第7話 身代わり宝玉 その一

 人の死は、あまりにも身近なものだった。


 道端に転がった人の死体。戦地に赴く、兵隊たち。自身の体に爆弾をつけて、その四肢を飛び散らせる少年兵。兵隊の手当てをする、血塗れの少女たち。


 争いはいつもどこかで巻き起こっていて、近くにいた人が撃ち殺されるなんて日常の一部でしかない。


 そんな異様な自分の世界は、当たり前なのだと思っていた。当たり前でないのだとしたら、どうして僕はこんな目に合っているのかと思ってしまうから。


 人はいつか死ぬものだと理解している。そして、その死はいつも身近に存在していて、兵士である僕は、いつ死んでもおかしくない。


 そんな日常、そんな世界。

 

    ◇


 薄汚い兵舎の中。所々にこびりついた赤い液体が、その衛生状態の悪さを物語る。

食堂の中、机に置かれた具の少ないスープを冷ましつつ、ぼうっと窓の外を眺めていた。


「おーい、瑠璃! 食べないなら食べちまうぞ」


 隣でスープにがっついていたかいがからかうように笑う。額の大きな傷が、海が兵士であることを示していた。


「どうぞ」


「え、マジ⁈ やった!」


 奪うようにスープをかっさらって、スプーンで自分の口に運ぶ海。


「おまえ、そんなんで大丈夫か? 餓死するぞ」


「平気だよ。餓死する前に撃ち殺されるさ」


「嫌なこと言うなよな〜」


 悪びれもせず海はスープを完食した。まだ足りないというように、腹をさすっている。


 ここでは、遠慮なんてしていると、戦場じゃなくても死ぬことがある。少ない配給、いつ攻められるかわからない場所、満足にない医療器具。


「おい」


 不意に聞こえた低い声に体が強張る。隣の海も顔を青冷めていた。


 振り返って声の主を見てみると、そこには松葉杖を持って、頭に包帯を巻いた年上の兵士が立っていた。右足がない。険しい顔をして僕たちを見つめている。


「……な……なんですか……?」


 僕がおそるおそる尋ねると、兵士は僕たちの前の机の上に、自分が持っていたスープを置いた。


「それ、やるよ。おまえ食べてないんだろ?」


 驚きで声も出ない。海もポカンとしている。兵士は僕たちの顔を見て、ふっと笑った。


「俺はたぶん明日死ぬ。食糧を無駄にはしたくないからな」


 兵士は僕の頭に手を乗せて、髪をぐしゃぐしゃにしながら撫でた。


「おまえらは死ぬなよ」


 海にも同じことをして、おぼつかない足取りで去っていく。突然のことにしばらく声も出なかったが、ポツリと海が呟いた。


「……嫌だなぁ……」


「なにが?」


「あの人が死ぬの」


 遠く去っていく兵士の大きな背中は、まるであの世に向かっているかのようだった。一歩進むごとに死に近づいていく。


 死が当たり前の日常で、死にたくないと始めて思った。目の前で冷めきったスープは、ボロボロの僕の姿を映している。


「……いる?」


「いらん。おまえがもらったんだから、おまえが食べろよなー」


 海が立ち上がって去っていった。死んだら人はどこにいくのだろう。あの人は、死んだ後でもあんなふうに笑えるのだろうか。


    ◇


 銃声の鳴り響く戦場。遠くで聞こえる爆発音。血の臭いと火薬の匂いが鼻について、砂埃で目が霞む。手にした銃は冷たくて、僕たちの体温を飲み込んだ。


「なぁ、瑠璃」


「なに?」


 物陰に隠れながら、海が話しかけてきた。こんな状況下で悠長におしゃべりができるほど、僕たちは争いに慣れてしまっている。


「あの人、死んだかな」


 朝、兵士が焼却場に死体を運んでいた。肉の焼ける臭いで目が覚めたのを覚えている。その中に、あの人もいたかもしれない。


「……わからない」


「だよな」


 すぐそばに大砲の玉が飛んできて、砂煙が舞い上る。もろに砂煙を食らって目が痛い。誰かの身体が飛び散った。


「俺、死にたくない」


 海が響く轟音に消えてしまいそうな声で言った。思わず海の顔を見る。海はどこか遠くを見つめていて、近くの戦火も見えていないようだった。


「死ぬときは死ぬんだろうけど、まだ死にたくない」


「……僕……」


 なぜだろう。生きる理由を見つけたわけでもないのに。今だって、僕たちは突き落とされれば死んでしまう、崖の淵に立っている。僕たちが死んでも、世界はなにも変わらない。変わるわけがない。


 でも、それでも。


「僕も死にたくない」


 せめて、あの人の分まで生きたいと。


 轟音の響く戦場。きっと、今もどこかで名前も顔も知らないような人が血を流している。その血は足跡のように続いて、いつか僕たちのもとまでたどり着くのだろう。


 それは明日かもしれないし、もしかしたら今日、この瞬間かもしれない。


「絶対、死ぬなよ」


「うん。お互いに」


 隣でまだ生きている海の声を聞いて、近くに見えた敵を撃ち抜いた。


 倒れる身体と流れる血。その姿は僕たちが死ぬときと、さして変わりはないのだろうと思いながら、飛んでくる流れ弾を避けて、また物陰に隠れた。


 海もまだ死んでいなかった。


    ◇


「タータンとリブラは休戦状態だってよ」


 小汚いシーツに包まりながら、海が話しかけてきた。就寝時間はとっくに過ぎている。


「関係ないよ。本拠地の戦争が収まっても、ここの紛争は終わらないから」


「だよなぁ……」


 冷たい隙間風が頬を撫でる。凍えそうな程の寒さに、シーツを被った。


「いつになったら終わるんだろうな」

「知らない。終わってもどうやって暮らしたらいいのかもわからない」


 普通の生活ってどんなもの? ひもじい思いをすることなく、温かいシーツに包まって、銃を捨てて暮らすこと?


 想像できない。想像できてもしない。悲しくなるから。


「……なぁ、明日さ、焼却場に行かないか?」


「なんで?」


「いや……あの人、本当に死んだのかなって」


 頭を撫でてくれた、あの大きな兵士の手。普通の暮らしは、あんなふうに誰かに頭を撫でてもらえるような、幸せな日々なのだろうか。


「……見てもわからないでしょ」


「う〜ん……じゃあ、他の兵士の人に聞いてみる?」


「嫌だよ。怖いもん」


「そう言わずにさぁ」


 海が何度も頼んでくるので、渋々承諾した。本当は焼却場には行きたくない。


 あそこは死の臭いがする。


 次の日、人の目を盗んで焼却場に行った。肉の焼けた臭いと、焦げ臭い臭いがして鼻をつまむ。中を見ると、焼け残った骨が何本か残っているだけで、死体の面影はなかった。


「ほら、わかんないじゃん」


「やっぱ、わかんないか」


「戻ろ。怒られるよ」


 鼻をくすぐる死の臭いに、僕は海を促して早く戻ろうとした。きっと、今日の夕方には、ここがいっぱいになるぐらいの死体が運ばれてくる。その中に、僕たちもいるかもしれない。


「おい! こんなところでなにしてる!」


 焼却場に響いた大きな怒鳴り声。驚いて、二人して硬直する。


 焼却場の出口に、兵士が三人、険しい顔をして立っていた。


「ここは立ち入り禁止だ! 貴様らなにをしていた?」


 その声に僕は声も出せず、頭の中は真っ白で、答えることができなかった。


「……あ……あの……!」


 僕が立ったまま固まっていると、海が声を振り絞って、兵士たちに問いかけた。


「あの……! 二日前に松葉杖ついてた人、どうなりましたか……⁈」


 海の声に兵士たちが驚いたような顔をして、僕たちを見つめた。聞いてはいけなかったのかと、海と僕が顔を見合わせる。


「……奴は……奴は死んだよ。その日の夜に急に様体が悪化して、死んだ」


 あぁ、やっぱり。


 口に出そうになったのを飲み込んだ。あの人からは、死の臭いがしたから。


「……僕たち、その人にスープもらったんです。食糧がもったいないからって……」


「奴らしいな」


 兵士たちが悲しそうな顔で笑った。よく見れば、その手に何輪かの花がある。この戦争地で、花なんて咲いている場所は少ないのに。


「もしかして、おまえたちは奴を探してここに来たのか?」


 兵士の問いかけに僕たちが黙って頷くと、兵士の一人が僕に近づいて、頭を撫でた。


「ありがとう。でも、奴はここにはいない」


「いない?」


「あぁ。奴は空に行ったのさ。そして、俺たちを見守ってる。奴のことだから、ハラハラしながら俺たちの人生を見守って、その後にまた生まれ変わるのさ」


「生まれ変わる?」


 聞いたことのない響きに、海と二人して聞き返した。話してくれている一人以外の兵士二人が、焼却場の隅に花をたむけていた。


「輪廻転生ってやつだ。人は死んだら新しい何かに生まれ変わる。あいつはいい奴だったから、生まれ変わって幸せに生きるだろうよ」


 悲しそうに空を見上げる兵士。


 生まれ変わったら、またこんな世界に帰ってこなければならない? そんなの、嫌だ。


「……僕は、生まれ変われるでしょうか……」


「さぁな。おまえは何人殺した? 俺も奴も数え切れないほど殺したよ。罪人だ。それでも、信じていたいのさ。俺たちが犯した罪が、いつか報われるんじゃないかってな」


 人を殺すことは罪である。兵士はそう断言した。だけど、その罪を重ねるしかないように世界は回っている。罪を重ねないと、僕たちは生きていけない。


「おまえたちは死ぬなよ。奴の分まで生きるんだ。そして、この戦争が終わったら、贖罪をはたしてから死ぬんだな。そうじゃなきゃ、またこのクソみたいな場所に戻ってきちまうぞ」


 花をたむけ終わった兵士たちが、焼却場を後にして去っていく。その背中を見送って、残された僕と海はお互いに顔を見合わせた。


 二人とも何も言わずに、でも、何をすべきか分かっていて、たむけられた花に向かって、二人で手を合わせる。


 どうか、あの人が空の上で笑っていますように。どうか、罪が報われますように。


 僕たちは静かに目を開けて、焼却場を後にした。


    ◇


 その後、兵舎の中で、少年兵だけが集められた。僕たちを合わせて数十人。全員、緊張したような、怯えているような顔をして立っている。


 少年兵だけが集められた異様な光景。なにを言われるのか、だいたい予想がついてしまう。その予想を振り払うように、首を振った。


 兵士が何人か入ってくる。全員の顔がこわばって、空気が張り詰めた。兵士が口を開くことに、全員が怯えている。


「……明日、敵陣に向かうための経路を確保するために調査に行く。地雷が埋まっている可能性が限りなく高い。全員、注意するように」


 想像していた。予想していた。注意するように? 地面に埋まっている地雷を、なんの知識もない少年兵が避けられると?


 それは、死の宣告。


 間違いなく、おまえたちは死ねと言っていることが理解できる。経路確保のための犠牲。兵士が進むための道から、地雷を取り除くための子供たち。


 全員の顔が青ざめる。隣の海も血の気がひいて、その手は震えていた。


「嫌だ‼︎」


 誰かの震えた声が聞こえる。それは、この場にいる全員が思っていることだった。口から飛び出しそうなのを、必死で押さえつけて、心の中では叫んでいる。


 死にたくないと。そんな死に方嫌だと。


 叫んだ誰かは兵士に捕まれ、喚き散らしながら連れて行かれた。


 誰だって、逃げ出したかった。


 明日の朝、目を覚まして、次の日の朝に目が覚める確率は一体どれほどあるのだろう? そんなの、ほんの小さな可能性でしかない。


 目の前に見えるのは、真っ赤な血が飛び散る中、四肢がバラバラになる自分の姿だけだ。


 でも、逃げ出してからどこにいけばいい? どこにいけばここから逃れられる? 死が当たり前の世界で、このクソみたいな場所から逃げても、死は目の前に広がっている。


 だから、誰もなにも言わない。明確に見える明日の死を覚悟して、泣き出したいのに涙は出ない。そんな水分もったいない。


 僕たちの存在理由は弾除けだから。死ぬことが生きた理由。僕らの死を悲しんでくれる人は、一体どこにいるのだろう?


 僕たちが死んでも、世界はなにも変わらない。当たり前のことのように、残酷に、今日いう日が過ぎ去っていく。


 肌寒い夜の部屋で、僕と海は何も言わずに、ただシーツに包まっていた。だからといって、二人とも眠っているわけじゃない。目を閉じてしまったら、明日はすぐそこまで迫っていて、明日は僕たちが死ぬ日だから。


 お互いの呼吸を感じながら、僕たちは冷たい風に震えていた。明日には、この風も感じないのだろうか。


「……なぁ……瑠璃……起きてるか……?」


「……うん……」


 かすれたような海の声。ところどころで聞こえる鼻を啜る音が、海が泣いていることを教えている。


「……俺たちさ……明日には、もうここにはいないんだよな……?」


「……うん……」


 静まりかえった夜の時間に、海の声が響く。海は泣き出しそうなほど弱々しい声をしているのに、僕の目から涙が出ることはなかった。


「……嫌だ……!」


 海がいきなり包まっていたシーツを取り去って、その顔が僕の目に映った。目の下を赤くして、今にも泣き出しそうなほど歪んだ顔。


「死ぬなって死ぬなよって言われたんだ……! そんな死に方嫌だ……! 嫌だよぉ……‼︎」


 泣きじゃくる海を見ながら、僕は、僕は、泣けなかった。死にたくないと繰り返す海に、僕も死にたくないと、死んでなんてたまるかと言えたらよかったのに、口は動かない。


 僕はどこか達観して、諦めていた。あまりにも身近にある死に、その順番が僕に回ってきても仕方がないと、心のどこかで思っていた。


 それに、死んだらこの世界から逃れられる。空の上に行ける。今度は生まれ変わって、幸せに生きられる。そう思ったら、死にたくないと言葉に出せなかった。


「……生きるんだ……」


 泣きじゃくっていた海が、ポツリと呟いた。その目は赤く腫れていて、いつもの元気で明るい海はどこにもいない。決意のこもった目で、僕のことを真っ直ぐに見つめていた。


「絶対、絶対生きてやる……! 死んでなんてたまるか……!」


 そう言うと、海は呆然としていた僕の手を掴んで、顔を近づけてきた。


「瑠璃! 一緒に生きて、また、あの味のうっすいスープ飲もうな‼︎ 絶対、絶対、生き残る‼︎ また、また、花をたむけにいくんだ……‼︎」


 海の勢いに押されて、僕は頷いた。海は満足そうに笑って、でもその笑顔はどこか不安げで自信がないように見えた。


 一緒に生きよう。


 もし、もしも奇跡的に明日生き残れたとして、またこの世界で僕たちは死ぬことに怯えるのだろうか?


 海は静かに寝息を立て始めていた。目を閉じれば浮かぶ光景。赤い血飛沫、飛び散る身体。いつも戦場で見ている死体が、自分の姿と重なる。撃ち殺されるのと地雷で死ぬの、どちらの方が辛いだろう。死ぬのと生きるのはどちらの方が楽だろう。


 だけど、海には生きてほしいと思った。生きたいと望む海には、心の底から死んで欲しくないと。


    ◇


 朝になって、少年兵だけが集められる。全員、強張った顔をしていて、数人は泣き出しそうだった。海も青ざめている。僕だって怖い。


 いくら人の死を間近で見ていたとしても、それが自分に降りかかると思うと、どうしようもなく恐怖に駆られた。


 兵士たちも苦々しい顔をしていた。誰だって、したくてこんなことしてるんじゃない。殺したくて、人を殺すわけじゃない。


 ただ、そうしなければ自分が死ぬんだ。それが、みんな怖いんだ。


 兵士たちに連れられて、開けた場所に出た。


「ここから先は、俺たちはいけない」


 兵士が僕たちを見て、行けと言うように前を見た。


 行けないんじゃなくて、行かないんだ。


 それは、この先に地雷が埋まっていることを示している。そして、それが僕たちの死に場所なのだと。


 海がガタガタと震えている。顔面蒼白。今にも倒れそうだ。


「……生きるんだ……」


 願うように何度も何度も呟いく海は、僕のことなんて見えていないようだった。


 あぁ、どうか。どうか、海が生きてくれますように。海があの人に花をたむけられますように。どうか。


 僕が死ぬのはかまわないから。


 生きる理由なんてないんだ。海のように、必死に生きたいと懇願なんてできない。


 生まれ変わって幸せになりたいんだ。この世界から逃れたい。


 それが僕の望みだから。


「うわぁぁぁっ‼︎」


 誰かの叫び声と共に、僕たちは飛び出していく。


 あの世への一歩、確実な死への道筋。


 いろんな場所で聞こえた爆発音。飛び散る誰かの血液と、どこかの肉片。耳をつんざく悲鳴は轟音に消える。さながら地獄絵図の光景の中で、僕の足が何か硬いものを踏み抜いた。


 次の瞬間、すごい爆音が耳元で聞こえて、グラリと視界が揺れる。何が起こったのかわからないまま、僕は地面に叩きつけられた。


 なぜか立ち上がれない。立ち上がるための力が入らない。下半身の感覚がない?


 僕の両足は消えていた。代わりにあるのは、鮮やかな血溜まり。響く轟音のせいで、痛みは感じなかった。


「……瑠璃……!」


 微かに聞こえた海の声に、わけがわからないまま顔を上げた。砂埃で隠された海の姿が、うっすらと見える。振り返って、僕を心配するようになにかを叫んでいるけど、轟音のせいで聞こえない。


 あぁ、よかった。海は生きている。海は死んでない。


 海が僕の方へと走ってくる。


 大丈夫。大丈夫だから。ちょっと先に行くだけだから。早く向こうに走り抜けて。


 声を発しようとしても、僕の喉は何かがつっかえたように声が出ない。


 海が僕の元へと走ってくるのが見える。砂埃で微かに見える海の顔は、泣きそうなほど歪んでいて


 その顔が次の瞬間に消え去った。


 響いたはずの轟音は、僕の耳には届かない。ゆっくりに見える世界の時間が、もともと海だったと思われる肉片を、遠く彼方へと飛び散らせる。爆発したように弾けた血液が、僕の顔に飛んできて、視界が赤く染まる。


 最後に見えたはずの海の顔は絶望に染まっていて、その顔は僕の脳裏に焼き付いた。


 しばらくして、あたりで響き渡っていた轟音が消えた。僕の体は、両足を除いた全ての部分が残っていた。


 辺りは血で染まっている。もともと誰のものだったのかもわからない肉片と骨が転がっていて、息をしているのは僕だけだった。


 僕以外、身体の原型もない。


 海の身体も見つからない。残ったのは、僕の顔にこびりついた赤い血と、脳裏に焼き付いた海の死顔。


「……あ……」


 生き残ってしまった、僕。赤い視界で、海の笑顔が浮かぶ。昨日まで、死にたくないって、生きていたいってそう願っていたのに。


「あぁぁぁぁ‼︎」


 唐突に襲った激痛。飛び散った足の感覚はない。ドクドクと血が流れるたびに、身体中が悲鳴を上げる。


 熱い。ないはずの足が熱い。流れる血が止まらない。僕の周りは一面赤色に変わっている。


 聞こえない。何も聞こえない。耳が壊れそうな程だった轟音も、誰かの悲鳴も、海のかすれた声も。


 自分が息をしているのかもわからない。ただ、ただ足の付け根から伝う痛みが僕の思考を侵食していく。


 どうして? どうして、生き残っている? どうして、海が死んでいる?


 痛い、痛い、痛い、痛い


 僕が死ぬはずだった。僕が死なねばならなかった。


 痛い、痛い、痛い、痛い


 僕の代わりに誰かが生き残るはずだったのに。


 痛い、痛い、痛い、痛い


 赤く染まる視界に、何人かの兵士が見えた。熱かった身体は冷たくなって、凍えるほど寒い。


 最後に見た海の顔。昨日の決意に満ちた顔とは全く違うものだった。


 どうして、僕を置いて行かなかった?


 戻ってこなければ、海は死ななかったかもしれない。地雷原を抜けて、明日、僕と死んだ兵士たちに花をたむけてくれるはずだった。


 海を殺したのは僕だ。他の少年兵を犠牲にして、生き残ったのは僕だ。


 死ねばよかった。死ねばよかった。死にたかった。


 誰か、僕以外の人が生き残って欲しかった。海を殺したくなんてなかった。


 意識が薄れる。痛みが思考に浸食して、なにもわからない。どうして海は死んだ?


 僕が、生き残ったからだ。

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