第11話 皮肉の音色 その一
ただ幸せだった。ずっと続くと思っていた。大切な人たちと幸せに生きて、幸せなまま終わるんだってそう思っていたのに。
私は知らなかった。その幸せが薄くて脆いガラスの上に乗っていること。少しの衝撃で簡単に崩れてしまうこと。
壊れたものは戻らない。どんなにかけらを集めても、それが綺麗に戻ることはなく、どこか一つは欠けている。それは歪みになって広がって、どこかで道を踏み外した。
いったいどこで間違えたのか。そんなもの私にはわからないけれど、きっと幸せが永遠だと思っていた時から間違っていた。
だって、世界はこんなにも残酷なのに。世界はいつだって牙を向くのに。
響いた音色は歪んでいる。弾んだ音は再現不可能になって、修復もできない。
◇
美しく整備された庭園で、太陽に照らされながら散歩をしている昼下がり。足元に小さな花を見つけて、しゃがみ込んだ。小さくて可憐な黄色の花。
「リンちゃ」
聞こえた声に顔を上げる。私に手招きする二人の姿。愛しい私の大好きな人たち。
私は慌てて駆け出して、自分の足に引っかかってつまづきそうになりながら、二人の元へと走って行く。広げられた腕の中に飛び込んだ。
「あのね、かか様! ねね様! 知らないお花を見つけたよ! 見たことないお花!」
「あら、どんなお花?」
私の頭を撫でながら、私に抱きしめられているかか様が問いかける。かか様の青いチャイナドレスからお日様の香りがした。
「小さいお花! 足元にあったから、いままで気づかなかったの」
「あ、私わかったよ」
そう言うとねね様は駆け出して、庭園の中へと向かって行く。ねね様は何かを見つけたようにしゃがみこんで、立ち上がって私とかか様に手を振った。その手には、私がさっき見つけた小さな花が握られている。
ねね様が走って戻ってきて、私の目の前で摘んできた花を渡してくれた。
「これでしょ?」
ねね様の金色の瞳に同じ金色の瞳をした私が映る。黄色い花はねね様の赤いチャイナドレスによく映えていた。
「これね、菫っていうの。花言葉は……」
「小さな幸せ」
かか様が私のことを抱きしめる。私に頬をすり寄せて、かか様からふわりといい香りがした。
「まるでリンちゃみたい!」
「そうだね。リンちゃみたいにかわいいお花!」
ねね様が私とかか様に抱きついてきて、三人で笑い合う。かか様が嬉しそうに私とねね様を抱き寄せて、頬ずりをした。
「私の可愛い、可愛い、小さな幸せ! うふふ。二人とも大好きよ!」
「私も! 私も大好き!」
「私も!」
私の手の中で花が小さく揺れている。大好きな二人の香りに包まれて、幸せな時が流れた。暖かくて私の大好きな時間。
夕方、ねね様が渡してくれた花を手に、自室で植物図鑑を広げて、花について調べていた。菫という小さな花は、写真越しでもその愛らしさがよくわかる。窓から差し込む光で、手にした小さな花を照らすと、黄色い花弁はキラキラと金色に輝いた。私とねね様の瞳のような、綺麗な色。
「リーンちゃ」
振り返ると、ねね様が嬉しそうな顔をして私を見ていた。
「そのお花、気に入ったの?」
「うん! 可愛いから」
ねね様が部屋に入ってきて、私のことを抱きしめる。頬ずりをしてくるねね様に、くすぐったくて身体をよじった。
「ねね様、くすぐったい!」
「え〜? だってリンちゃ可愛いんだもん!」
ジャレついてくるねね様と一緒にはしゃいでいると、かか様の声が聞こえてきた。
「二人とも〜そろそろパパが帰ってくるわよ〜。お出迎えしなさ〜い」
「は〜い」
二人で返事を返して、顔を見合わせて笑ってから部屋を出た。玄関まで出て行くと、とと様はもう帰ってきていて、私とねね様の姿を見ると柔らかく笑う。
「ただいま。愛しい娘たち」
「おかえりなさい!」
私が抱きつきに行くと、とと様は私のことを抱き上げた。
「リンちゃ、聞いたぞ〜。また学校のテストで満点を取ったんだってなぁ! 偉い、偉い!おまえは本当に頭がいいなぁ! 私に似たんだな!」
「ううん。かか様に似たの」
「ん〜? 聞こえないなぁ〜?」
とと様が私をギューッと抱きしめて頭を撫でた。とと様の大きな手は暖かくて、とても優しくて安心する。
「それと、お姉ちゃんは歌で賞を取ったんだって?」
「たまたまだよ」
「またそんなこと言って! おまえはもうちょっと自信を持て! なんてったっておまえは私の娘なんだからな!」
「ふふっ。そうだね」
とと様がねね様を抱き寄せて、ねね様が嬉しそうに笑う。私たちの頭を撫でながら、とと様は本当に嬉しそうに顔に笑顔を浮かべた。
「おまえたちは私の自慢の娘たちだ! 生まれてきてくれてありがとなぁ!」
「ちょっと〜三人とも〜夕飯が冷めますよ〜」
かか様が顔を出して、わちゃわちゃしている三人に頬を膨らませた。
「まぁ! 私を除け者にしてなにしてるの?」
「ただいま、
「おかえり、あなた。ほら、夕飯が冷めてしまうわ! 行きましょう?」
かか様がとと様の手を引いて、私はとと様に抱き上げられたまま連れて行かれた。
温かい夕飯を家族全員で話しながら食べる。とと様は久しぶりの家族との食事が嬉しいのか、ずっと顔に笑みを浮かべながら沢山のお話を聞かせてくれた。
夕食が終わったら、とと様のお願いで、ねね様が月琴を弾きながら、お歌を歌ってくれた。
ねね様はとてもお歌が上手。その声はまるで鈴の音色のように透き通っていて、紡がれる言葉一つ一つが弾むように色をつける。
ねね様が得意なのはお歌だけじゃない。楽器は少し練習しただけですぐに弾けるようになってしまうし、ねね様が描いた絵はとても綺麗で幻想的。
私はそんなねね様が大好きだった。でも、ねね様みたいな才能はないから、かわりにお勉強をがんばった。そうしたら、ねね様もかか様もとと様も褒めてくれるから。偉いねって、喜んでくれるから。
ねね様の綺麗な歌声を聴きながら、とと様とかか様は嬉しそうに微笑んでいる。ねね様も楽しそうに歌を歌っていた。
私の視線に気がついて、かか様が微笑みながら私に手を伸ばした。かか様の腕の中で、この時間が永遠に続けばいいと、いつものように思っていた。
◇
「リンちゃ、子守唄を歌ってあげる」
夜、ねね様と眠る準備をしていると、ねね様が私に腕を広げて呼びかけた。
私は毎晩、ねね様が歌ってくれる子守唄が大好きだった。静かな夜に、ねね様の透き通った声が響いていく。
「ねね様、私、ねね様のお歌がとても好き」
「そう? ありがとう。私もね、リンちゃが大好きなの」
ねね様が優しく私の頭を撫でる。その体温が眠気を誘って、ウトウトと目を瞬かせた。
「リンちゃは私の知らないこと、たくさん教えてくれるから。お姉ちゃんよりも賢いもんね」
ねね様の優しい声。鈴の音のようなその声と、光り輝く金色の瞳はとても美しい。
「そろそろ寝ようか。明日はなにする?」
「ねね様とならなんでもいい」
「ふふっ。そうだね。おやすみ、リンちゃ。いい夢を見てね」
ねね様の体温を感じながら、ゆっくりと目を閉じて眠りについた。
明日はなにをしようか考えながら、家族と一緒ならばそれでいいと、この温かい体温を感じられるならそれでいいと。
そう、思っていたのに。
夢を見続けていたかった。ねね様の声に包まれながら、夢の中を彷徨っていたかった。夢の内容は覚えていないけれど、それはとても幸せな夢だったと思う。
おぼろげな記憶の中で、聞こえたねね様の歌が耳に残っていた。
その幸せな夢から覚めた時、全てが壊れる音がする。
騒がしい物音で目を覚ました。外はまだ暗くて、真夜中であることがわかる。私の隣でねね様はスヤスヤと眠っていた。
部屋の外が騒がしい。人の話し声が聞こえる。とと様とかか様がお話ししているのかと思ったけれど、それにして人数が多い気がして。
なぜか胸騒ぎがする。嫌な予感で鳥肌が立って、慌ててねね様をゆすり起こした。
「ん〜? どうしたの、リンちゃ……」
ねね様が目を擦りながら、眠そうに起きた。
「ねね様、なんだかおかしいの。胸騒ぎする」
「胸騒ぎ?」
ねね様が物音に気がついたのか、耳を澄まして押し黙る。
「……外、見に行く?」
「……うん」
ねね様と手を繋いで、静かに部屋の扉を開けてみた。家の中は真っ暗で、それなのにどこからか物音がする。
嫌な予感はざわざわと胸を覆って、この先に進んではいけないと、頭の中が警報を鳴らしていた。
「……リンちゃ?」
「……ねね様……怖いよ……」
「……大丈夫。私がついているから。さぁ、かか様ととと様の部屋に行ってみよう? そうしたら、もう安心だから」
ねね様に手を引かれて、真っ暗な家の中を歩いて行く。ねね様と繋いだ手が汗ばんでいて、ねね様も怖がってることがよくわかった。
廊下から、わたしとねね様以外の足音が聞こえて、私はとっさにねね様の手を引っ張って棚の影に隠れた。もしかしたら、かか様かとと様だったかもしれない。だけど、なぜかその考えは頭の中から消えていて。ねね様が私の行動に困惑したような顔をしている。
「人はいたか?」
聞こえてきた知らない声。漏れそうになった悲鳴に、とっさに口を塞いで堰き止めた。
誰? とと様でもかか様でもない、恐ろしい男の声。
「いや、見つからない」
「子供がいるはずだ。あと、金目のものを持っていっておけ」
「暗すぎて見えませんよ。電気つけていいです?」
「馬鹿いうな、警備に気づかれる」
「子供を見つけろ。見つけ出して」
握ったねね様の手がカタカタと震えていた。
「殺せ」
重く暗く響いた言葉。この男たちは誰なの? かか様ととと様はどこにいるの?
この男たちはなにをしようとしているの?
ねね様の顔は暗くて見えない。私は口を塞いだまま震えるしかなくて、ねね様が私のことを抱き寄せた。
足音がどんどん近づいてくる。ねね様がギュッと私を強く抱きしめた。
棚の影で見つからないことを祈りながら、ねね様の胸の中に顔を埋めて目を閉じる。足音と話し声がすぐそこまで来ていた。
「おい! 子供部屋だ!」
聞こえた声に、近づいてきていた足音がバタバタと離れて行く。ねね様が私の手を引いて立ち上がった。
「リンちゃ、早く!」
ねね様に手を引かれて、廊下を走る。ねね様がどこに向かっているのか言われなくてもよくわかった。だけど、私は、私はどうしても、その場所には行きたくなくて、立ち止まった。
「⁈ リンちゃ?」
「……ねね……様……」
私の瞳からは涙が溢れていた。どうしようもなく怖くて、私の足は動かない。
「どうしたの、リンちゃ。早くしないと殺されちゃう……!」
「……行きたく……ないよ……!」
「ダメだよ、リンちゃ……! 大丈夫! 大丈夫だから! かか様ととと様のところに行けば、きっと……!」
ねね様の声が震えていて、ねね様も涙を流していることがわかった。ねね様も怖くてたまらないんだって。でも、でも、胸騒ぎがする。嫌な予感がする。
「……行こう、リンちゃ」
ねね様が私の手を引っ張って、無理やり私を連れて行く。私は無気力に、ねね様に連れて行かれるがままに歩いて行った。
◇
かか様ととと様の寝室の前について、ねね様が音を立てないように扉を開ける。
その瞬間、鉄の生臭い臭いが溢れて、私は思わず鼻を塞いだ。部屋の中は暗くてなにも見えない。
「……とと様? かか様?」
ねね様が声を潜めて呼びかける。返事はない。ベッドの上に、月明かりに照らされて、二人の姿がぼんやりと見える。
ねね様がそっとベッドに近づいて、その様子を覗き込む。二人の姿が薄暗がりの中で、月明かりに照らされた。
大きく見開かれた目、ベッドのシーツを染める赤黒い何か。
「⁈」
ねね様がその姿を見て、大きく尻餅をついた。私はなにも言えずに、ただ立っていた。かか様ととと様の首から流れる赤い液体。ベッドから床に流れて溜まっている。
「……とと様……?」
ねね様が立ち上がってとと様の身体を揺らす。とと様はピクリとも動かず、首がゆらゆらと揺れるだけ。私はまるで、夢を見ているかのように、その光景を見ていた。
ねね様がとと様にすがりつくように、その身体を揺らすのを。かか様が生気のない目で、その様子を見ているのを。
「……あ……」
ねね様が呟いて、とと様から手を離した。その手にはベッタリと赤い血がついていた。
「いやぁぁっ‼︎」
ねね様の叫び声で我に帰る。
かか様ととと様は殺されていた。二人を殺したのはきっとあの男たち。そして、今のねね様の声で、男たちは私たちの居場所がわかったはず。
「うそ……! うそ……!」
ねね様が頭を押さえて座り込みながら何度も何度も同じことを繰り返している。私はねね様にかけよって、震えるねね様の身体を揺さぶった。
「ねね様‼ 逃げないと‼ 殺される‼」
ねね様の耳には私の声が聞こえていないのか、ブツブツと呟きながら震えるだけ。部屋の外からバタバタと足音が聞こえる。男たちが来たんだ。
「ねね様‼︎」
私がねね様の手を引っ張ると、ねね様はよろめきながらかろうじて立ち上がってくれて、私は部屋の窓を開け放った。下には茂みがある。ここは二階、茂みがあっても怪我をするかもしれない。
でも、このままじゃ二人ともあの男たちに殺される‼
「ねね様、早く‼」
ねね様の腕を引いて、覚悟を決めて窓から飛び降りた。フワリと地面がなくなって、落下する感覚。その瞬間、ガサガサガサッと耳元で音がして、腕や足に小さな痛みが走った。
茂みに落下した私たちは、至る所にかすり傷や切り傷を作ったけれど、二人とも大きな怪我はしなくてすんだ。
安心している暇もなく、二人で手を繋いで逃げ出した。
どこに逃げたらいいかなんて、二人ともわからない。ただ、逃げなくてはと思った。
そうしないと殺される。
殺されたとと様とかか様の顔が頭に張り付いて離れなかった。それを追い払うように、ねね様の手を強く握って、決して離さないように二人で走った。
温かいねね様の手の温度を感じながら、私の瞳からは涙が溢れて止まらない。頭の中で、どうして? という言葉がこだました。
どうして、二人が殺されたの? 私たち家族がなにをしたというの?
知らない。わからない。どうしたって、二人は帰ってこない。
優しい手の温度も、優しい声も、もうこの世界には存在しない。
後ろから、ねね様の泣き声が聞こえて、私の涙は止まらなかった。
◇
家から逃げ出して数日が経った。私たちは、おそらく貧困地と呼ばれる場所の路地裏で、息を潜めて生きていた。
とと様から聞いたことがある。
この国では数年前まで戦争が起こっていて、たくさんの行き場のない人や、戦争で親を亡くした子どもがいる。そういう人たちが集まって細々と生きているのが、貧困地と呼ばれる場所だと。劣悪な環境で、死んだ人がたくさん転がっていて、お医者様のとと様は、そういう人たちを救いたいんだって私に語ってくれた。
私たちはそんな場所で、うずくまって生きていた。
ねね様の手を握りながら、たくさんのことを考えた。これからどうしたらいいのか、どうやって生きていけばいいのか。答えなんて見つからなかった。
それでも、少し考えてわかったこともある。
とと様とかか様を殺したのは、おそらく最近貴族の間で言われていた強盗だ。貧困地の人々が、貴族の家を襲撃し、金品を奪っていく。死人が出ているとも聞いていて、かか様が警備を増やそうか悩んでいた。
私は、戦争なんてとと様から聞くまで知らなかった。なにも知らないで、ただ平和に幸せに生きていた。だけど、戦争の余波は間違いなく私の元にも届いていたのだと、貧困地に来て理解した。
戦争が確かに身近に近づいていることを示す大きな傷痕。歩きながらたくさん見た、人の死体。腐ったような何かの臭い。
ねね様はあの夜から一言も言葉を発さない。虚な瞳で座り込んで、私が声をかけても反応してくれないことが多々あった。なにも見えていないような、聞こえていないような様子で、ただ息をしている。
そんなねね様を見ながら、私がしっかりしなければと、何度も心を奮い立たせた。どんなに涙が出そうでも、決して泣かないと心に決めた。ねね様を守れるのは、私だけだから。
何日か雨が降った。冷たい雨は私たちの体温と体力を奪って、お互いに身を寄せながら、なんとかそれを耐え凌いだ。
温かかったねね様の手は氷のように冷たくなり、日に日に顔色は青白く変わる。
その様子に、このままではいけないと私は立ち上がった。
助けてくれる人を探さないと、ねね様が死んでしまう。もう、これ以上家族を奪われるのは嫌だった。私の大好きな家族。なによりも守りたかった家族。
ねね様だけは、絶対に奪わせない。
立ち上がった途端、酷い目眩がしてよろめいた。ここ何日もなにも口にしていない。身体はとっくに悲鳴を上げて、無理だと叫んでいる。
それでも、無理やり身体を動かして、私はねね様に明るく声をかけた。
「ねね様、私、助けを呼んでくる。だから、ここで待っていて。必ず、戻ってくるから」
「……」
ねね様はなにも答えてくれなかった。もう、答えるだけの力も残っていないのかもしれない。急がないと、ねね様が死んでしまう!
動け動けと念じても、私の足は思うように動かない。壁に手をついて、身体を支えながら歩くので精一杯。それでも、歩くしかなかった。ねね様を殺さないために。
誰か助けて。
泣きたかった、本当は。声を上げて泣いてしまいたかった。でも、泣いても助けてくれる人はいない。私が泣き出すたびに優しく頭を撫でてくれる家族はいない。
だから、私は泣かない。泣いても何も解決しないから。
歩き続けて空が暗くなった。歩いても、歩いても、見つかるのは死んだ人が転がっている姿。生きている人は見つからない。生きていても、その人自身に助けが必要で、もう息も絶え絶えだった。
もしかしたら、私は全然前に進んでいないのかもしれない。そう錯覚しているだけで、本当は全く歩けていないかもしれない。
そう思うと、身体の力が抜けた。あ、ダメだ。そう思った時には足に力は入らなくて。
私、頑張った? もう、とと様とかか様の元へ行っても怒られない?
だって、もう身体が動かないの。
「危ないっ‼︎」
誰かの声が聞こえて、体がフワリと宙に浮いた感覚がした。
違う。誰かが私の身体を支えていた。
「あっぶない……。ねぇ、あなた大丈夫? 立てる?」
優しい声がする。まるで、かか様みたいな優しい声。その人は私の身体を支えて立たせてくれた。
赤茶色の短い髪に、深緑の瞳をした女の人。貧困地ではありえない綺麗な服を着ていて、汚れてもいなかった。
「あら? あなた質の良い服着てるわね。貧困地育ちではないのかしら?」
女の人の姿に、私はしばらく頭が働かなくて、黙り込んだまま立ちすくんだ。そして、ねね様のことを思い出した。そうだ、ねね様。ねね様を助けなきゃ!
「……てっ……!」
自分の声が思った以上にかすれていて驚く。女の人は私の声を聞き取ろうと、耳を近づけてくれた。
「助けて……‼」
その言葉とともに涙が溢れ出した。これまで我慢していたものが一気に溢れ出して、止まらない。
「ねね様がっ……! ねね様が死んじゃうっ……‼︎ お願いっ……! お願い、助けてっ……!」
「大丈夫よ、落ち着いて。誰か、大切な人がいるのね?」
女の人は真剣な顔で私のメチャメチャな言葉を聞いてくれた。私は大きく頷いて、女の人の服を掴むと、そのまま引っ張って女の人をねね様の元へ連れて行こうとする。女の人は私に引っ張られるまま、私について来てくれた。
この人なら、ねね様を助けてくれる。ねね様は死なない。これ以上、私の家族が奪われることはない!
さっき、完全に力が入らなくなったはずの足は、軽やかに動いて私は走り出した。ねね様が助かる。そして、またあの幸せな日々を取り戻すんだ。
角を曲がる。そうしたら、そこにねね様が座り込んでいるはずだった。
「……え……?」
そこにいるはずのねね様の姿はなかった。何も残されていない。虚な顔をしていたねね様も、ねね様がいた痕跡さえも、なにもかも。
「どうしたの?」
女の人が私に問いかける。私の頭は働かない。
どうして、どうして⁈ ねね様に待っていてと言ったはずだ。必ず戻ってくるからと。
もしかして、帰りの遅い私を心配して探しに行ってしまったの? そして、入れ違いになった? あの、今にも死んでしまいそうだったねね様が?
「ここにいたの? あなたの大切な人」
女の人の問いかけに、真っ白になった頭で頷いた。ここにいたはずなのに。ここにいるはずなのに。
「大丈夫。きっと近くにいるわ。一緒に探してあげるから、落ち着いて」
目の前は真っ暗だった。女の人の声も聞こえないほど。
何か重たいものがのしかかったように、私の身体は崩れ落ちた。意識が遠のいて目の前が暗くなる。耳元で女の人の声が聞こえたような気がした。
◇
目を覚ましたら、私は暖かいシーツに包まれていた。その温かさに、まだぼんやりとする意識の中で、あぁ、きっと夢だったんだなって、そう思った。
かか様ととと様が死んでいるわけないじゃない。あの幸せな家に強盗なんかが来るわけないじゃない。ねね様が私を置いていくわけがないじゃない。
そう、きっと全部夢だった。このベッドから出たら、いつものように私の家族が笑っていて、優しい声で私の名前を呼びながら抱きしめてくれる。苦しいのも悲しいのも、世界が見せた幻だ。
だって、そうでしょ? そんなわけないでしょ?あれが全て現実なんて、そんなこと……。
視界が鮮明になって、見え始めた見慣れない天井。私の知らない部屋。
あぁ、現実だ。これは紛れもない現実。
私の部屋。ねね様と過ごした温かい部屋はもうない。とと様とかか様ももういない。
そして、ねね様も姿を消した。
重たい身体を起き上がらせて、辺りを見回す。見覚えのない部屋。いったいどこだろう? 頭が痛い。
たしか、ねね様の姿が消えて、私は意識を失って、それから? あの女の人はどこに行ったの?
「あら、目が覚めたのね」
不意に聞こえた声の方を向くと、そこにはあの女の人がいた。女の人は私に近づいてくると、私の顔にそっと触れる。その温かさに、涙が出そうになった。
「うん。顔色もだいぶ良くなったわね。よかった」
優しく私の頭を撫でて、女の人の深緑の瞳に私が映っている。
「……あのね、あの後、あなたが倒れた後、あそこの周辺を探してみたの。でも、あなたの大切な人らしき人はいなかったわ」
その言葉に私は頭を殴られたような衝撃に見舞われた。
ねね様はどこに行ったの? あんな状態で、どこに行ってしまったというの?
ねね様のことだから、私を心配してどこかに探しに行ってしまったのかもしれない。そして、どこかで冷たくなって……。
涙が溢れ出した。自分の顔を伝って、冷たい液体が流れていく。
私のせいだ。私がねね様を置いて行ったりしたから。一緒にいればよかった。ずっとずっと一緒にいればよかった。どうして置いて行ってしまったの? なんて愚かだったの?
ごめんなさい。ごめんなさい、ねね様。
「大丈夫。大丈夫よ。まだ、死んだとわかったわけじゃない。私も探すわ。だから、泣かないで」
女の人が私を優しく抱きしめた。その温かさはかか様のようで、その優しさはねね様のようで、私は声を上げて大泣きした。大泣きしながら、女の人に今までのことを話した。
辿々しい言葉で、顔を涙でぐちゃぐちゃにしながら、自分でもなんて言ってるかわからない。それでも、その人は頷きながら、私の話を聞いてくれた。
「頑張ったね。偉かったね。もう、大丈夫」
そうして、私はリンネに入ることになった。女の人、美萌草さんは私に優しく接してくれて、その姿にかか様の面影を感じていた。その優しさにすがっていた。
どんなに探しても、ねね様は見つからなかった。美萌草さんも協力してくれて、それでもねね様の痕跡さえ見つけることができない。まるで、元々ねね様なんて存在がいなかったというように、世界はねね様の痕跡を消してみせた。
何度も何度も声を上げて泣いた。美萌草さんに泣きついて、何度も慰めてもらった。そうでもしないと、壊れそうだった。
ねね様がいなくなったのは私のせい。ねね様が消えたのは私のせい。
美萌草さんは違うというけれど、そうでなかったら何のせいだというの? どんな理由で、ねね様は姿を消したというの? どうして奪われなくてはならなかったの?
ずっと美萌草さんに頼りきりだった私は、何かお礼にできることを探して、武器を作り始めた。これまでたくさん勉強をしたことを活かして、誰かを守るための武器を作る。美萌草さんはあまり喜んではくれなかったけど、リンネのために何かしたかった。
何度、死にたいと思っただろう。かか様ととと様のもとに行きたいと。
もしかしたら、ねね様もそこにいるかもしれない。そう思うたびに、私は死ぬ理由を探していた。生きる理由を放棄したかった。
でも、瑠璃の存在がそれを許さない。
美萌草さんに私を任された瑠璃は、とても優しくて、とても危なっかしい人だった。
自分のことは二の次で、何をするにも私を優先する。よく怪我をするし、私が作った義足は頻繁に壊す。それも、全部人のため。
放って置いたら死んでしまいそうなその姿が、虚な目をしていたねね様と重なって、どうしても放って置けない。何度言っても自分のことを大切にしないし、「リンちゃが大事だから」って、進んで死のうとしているように見える。
瑠璃が義足を壊すたび、死にたいと思う心は消えていた。この人は、私がいないと死んでしまうんじゃない? そう思うと、死にたいなんて言えなくて。
瑠璃は私と同じなんだと思う。
何かの罪に縛られて、それから逃げたくてしかたなくて、自分のことが大嫌いで。
ねね様を置いて行ったという私の罪。守ると決めたのに、守れなかった私の罪。
いいえ、瑠璃だけじゃない。リンネにいる人は、みんな罪を背負っているように見える。
みんなの父親のようで、とても強い玉砕さんも。
かか様のように優しい美萌草さんも。
誰にも心を開いていないように見える陰も。
正体不明で自分でも自分がわかっていないちぃちゃんも。
みんな罪を背負ってる。それを閉じ込めて生きている。罪から逃れることを願っている。
玉砕はみんなに決して死ぬなと言い聞かせる。罪から逃げる事は許されないと。
生きろと。
その言葉は私の胸をえぐる。本当は逃げ出してしまいたいの。優しい二人の元に行きたいの。
だけど、ねね様が生きていたら? ねね様は一人ぼっち。この世界で一人ぼっち。
そう思うと息が詰まる。逃げることも許されないの? 頭の中がぐちゃぐちゃになって、泣き出してしまいたくなる。
その度に、瑠璃は私を受け止めてくれる。溢れる涙を拭ってくれる。「リンちゃは何も悪くないよ」って。
それにすがって生きている。誰かに支えてもらって生きている。
だから、瑠璃にもすがって欲しいの。義足を壊して、私の生きる理由になって欲しいわけじゃない。私も瑠璃の生きる理由になりたいの。
そんなこと言ったら瑠璃を困らせるから言わないけれど、そうでないと私は何のために生きてるの? 誰のために生きてるの?
今日も私はねね様を探す。埃臭い貧困地で、転がる死体を一体ずつじっくりと眺めて、ねね様でないことを願いながら、その背中を探している。
どこに行けば会える? 私の家族。愛しい家族。大切な、大切なねね様。
これが私の罰なのか。これが私の罪なのか。いったいどうすれば報われるのか。
だって、一人じゃ生きられない。誰かに守られて生きている。
それは、私の罪を重ねていくだけなのに。
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