第12話 再会
少女が一人、路地裏を鼻唄混じりに歩いていた。目が覚めるような赤いチャイナドレスを身にまとい、黒い髪を二つ団子にくくっているが、片方はほどけて無造作に垂らされ、その右目を隠している。チャイナドレスのスリットから覗く細い脚は、幾重にも包帯が巻かれていた。
少女は上機嫌で路地を歩き、足元に転がった死体に気がついてしゃがみ込んだ。
まじまじと腐りかけの死体を眺めて、その顔に笑みを浮かべる。
「あなたも私のお友達になりますか?」
死体はなにも答えない。それでも少女は楽しそうに話しかける。
「あぁ、でもごめんなさい。私、今お使いを頼まれているの。それに……」
少女はゆっくりと立ち上がった。
「私、妹を探しているから」
少女は笑いながらその場を去った。置いて行かれた死体はなにも言わない。
少女はまた鼻唄混じりに歩いていく。自分の探す、大切な人のもとへ。
少女の赤いチャイナドレスの裾はボロボロになっていて、その色はくすんでいた。軽やかに歩いていくその足の包帯からは、ほのかに腐敗臭が漂っていて、包帯の色は淀んでいる。
路地に響く鼻唄はどこか歪んだ音色のようで、美しく辺りに響いて消えた。
その歌は誰の耳にも届かない。美しい歌を聞いたのは、置いて行かれた死体だけ。
少女の瞳には、大切な人と自分の友達しか映らない。
少女の美しい金色の左目が日光に反射してキラキラと輝いた。
◇
タータンの市場の人混みの中、瑠璃と鈴凛が手を繋いで歩いていた。瑠璃の片手には多くの荷物が抱かれていて、鈴凛は手ぶらのまま歩いている。
「ねぇ、瑠璃。一個持とうか?」
「ん〜? 大丈夫。それより、美萌草さんのお使い、これだけだっけ?」
「ううん。あと一個。ちぃちゃん用の服を作るための布」
「ちぃちゃん、あの服以外の服着るの?」
「わかんない。でも、あの服ボロボロだし、似たようなやつどこを探しても見つからないから作るって」
「器用だなぁ、美萌草さん」
市場の人混みの中、身長の低い鈴凛は歩きづらそうによろめいている。それに気がついた瑠璃が鈴凛に手を伸ばした。
「大丈夫? リンちゃ。抱っこしようか?」
「……平気だもん。それに、瑠璃の手、いっぱいでしょ?」
「肩車するよ」
「……いい。そんなに子供じゃない」
不服そうに頬を膨らませて、鈴凛が瑠璃の手を離した。荷物を抱えた瑠璃を置いて、小さな身体で人混みをかき分けて進んでしまう。瑠璃が慌てて鈴凛を追いかける。
「ちょ、ちょっと待ってリンちゃ! はぐれちゃうよ!」
鈴凛は瑠璃の声を無視して進んでいく。どんどん二人の距離は離れていき、人混みに紛れて瑠璃の視界から鈴凛の背中が消えていく。
「あ、ちょっ、リンちゃ‼︎」
人混みに流された瑠璃は、鈴凛の姿を見失ってしまった。
人混みをすり抜けながら、鈴凛は不機嫌そうに頬を膨らませたまま、ぶつぶつと呟きながら歩いていた。
「いつも、いつも子供扱いばっかり……私だってもう十歳超えてるのに……」
ずんずんと歩いていた鈴凛は、瑠璃が近くにいないことに気がついて振り返る。
「瑠璃?」
後ろに瑠璃の姿はない。鈴凛が青冷めて立ち止まった。立ち止まった鈴凛にぶつかりながら、人が歩いていく。
「……瑠璃? どこ?」
鈴凛の脳裏に虚な目をした姉の姿が浮かび上がった。自分が置いて行ってしまった大切な姉。そして、忽然と自分の前から姿を消した姉。
「……瑠璃!」
呼び掛けても瑠璃の返事は返ってこない。鈴凛の胸がザワザワと不安に包まれていく。小さな手が震えだした。
「瑠璃⁈」
鈴凛が歩いていた方向と逆の方向に走りだした。逆走してくる人をかき分けて、瑠璃の姿を探す。鈴凛にとって、誰かと離れる事はとても恐ろしい事だった。
「瑠璃⁈ 瑠璃、どこ⁈」
見慣れた瑠璃の姿は人混みに紛れて見えない。呼び掛けても返事が返ってこず、鈴凛の冷や汗は止まらない。鈴凛の頭は困惑して、今にも泣き出しそうだった。
息を切らして立ち止まり、ぶつかっていく人々に足元がふらつく。なんとか人混みを抜けて息を整え、混乱した頭を落ち着けた。
「大丈夫……大丈夫……落ち着いて……」
自分に言い聞かせるように呟きながら、額に浮かんだ汗を拭う。
「大丈夫……お互い、帰る場所はわかってる……大丈夫……」
そのままふらりとよろめいて、地面にしゃがみこんだ。顔を手で覆いながら、「大丈夫、大丈夫」と繰り返し呟く。
「……瑠璃は、私のこと置いて行かない……」
鈴凛の頭に殺された両親の死体と、笑顔で笑いかける姉の姿が浮かんで「ひっ!」と小さな悲鳴が漏れた。頭を抱えるようにして縮こまり、記憶を追い払うように頭を振る。
「……瑠璃……」
小さく呟いた鈴凛の声は、人混みにかき消されて消えていった。
◇
「キャーッ‼︎」
鈴凛を探して荷物を抱えながら人混みをかき分けて走っていた瑠璃が、響いた悲鳴に足を止める。悲鳴が聞こえた方を見ると、女が一人路地から飛び出してきて、慌てた様子でうろたえていた。女の周りにいた人々が、何事かと問いかけている。瑠璃が走るのをやめ、女に近づいた。
「しっ、死体が! 死体が動いてるのよ‼︎」
女の近くにいた人が、気が動転している女を落ち着かせようとなだめる。だが、女は喚き散らすばかりで話を聞かない。
「嘘じゃない‼︎ ころ、殺されかけたのよ‼︎ 早く逃げないと食い殺されるっ‼︎」
よく見れば、女の足から血が流れていた。噛み跡のような怪我が見える。瑠璃が訝しげな顔をして、女に声をかけようと近づいた。
「あの……」
その瞬間、女が飛び出してきた路地から、バタバタと騒がしい足音が聞こえてきて、瑠璃がバッとそちらの方を向く。路地から数人の人が走ってきていた。
「キャーッ‼︎」
女が慌てた様子で逃げ出したが、周りの人々は不思議そうな顔をして立ち止まったままだった。走ってきた人たちは、化け物でもなんでもなく、ただの人間に見えたのだ。
だが、瑠璃はその異様さに一早く気がついて、あたりの人々に向けて叫んだ。
「逃げろっ‼︎」
走ってくる人々は、その足取りがおぼつかない。ダラリと垂らされた腕はピクリとも動いていないのに、異常な速さで走ってきている。なにより、腐敗したような臭いが辺りに漂い始めていた。
異常に気がつき始めた人々が、瑠璃の一声で逃げ出した。瑠璃は荷物を放り出し、走ってきた人々に向かって走り出す。突進してきた人に蹴りを入れて何人かを蹴散らしたが、瑠璃をすり抜けて走っていった人が何人かいた。
「ギャァァァッ‼︎」
誰かの悲鳴に瑠璃が振り向く。後ろで逃げ遅れた人が、走ってきた人に食われていた。そこら中に血を撒き散らし、悲鳴が至るところで上がる。
「……なっ……」
その異様な光景に、瑠璃は思考が一瞬止まり動きを止めた。その後ろで、蹴り飛ばされた人たちがゆらりと起き上がる。
「⁈」
瑠璃がそれに気がついて振り返る。蹴り飛ばされたはずの人々は、フラフラと立ち上がり、その視界に瑠璃を捉えた。
生きているとは思えないほど青白い肌。焦点の合っていない目。ボサボサの髪。辺りに漂う腐敗臭。それはまるで、死人のような姿。
後ろから悲鳴が聞こえる。肉が噛みちぎられる音と、骨が砕ける音。後ろの惨状を見ないようにしながら、瑠璃の頬に冷や汗が伝った。
「……嘘だろ……」
猛者でもない、生身の人間でもない動く死体。あまりにも異様な敵に、瑠璃は困惑しながらも戦闘態勢に入った。
死体たちが瑠璃に向かって襲いかかる。瑠璃は汗を拭うと、突進してくる死体たちへと走りだした。
聞こえた悲鳴に、鈴凛が顔を上げた。人々がざわめいている。
「……なに……?」
壁に手をついて立ち上がると、辺りをキョロキョロと見回した。耳をすませば、至るところから悲鳴が聞こえてくる。
「……瑠璃……?」
悲鳴が聞こえた方向へと走り出そうとしたが、聞こえてきた声が鈴凛の動きを止めた。
「こんなに大騒ぎにする予定はなかったんだけど……」
よく耳にしていた、鈴の音のような澄んだ声。その声に、鈴凛が振り返る。
「ニケさんのお使いしに来ただけなのに……まぁ、お友達が増えるならいいかな」
隣に現れた姿に、鈴凛が大きく目を見開いた。
それは、鈴凛がずっと探してきた姿。愛しい人。
「でも、美麗さんに怒られちゃ……」
声の主が鈴凛に気がついて言葉を止めた。その金色の瞳に鈴凛の姿が映る。
「……リン……ちゃ……?」
鈴凛の瞳に映ったのは、紛れもなく実の姉、王凛の姿だった。赤いチャイナドレス。黒い髪。お揃いの金色の瞳。
鈴の音のようなその声が、何よりの証拠。
「……うそ……うそ……!」
王凛が口元を押さえて鈴凛を見つめる。
だが、鈴凛は姉の異様さに気がついていた。ほどけた髪で見えない右目。ほのかに漂う腐敗臭。青白い肌。まるで、人ではない何かのような異様な雰囲気。
「リンちゃ……‼︎」
王凛が固まったままの鈴凛を抱きしめた。鈴凛は混乱して動くことができない。胸が違和感で満ちていく。自分を抱きしめる姉の体温はなく、ただ冷たいだけ。
「よかった……! よかったぁ……! ずっと、ずうっと探していたの……! よかった……! 私、私……!」
鈴凛との再会を心の底から喜ぶ王凛は、鈴凛の瞳を真っ直ぐ見つめて、その顔に笑顔を浮かべる。涙ぐんでいるのか、その左目は潤んでいた。
「もしかしたら、リンちゃは死んでしまったんじゃないかって……!」
風が吹いて、王凛の髪がなびく。その瞬間、鈴凛の瞳に姉の右目が映って、鈴凛は声も出せず、ただ王凛の顔を見つめていた。
王凛の右目の眼窩にあるはずの、美しい金色の瞳は存在しなかった。かわりに、無数の眼球がその眼窩を埋め尽くしている。色も大きさもバラバラな眼球は、それぞれが意思を持っているかのように、辺りを見回すように動いているのだ。
「……? どうしたの? リンちゃ」
鈴凛は動けない。その顔には絶望の色が張り付いている。
ずっと探し求めた姉の姿。夢にまで見た優しい姉。もう一度会えるなら、死んでもいいと思っていた、大切な家族。
その姉はあまりに人間離れしていて。
「……そっか。混乱してるんだね。そうだよね。ずっと会えていなかったもの」
王凛が鈴凛を優しく抱きしめる。その体の冷たさに、鈴凛の瞳から一筋の涙が流れた。再会を喜ぶ歓喜の涙ではない。姉に向けた、絶望の涙。
「大丈夫。もう、大丈夫。いなくなったりしないよ。リンちゃを置いていったりなんてしない。これからは、ずっと永遠に、そばにいるから」
王凛の右目から、眼球が一つ地面に落ちた。その様子に、鈴凛が小さく悲鳴をもらす。地面に落ちた眼球は、一人でに動きだした。眼球からは虫のような足が生え、地面を歩きだしたかと思うと、王凛の体を伝って王凛の肩に登った。
「安心して。もう、死を恐れなくていいの。お腹がすくことも、痛い思いをすることもない。永遠に私と一緒にいましょう」
狂気的に笑う王凛は、その瞳に愛しい妹を捕らえていた。鈴凛の頭の中で警報が鳴り響く。実の姉を前にして、逃げろという警報が。このままでは殺されると。
だが、鈴凛の身体は動かない。
「私の大切なお友達、蟲さんがリンちゃを生かしてくれるから。永遠に生きて、ずっと一緒にいられる。なんてステキなの!」
目を輝かせる王凛。その肩で、蟲が怪しげに蠢いている。
鈴凛はなにも言えないまま、変わり果てた姉の姿にただ絶望するほかなかった。
◇
鈴凛と王凛が二人だけの世界に入り込む中、周りでは悲鳴が上がっていた。動く死体が人々を食い殺し、食い殺された人々の眼球に、王凛の蟲が入り込みその体を支配する。人で賑わっていた市場は、一瞬で地獄と化し、悲鳴と血の匂いが辺りに立ちこめていた。
大勢の死体に追いかけられ、逃げ回りながら瑠璃はリンネ本部に連絡していた。
「こちら瑠璃! タータン市場にて襲撃を確認! 至急、増援を頼む‼︎」
早口にまくしたて、振り返って後ろから迫りくる死体たちを見る。
頭がない者、腕がない者、下顎が外れた者。そのどれもが、その足を休めることなく、ありえない速度で走ってきていた。
「猛者よりたち悪いな……‼︎」
振り返りながら、後ろの方に見える足をなくして這いずっている者に気がついて、死体が再生しないことに気がついた瑠璃は、その場で体の向きを変え、迫りくる死体に向かって走り出すと、足をなぎ払うように義足の仕込み刃で死体たちの足を切り落とした。
死体たちがバランスを崩してバタバタと倒れる。その足が再生しないことを確認して、瑠璃がふぅと息をついた。周りの惨状を見て顔をしかめる。
瑠璃の足元に転がった、食い殺されたと思われる死体に、蟲が近づいていた。死体に入り込もうとして、瑠璃が気がついてその蟲を踏みつぶす。
「リンちゃ‼ どこ⁈」
瑠璃の声に返事はなく、瑠璃が鈴凛を探して走り出す。死体はまだ蠢いているが、逃げ惑う一般人の姿は見えなくなった。全員、逃げたか殺されて、走っているのは瑠璃しかいない。
「リンちゃ⁈」
走る瑠璃の視界が、二つの人影を捉えた。座り込んだ二人のうち、小さなほうは鈴凛だとわかる。だが、もう一つの方はその背に異様な雰囲気を漂わせていた。目が覚めるような赤いチャイナドレス。
瑠璃の声に気がついてその人影が振り返る。金色の目が瑠璃を捉えて、瑠璃の背中に悪寒が走った。
狂気的な歪んだ何か。
瑠璃は大きく飛び上がると、それの首元を狙って蹴り飛ばそうとした。
「やめてっ‼︎」
響いた悲鳴にも近い鈴凛の声に、瑠璃の狙いが狂う。王凛が腕で瑠璃の足を止めようとして、義足の仕込み刃で腕が飛んだ。
瑠璃が困惑した顔で鈴凛と王凛を見つめる。
「……リンちゃのお知り合い?」
王凛が瑠璃に笑いかける。飛んだ右腕の切断面からボタボタと血液が落ち、切れた腕がボトリと地面に落ちた。
「それにしては、挨拶が乱暴だけど……」
「……おまえ、何者だ?」
「私? 私はリンちゃ、鈴凛の姉の王凛です」
その言葉に瑠璃が大きく目を見開いて、鈴凛の方を見た。鈴凛はうつむいたままでなにも言わない。王凛の腕が再生していく。
「えっと……あなたは誰ですか? リンちゃの知り合いのようだけど……」
「……瑠璃。リンネ幹部の一人」
「リンネ?」
王凛はしばらく上を向いて考えた後、思い出したというように手を叩いた。
「あぁ! えっと、プシュケの邪魔をしている方々ですか! あれ? じゃあ、リンちゃも……あっ」
「⁈」
瑠璃の後ろから迫っていた死体が、瑠璃の肩に噛み付いた。瑠璃が死体を振り解いて、死体が地面に倒れる。
「あぁ! ごめんなさい! 私のお友達がなんて粗相を……!」
瑠璃が肩を押さえながら膝をつく。肩を押さえた手の間から、赤い血が流れた。
「リンちゃのお知り合いの方に怪我させるなんて……。ごめんね、リンちゃ」
死体からモゾモゾと蟲が這い出てきた。蟲は王凛の顔色を伺うようにしていたが、王凛がニコッと笑いかけると、王凛の身体を伝って登り、開かれた手のひらに乗る。そして、王凛はその蟲を握りつぶした。
「そっか……リンちゃはリンネにいたんだね。見つからないよね。当たり前だね。でも、そんなの関係ないもんね」
王凛の手の平からドロリとした液体が流れる。愛おしそうに妹を見つめ、その顔に満ち足りたような笑みを浮かべた王凛に、鈴凛は目を離すことが出来なかった。
「リンちゃがいるべき場所は、永遠に私の隣なんだから」
差し出された細くて青白い、人のものとは思えない手。王凛はその手に小さな手のひらが重ねられるのを待っていた。
鈴凛はうつむいて、小さく首を振った。
「……い」
「どうしたの? リンちゃ、さぁ、一緒に行こう?」
鈴凛の小さな声を聞き取ろうと、王凛が顔を近づける。それを跳ね除けるように、鈴凛の叫び声が辺りに響いた。
「こんなのねね様じゃないっ……‼︎」
泣き声のように震えた叫び声と、今にも泣き出しそうな、歪んだ鈴凛の顔に、王凛が驚いたように一歩後ろに退いた。意味がわからないというように困惑した顔をして、差し出していた手で右目を押さえる。
「ど……どうして……? リンちゃ! 私だよ⁈ あなたのね……」
瑠璃が王凛の足をなぎ払い、両足を切断された王凛がバランスを崩して倒れる。地面に体を打ち付けられて、王凛が瞳だけを動かして瑠璃を見た。
「……邪魔をするの? 私はリンちゃと一緒にいたいだけなのに? 永遠に、リンちゃと笑っていたいだけなのに? それだけなのに? それ以外求めないのに? あなたは私たちの邪魔をするのね?」
王凛の右目にいた蟲たちが一斉に地面へと這い出た。王凛の右目にはどこまでも闇が続く空洞だけが残る。蟲は地面を這い、それぞれが一匹ずつ、転がった死体へと潜り込んだ。死体たちがむくりと起き上がる。
「そんなの、許さない」
王凛が上半身を起こし、切断された足が再生していく。鈴凛は頭を抱えて、おぼつかない足取りでフラフラしていた。今にも倒れそうなほど顔面蒼白で、目を見開きながら冷や汗を流し、口元で何かを呟いている。
その瞳には、もう何も映らなかった。
王凛が再生したばかりの不完全な足で立ち上がる。少しよろめいて、右目を押さえて笑い出した。
「あはは、ははっ。あはははははっ‼︎」
王凛のあまりに狂気的な姿に、瑠璃は硬直して動けなかった。鈴凛の姉とは思えない、信じられない姿。
「邪魔させないっ‼︎ 邪魔させるものかっ‼︎ もう、誰にも奪わせないっ‼︎」
死体が一斉に動き出す。伸ばされた無数の手が、瑠璃に襲いかかる。狂ったように笑い声を響かせる王凛。
瑠璃が肩を押さえながら身をひるがえし、死体を避けようとして、他の死体に腕をつかまれた。瑠璃の顔から血の気が引く。
その瞬間、辺りに何発かの銃声が響き渡った。
瑠璃の連絡で現場に駆けつけたリンネの部隊が死体を撃ち抜き、何体かの死体が倒れた。瑠璃の腕を掴んだ死体が倒れ、瑠璃がその死体が伸ばした腕を踏みつぶす。
「足を狙えっ‼︎ 動きを止めろ‼︎」
瑠璃の声に部隊の人たちが死体の足を狙って撃ち抜く。足を撃たれた死体は、地面を這いずって獲物を探した。
「……あぁ……そう……そうなの……邪魔をするの……そう……」
倒れていく死体を見て、王凛かふらつきながら呟いた。今にも倒れそうな鈴凛の方を向いて、またその手を伸ばす。
「リンちゃ、リンちゃ……! 一緒に行こう? 一緒に、これからずっと一緒に……!」
鈴凛が虚な目でその手を取るよりも早く、瑠璃が後ろから鈴凛を抱きしめた。その瞬間、鈴凛の身体の力が抜け、瑠璃に寄りかかる。
王凛が酷く傷ついた顔をして、気絶した鈴凛を見つめた。部隊の銃弾が、王凛の腕に当たって穴があく。
「……ごめんね、ごめんねリンちゃ。必ず、迎えにいくから。必ず」
蟲が死体から抜け出して、王凛の元へと集まっていく。それを見ていた部隊の人たちが、口々に悲鳴を上げた。「気持ち悪い」「化け物だ」そんな言葉は王凛の耳には届かない。王凛の瞳に映るのは、愛しい妹の姿だけ。
蟲が王凛の体を登り、その眼窩に戻って、王凛は妹に向かって優しげな笑みを浮かべた。
「もう、離さないから」
鈴凛に向かってそう言うと、王凛は踵を返して元来た通路へと走って行った。部隊が王凛を追いかけて通路に足を踏み入れる。途端に狭い通路に黒い壁がそびえ立ち、部隊の侵入を防いだ。壁は叩いても銃弾を撃ち込んでもびくともせず、よく見れば、その壁は無数の髪でできていた。
気絶した鈴凛を、瑠璃が悲しそうな顔をして見つめる。か弱い息をして、青白い顔をした鈴凛をギュッと抱きしめた。
鈴凛の身体は小さく、瑠璃の体に隠れてしまう。
その儚さに、瑠璃は強く唇を噛みしめた。その瞳から一粒の涙が落ちる。
部隊は懸命に王凛の姿を探したが、王凛は忽然と姿を消していて、残ったものは赤く染まった市場だった場所だけだった。
◇
リンネ本部に帰った瑠璃は、王凛のことを美萌草だけに話した。話を聞きながら美萌草の顔はみるみる青ざめていき、話を聞き終わると美萌草は瑠璃にすがりついた。
「……そんな……嘘でしょう……? そんな……そんなこと……ねぇ、瑠璃……」
瑠璃は険しい顔をしながら、力なく首を横に振る。美萌草は手で口元を押さえて「嘘……」と震えた声で呟いた。
「そんな……そんなっ……」
美萌草が顔を覆いながら座り込む。その肩は小さく震えていた。
「どうして……どうして……⁈ どうして、あの子がそんな……! 何をしたと言うの……⁈どうしてそんなに重たいものをあの子に背負わせるの……⁈」
涙声で訴える美萌草に瑠璃は何も言えない。唇を噛みしめて、握りしめた拳が震えている。
「……私は……私には……あの子を慰めることができない……」
美萌草の瞳から涙が流れる。瑠璃がその言葉に驚いて、美萌草に問いかけた。
「どう……して?」
「……ごめんなさい……ごめんなさい。私には無理なの、できないの。お願い、瑠璃……あの子を救えるのは、きっとあなただけ」
「なんで……」
美萌草は涙を拭って立ち上がると、決意したように瑠璃の目を真っ直ぐ見つめた。
「全て……全て話すわ、みんなに。だから、お願いよ、瑠璃。私にはあの子を慰める資格なんてないの」
「……僕は臆病なんだ。すぐ逃げてしまう。そんな僕が、リンちゃを救うことはできないよ……」
「いいえ。あの子に必要なのはあなた。あなたに必要なのはあの子。それだけで、十分なの」
美萌草が瑠璃を抱き寄せて、優しくその頭を撫でる。美萌草より身長が高くなった瑠璃は、幼かった頃のようにじっとして美萌草に抱かれていた。
「あなたは前に進んでる。臆病なんかじゃない」
美萌草は瑠璃を離すと、優しくその背中を送り出す。瑠璃は不安げな顔をしながらも、美萌草に見送られて去っていく。瑠璃の姿が見えなくなり、残された美萌草は一人、その場に泣き崩れた。
「……ごめんね……」
美萌草の深緑の瞳から大粒の涙が溢れる。顔を覆いながら、美萌草の口から漏れる声は震えた弱々しいものだった。
「……責めてくれていいの……こんな……こんな汚れた私が……人であってはならないのだから……」
悲しげな美萌草の声は誰の耳に届くことはない。溢れた涙を拭うこともできず、落ちた涙は床を濡らした。小さく体を震えさせながら、声を押し殺して唇を噛み締める。
血が滲むほど唇を噛みしめて、美萌草の口から血が流れ出た。涙と共に床に溢れて、赤いシミができる。だが、美萌草の傷は再生して、血は止まった。
「……ふふっ……」
泣きながら笑い声を漏らして、美萌草は自分の頭を抱えてうずくまる。髪がグシャグシャになるのも気にせず、小さく、小さく身体を丸めて、自分の存在を否定するように涙を流した。
◇
リンネ本部。真っ白な廊下を、あからさまに不機嫌な美麗と美麗の様子に困ったような顔をした王凛が並んで歩いていた。
「私に無断で外に行ったうえに、あんな大騒ぎを起こしてどういうつもりなのかしら? 私が行かなかったらどうしていたの?」
「ご、ごめんなさい、美麗さん……。ニケさんにお使いを頼まれていたので……」
「ニケ?」
「おい」
歩いていた二人の後ろからニケが音もなく現れたて声をかけた。美麗が不快そうに顔をしかめる。
「あ、ニケさん。すみません……頼まれていたもの買って来れませんでした……」
「はぁ?」
「黙りなさい、ニケ。あなた、また王凛に何か命令していたの? 私になんの断りもなく?」
「うるせーな。そいつはお前の所有物じゃねーだろ」
「あなたの物でもないわ」
「あ、あの……」
言い合いを始めた二人に王凛が止めに入ろうとする。だが、二人の言い合いは更に激しくなるばかり。
「そもそもいったいなにをこの子に頼んでいたの?」
「関係ねーだろ」
「教えなさい」
「……市場の串焼き」
「はぁ?」
美麗がニケを馬鹿にするように鼻で笑う。
「あなた、教祖様の恩恵を受けて人間を超越したのにも関わらず、まだ食事なんて愚かしい行動をして、更にそんな低俗な物を食しているというの? そして、それをこの子に買わせようとしていたと?」
「うるせー女だな」
「あぁ!なんて愚かしい‼︎ そんな輩と同じ空間にいるだけで私が汚れてしまうわ‼︎ 近づかないで‼︎」
「あぁ‼︎ うるせーっ‼︎ お前、いい加減にしろよ‼︎」
「あの‼︎」
今にも美麗に掴みかかりそうだったニケが、声を張り上げた王凛に驚いて動きを止めた。
「あの……私、お二人の喧嘩に構ってる余裕ないので、もう行きますね?」
「あ、あぁ……」
「え……ちょ、ちょっと待ちなさい!」
二人に背を向けて歩いていこうとした王凛を、美麗が慌てて引き止める。置いて行かれたニケは疲れた顔をして立っていた。
「王凛! いったいどこにいくの?」
「リンちゃ……妹のところへ」
「妹? あぁ、ずっと探していた……」
王凛が顔に笑顔を浮かべて大きく頷く。輝かしい王凛の笑顔に、美麗が面食らったような顔をする。
「はい! ようやく見つけたんです……! そして、約束したんです、必ず迎えに行くって……!」
「そ、そう……」
「待ってくれてるんです! 私のこと……! だから、早く行かないと……!」
「いいえ。行かせないわ」
美麗の言葉に走り出そうとしていた王凛が止まった。目を見開いて美麗を見つめる。
「どうして……? 美麗さんも邪魔をするんですか…?」
「違うわ。あなた馬鹿ねぇ……あんな大騒ぎ起こしてすぐ動いたら、リンネに見つかっておわりよ。しばらく大人しくしてなさい」
「でも……!」
「うるさい。ここにいなさい」
美麗に冷たく言い放たれて、王凛が口をつぐむ。あきらめず美麗に反論しようとして、美麗の気迫にトボトボと歩いて行った。
美麗は去っていく王凛を見つめて、反対方向に歩き出す。壁にもたれて立っていたニケに、顔をしかめた。
「よくやるねぇ……そんなに心配か?」
「黙りなさい。男と口を聞くつもりはないわ」
「母親面もほどほどにしろよ」
美麗がニケの言葉を無視して歩いていこうとする。それを追いかけてニケが歩き出した。
「でもよぉ、見つけた妹殺して、あいつのお友達? と同じことにするんだろ? 死体と一緒にいて楽しいのか?」
「……自分の隣で朽ちずにいてくれたらそれでいいのよ。きっと」
「馬鹿げてるな」
「男といるのは不快よ。去りなさい」
冷たく言い放たれたニケはヘラヘラと笑いながら去っていった。
美麗はニケのことなど気にもせず、そのまま歩いていく。しばらく歩いて立ち止まり、王凛が去って行った方を見つめた。ふぅと息をつくと、また歩き出す。
しばらく歩いてまた立ち止まり、身体の向きを変えると向かっていた方向とは逆の方向へ歩き出した。不機嫌そうな顔をしながら、王凛の後を追いかけて行く。
その様子を影から見ていたニケが薄ら笑いを浮かべて、美麗の背中に吐き捨てるように言った。
「愚かしいのはどっちかねぇ……母親面の化け物が……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます