された。息絶えた少女の足元には、赤い血で綴られた遺書が残されていた。


『ごめんなさい。耐えられません。私は母ではありません』


 名前も知らないその少女は、私の覚えている限りではとても心優しい子だった。腹を空かせた年下の子に少ない食事を分け与え、重傷を負った兵士に親身に寄り添って何度も何度も優しく声をかけ、死んだ兵士に涙を流していた。


 そして、罪の意識に押しつぶされた。


 優しい人ほど死んでいく。優しい人ほど押し潰される。変わり果てた少女の姿に死にたくないと思った。


「重傷者に深入りするのはやめなさい。あなたたちの首を締めるだけよ。出来る限りの手当てをすればいいだけ。兵士が死ぬのは私たちのせいではない」


 冷たく言った看護婦になにも言えなかった。そうでもしないと潰れてしまう。この人も何人もの兵士の母になったのだろう。


 人が一人死ぬことに、なにも感じなくなり始めていた。心の中を支配する。自分だけは死にたくないと、押し潰されてたまるものかと。そう叫び声を上げる。


 兵士が幸せそうな顔をして逝くたびに、私の心は掻き乱されてグチャグチャになった。なにも入っていない胃を掻き回して、罪悪感を吐き出すようにえずいた。


 死にたくなかった、どうしても。家族の安否も確認できない。赤の他人を身内と思い込んで死ぬなんて嫌だ。自ら命を絶つなんて最悪。


 あの少女のようにはならない。優しさなんて必要ない。偽って演じろ。優しい母のような、女神のような笑顔で。


 地獄に落ちてもかまわない。ここが地獄なのだから。


    ◇


 いつもと同じように重傷者がたくさん運び込まれた日のこと。黙々と手当てをして、少なくなった薬に顔をしかめる。戦争はその激しさを増して、医療器具は雀の涙だった。


 それでも出来る限りのことをして、一人また一人と兵士が死んでいく中、その人に出会った。


 頭から血を流し、腹に空いた穴から血を流す兵士。左目に傷を負っていて、右目は綺麗な銀色。せっかく綺麗な銀髪なのに、髪は血に濡れていた。


 その人を見た瞬間、あぁ助からないなと思った。出血量も腹の穴も、もうその兵士が死にかけだということを物語っていた。


 兵士に近づいて、布を押し付けて止血を試みる。布はあっという間に赤く染まって、血は止まる気配を見せなかった。兵士の息は荒い。


 それでもせめて血が止まれば望みがあるのではと、私は布を押し付け続けた。だってこの人には手足があったから。兵士の手足がないことなんて当たり前のようなものだった。重傷者はどこかが必ず欠損している。まだ手足があるのなら、どうにかなるかもしれない。それに、その人はまだ諦めていなかった。


 虚な目をして死を待つ兵士を何人も見てきた。呻き声も上げず、ただ楽になることを望んでいる人たち。だけど、この人の目はまだ生きていたいという意思を持っていたから。だから、殺したくないと思った。


「……悪いなぁ……」


 ポツリとその人が呟いた。なにを言っているのかと思って顔を上げる。その人の瞳は私をまっすぐ見つめていた。


「こんな嬢ちゃんにさ……こんなに必死な顔されて……死ねないよな……」


 驚いた。兵士が私のことを嬢ちゃんなんて言うのは久しぶりで。いつも、母だと呼ばれ続けてきたから。


 兵士は辛そうな息をしながら、私の頭に血塗れの手を乗せた。驚いて動きが止まる。


「ありがとな……」


 その言葉に何かが溢れた。ぬるりとした血の感触が伝わる。無意識に涙が溢れていた。感謝の言葉なんていつぶりだろう。


「……辛いよなぁ……当たり前だ……だから……俺は死ねない……」


 手が震えていた。本当は声を上げて泣き出して、その人にすがりつきたかった。


 でも、そんなことはできない。この人を殺してはいけない。殺したくない。


 耐えろ。今までそうしてきたように。自分の心を偽って、泣き出したいのを堪えろ。今まで大丈夫だったのだから、耐えてみせろ。


「……俺が……終わらせる……」


 その人の言葉の意味はわからなかった。なにを終わらせるのか、なにを決意したのか。だけど、ただ死んで欲しくないと願った。


 ここに来てから私を私だと認識してくれる人はほとんどいなかった。私はいったいなんなのだろう。私は誰の母なのだろう。


 私は私なのに。


 その日はここに来て初めて眠ることができた。脳裏に張り付いた死人の顔も、吐き気を誘う血の臭いも感じない。怖い夢も見なかった。ただ、疲れていたんだと思う。自分を偽ることも、兵士に笑いかけることも、全て放棄してしまいたかったから。本当は叫びたかった。私は私だと。


 でも、叫んだら自分が壊れる気がして、あの少女になる気がして飲み込んだ。


 次の日、あの兵士は忽然と姿を消した。私の心に空虚が広がる。


 死んでしまったのだろう。あの重傷で生きているとは思えない。冷たくなって、焼却場にでも連れて行かれてしまったのだろう。そして、私をおいて逝ってしまった。


 確認しにいく勇気も、そんな時間もなかった。重傷者は運び込まれて、私は母にならねばならなかった。


 心の中で広がった空虚は時間が経つにつれて大きくなって、私を飲み込んだ。兵士に笑いかける力もほとんどなかった。もう、どうでもいいと思っていた。心は悲鳴をあげている。もう無理だと。逃げてしまいたいと。苦しいと。


 父からの便りはない。母は静かな家の中できっと息絶えている。戦争は激しさを増して、終わりは見えない。


 だから、差し伸べられた手を取った。


    ◇


 ついに私のいた兵舎にも、敵の魔の手が迫ってきた。リブラの兵士が攻め込んで、まだ動けそうだったタータンの兵士を数人撃ち殺し、私たちを捉えた。私とともに縛られた少女がガタガタと震えている。


 私は死にたくないなと思いながらも、他の子のように声を押し殺して涙を流したりはしなかった。痛いのは嫌だな、ぐらいにしか思っていなかったのだと思う。


「きゃあっ‼︎」


 銃声と悲鳴が鳴り響いて、捕まっていた少女が一人倒れた。ざわめきと小さな悲鳴が上がる。少女は赤い血を流して、開かれた目は瞳孔が開いていた。


 また何発かの銃声が聞こえて、少女たちがバタバタと倒れていく。私以外の少女たちは泣き出して、悲鳴をあげて震えていた。


「もういい」


 響いた声に、少女たちを撃ち殺していた兵士たちが動きを止めた。姿を現したのは戦場に似合わない、綺麗な白いローブを着た背の低い人。


「人数合わせは十分だ」


 綺麗な少年の声だった。ローブを深くかぶっていて顔は見えない。私よりも若い声の主は兵士たちに向かって高圧的に言葉を放ちながら、捕らえられた少女たちをぐるりと見回しているようだった。そして、呆然としている私を見つけて顔を覗き込むように目の前に立った。


「死にたい奴はいるか?」


 全員答えることもできず震えていた。青冷めた顔をして、泣き声が漏れないように口を押さえている。


 だけど、私は違った。その問いに私は首を横に振ってみせた。死にたくない。


 人が死ぬ瞬間をたくさん見てきた。死ぬ人はいつも血を流していて、苦しそうな呻き声を出して、偽りに見守られて死んでいく。偽り続けた私が天国に行けるわけがないのだから。死んでもどうせ地獄にしかいけないのなら死にたくない。


 少年は首を振った私に手を差し伸べた。小さな手だった。幼さの残る子供の手。だけど、少年が醸し出す雰囲気は子供とはかけ離れていて、まるで子供の姿をした怪物のような異様さを持っていた。


「永遠の生を与えてやろう」


 永遠の生なんて本当は興味がなかった。ただ死にたくないだけだった。こんなクソみたいな世界で死んでたまるかと。抗いたかっただけ。


 差し伸べられた手を取った。冷たい、まるで人形のような手を。私は死を恐怖していた。死ぬことが怖かった。手を取ることに躊躇いはなかった。


 連れて行かれた場所は、おそらくリブラのどこか。一面真っ白の建物の中に、白いローブを着た人が何人もいて、異様な雰囲気を醸し出していた。


 私とともに連れてこられた少女は十数人。他の子たちは殺されて、重傷を負っていた兵士も看護婦たちも撃ち殺された。そのことになんの感情も抱かなかった。自分が生きていることに安堵していた。


 私たちは一人ずつ小さな部屋に入れられて、最低限の暮らしをおくらされた。部屋から出ることは許されず、一人で小さな部屋の中、朝と夜に運ばれてくる食事を口にする。たまに部屋の外から話し声が聞こえてきた。隣の部屋から人が出ていく音がした。それだけだった。


 寂しさに駆られても、あの血生臭い地獄よりはマシ。そう思い込んで生きていた。死ぬよりはマシ、生きていればそれでいい。


 頭が割れそうなほどの叫び声で目が覚めた。人の声とは言い難い、醜い声。体を起こして扉に近づこうとして、誰かが扉をバンバンと叩く音に立ち止まった。


「助けてっ‼︎ 助けてっ‼︎」


 扉を叩く音とともに聞こえる叫び声。私の足は動かない。


 ガタンッと音がして扉が壊れた。倒れてきた扉に退いて後ろに下がる。目の前に扉を叩いていた人物の姿が現れた。


 顔が半分ブクブクに膨れ上がった少女の姿。下半身は崩れて原形を留めておらず、肉塊のようになっている。少女は必死な顔をして、私のことを見上げていた。


「助けてっ‼︎」


 その異様な姿と鼻をつく異臭に一歩後ろに下がる。おぞましい姿をした少女は私に手を伸ばしているけれど、その姿に私はただ呆然と立っていた。


「化け物になんてなりたくないっ‼︎」


 必死で叫ぶ少女の後ろから白いローブを着た人たちが走ってくる。少女が悲鳴をあげた。


「いやぁっ‼︎ お 願い、助けてよっ‼︎ ねぇっ‼︎」


 白いローブを着た人たちが暴れる少女を取り押さえて、引きずって連れて行く。少女は私に向かって懸命に叫んでいたけれど、私の足は動かなかった。


「中に戻れ」


「……あの子は……」


「奴は教祖様の恩恵を受けたのだ。望み通りの永遠の生を手に入れた、それだけのこと」


 教祖様? 恩恵? 意味がわからない。私たちはなにも知らされていないのだから。


 あの化け物が永遠の生だというの? あんなおぞましい姿が?


「……代わりの部屋に案内する。部屋から出るなよ」


 ローブの人に連れられて、前の部屋よりも一回りほど小さい部屋に押し込まれた。古い物置のような部屋。扉も古くて立て付けが悪いようだ。少し埃臭い部屋の空気に包まれながら、さっき見た少女の顔が脳裏に張り付いて離れなかった。


 赤黒く膨れ上がった顔と、肉塊と化した下半身。体を引きずって来たのか、廊下には赤い跡がついていた。


 私もあんな姿になってしまうの? 永遠の生っていったいなんなの? 私はただ死にたくなかっただけだったのに。死ぬのが怖かっただけなのに。


 あんな姿にされる方がよっぽど怖い。血生臭い兵舎の方がまだ良かった。人間の姿も保っていられないまま、それでも永遠に生きるというの?


 ふと立て付けの悪い扉が目に入った。


 逃げたい。ここから逃げ出したい。あんな化け物になるのは嫌。


 扉のノブに手をかける。ガチャガチャと音がするだけで鍵がかかっていた。


 逃げられない。一度手を取ってしまったから。


 それでも諦められずに何度もノブを回そうとした。立て付けの悪い扉がギィッと音を出す。たまらず口から声が飛び出した。


「開いてよっ‼︎」


 ガチャンッ


 大きな音がして心臓が飛び出しそうになった。周りに聞こえるような大きな音で、またローブの人たちが来るかと思ったけれど、あたりはシンと静まり返っていた。ドキドキとうるさい心臓を落ち着けて、手汗が滲んだ手でノブを回す。


 鍵が壊れていたのか、それとも私が壊したのかわからないけれど、扉は嫌な音を立てながら開いた。真っ白な廊下に飛び出して、誰もいないか辺りを見回して走り出す。どこに向かえばいいかはわからなくて、ただがむしゃらに走った。


「足音がする」


「脱走か?」


「失敗作かもしれない。慎重に向かえ」


 角を曲がろうとして聞こえた声に思わず立ち止まって、隠れられる場所を探した。心臓がバクバクとうるさい。


 見つかったらダメだ。ここから逃げないと、私が私でなくなる気がする。


 近くにあった扉に手をかけて中に入った。慌てて扉を閉めて部屋の中を見る。部屋は暗くてなにも見えない。でも、微かに声が聞こえる。荒い息遣いが聞こえる。


 ガシャガシャと金属の音が聞こえた。


 手探りで電気を探して、スイッチのようなものに手が触れる。パッと部屋が明るくなって、目に飛び込んできた光景に立ちすくんだ。


 無数に並んだ金属の檻。中で蠢くあの少女のような化け物。完全に人の形を留めていないもの、半分は人の姿のままのもの、それぞれが荒い呼吸音を響かせながら、檻から出ようと蠢いていた。


「……だ………げぇ……てぇ……」


「……ごろぉ……じ……てぇ……」


 耳にまとわりつく汚い声。私を見つめる無数の瞳からは、涙とも血とも言えない汚い液体が流れていた。


「……ひいっ……!」


 こみあがる吐き気に口を押さえて、ふらりと一歩あとずさる。地獄のような光景に涙が滲んだ。


 嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ!


 こんな姿になりたくない。こんな醜い姿になってまで生きたいなんて思えない。それならば、血を流して苦しんで偽りに見送られたとしても、人間のままで死にたい。


 あの場所が、血の臭いのする兵舎が何よりの地獄だと思っていた。死ぬことがなによりも怖かった。馬鹿なものだ。こんな地獄のような場所に、自ら進んで来るなんて。


「⁉」


 後ろの扉が開けられた。ローブの人たちが数人、私のことを見つめている。とてもとても冷たい目。身体が震える。


「捕まえろ」


 言い放たれた言葉に、なんとかその場から逃れようと扉に向かって走った。腕を掴まれる。


「いやぁっ‼︎ 離してぇっ‼︎」


 どんなに暴れても私を掴んだ手が離してくれることはなく、どんなに叫んでも助けが来ることはなかった。


「嫌だっ‼︎」


 そう叫んだ瞬間に、腹に鈍い痛みが走った。内臓が飛び出そうな衝撃と痛み。ぐらりと世界が歪んで、足に力が入らなくなる。地面が近づいて、意識が薄れていった。視界が暗くなって、最後に脳裏に浮かんだのは、私の頭を撫でてくれた、あの銀目の兵士の顔だった。


    ◇


 目を覚まして目を開ける。目を開けたはずなのに視界は真っ暗。目隠しをされているらしくてなにも見えない。身体を動かそうとして動けなかった。何かに固定されているのか手足が動かない。どこかに寝かされているようだけど、近くに人の気配を感じる。


 胸の中がさあっと冷たくなる。何をされるの?


「永遠の生を手に入れる。不滅の世界を作り上げる。それなのになぜ逃げる?」


 不意に聞こえた綺麗な声。少年のような声。私に手を差し伸べた背の低い人の声だった。


「死にたくないと答えたのは貴様だろう?」


 叫び声を上げそうだった。でも声は出ない。奥歯がカチカチと音を出した。視界が奪われているせいで耳がいろんな音を捉える。


「滑稽に歪むがいい」


 ドプンと身体に何かが入った感触がする。肉を突き破って、その手は私の心臓を掴んでいた。


「ああああっ‼︎」


 意識を奪おうとする激痛に身を捩る。手足を固定されていて暴れまわることもできない。


 身体に異物が侵入している、とても不快な感覚。肉が膨れ上がって熱を帯びていて熱い。火傷の水膨れのように皮が膨らんで弾けるたびに、意識が飛びそうなほどの激痛にみまわれる。自分の中で自分が自分でなくなるような感覚に襲われた。中から歪んでいくような、意識を支配するような感覚。


「……成功だ……」


 ポツリとつぶやかれた言葉とともに、私の身体から手が抜かれた。息をするたびに身体が痛い。心臓を掴まれたのに、私は確かに生きていた。


「人型を保っている……」


「多少の後遺症は残っているが……」


 固定されていた手足が解放されて、目隠しが外された。視界に映ったローブを着た三人の人物は、私を見て誇らしげに笑みを浮かべている。身体は痛くて動かない。顔だけを動かして、自分の右手が見える。


 火傷のように醜くただれた肌。真っ白な壁に映った顔は、半分が膨れ上がって水膨れのようになっていた。


 これが私? この醜い姿が私? こんな姿になってまで生きているの?


 いきなり振り下ろされたナタが私の腕を切断した。


「あがっ‼︎」


 あまりの激痛に変な声が出た。言い表せないような痛みが思考を支配する。赤黒い血が切断面から流れ出た。息をすればするほどに血液は流れ出てジンジンと痛みが増す。


 息を整えようと大きく息を吸って、飛び込んできた光景に目を見開いた。


 切断された腕はそのままに、血が流れていた切断面から腕が再生していた。一瞬痛みも忘れて、呆然とその様子を見つめる。


「成功だ…ついに成功した…!」


「いや、失敗作と同じだ。核があるし後遺症が出ている」


「それでも人型を保っている」


 ローブの人たちが口々に話している声も私の耳には聞こえなかった。自分の姿に絶望して。私はもう人間ではないらしい。


「頭が飛んだら死ぬか?」


「せっかくの成功例だ。殺すのは惜しい」


 殺すのは惜しい? それはこの状態で生き続けなければいけないということ?

そんなの嫌。


 とっさにナタを手に取っていた。手に取ったナタで一番近くにいた人の首をかき切る。鮮血が飛び散って、私の顔に付着した。


 残った二人が慌てふためき私を取り押さえようとする。痛みで悲鳴を上げる体を無理矢理動かして、ナタで二人の首を切った。部屋に散らばる赤い血と倒れた三人の体を置いて、私は部屋から飛び出した。


 空気が肌を滑るたび、火傷のようにただれた肌が痛い。一歩踏み出すたびに激痛が走る。それでも走った。走って逃げた。


 そこからはあまり覚えていない。途切れ途切れの記憶でとりあえず痛みに耐えて走ったのを覚えている。痛みが意識を支配しようと魔の手を伸ばしていた。


 ただ走って逃げて外に出て、外に出てからも走り続けて途中で体がガクンと崩れた。地面に叩きつけられた途端に激痛が走って意識がうすれる。


 私はどこで間違えたのだろう? 自分を母だと偽った日? 死にたくないと死を拒絶した日? 差し出された手を取ってしまった日?


 いいえ。きっと最初から狂っていた。後戻りなんてできなかった。


 私は汚れた。汚れて人ではない何かへと変わった。化け物に成り果てた。


 そんな女が母を名乗ることなど出来はせず、人と偽ることすらままならない。

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