第6話 生写しの憂鬱 その二

 目を開けたら、そこは汚い路地裏ではなく、俺は綺麗なシーツの上に寝かされていた。


 驚いて飛び起き、腹に走った激痛に声が出る。滲む視界に、小綺麗な部屋が映る。


 ここはどこだ? 陽はどこに行った?


 頭がだんだん冷えてきて、記憶が鮮明になった。


 切り裂かれた腹。頭から血を流す陽。連れて行かれた陽。白いローブを着た男たち。


 探さなくては。連れ戻さなければ。陽は、陽はまだ死んでいない。ベッドから降りて、おぼつかない足取りで扉を目指す。ここがどこかなんて知らない。ただ、陽を探すことで頭の中はいっぱいで。


 扉に手をかけて、力を込めて押そうとしたとき、扉が急に開いて尻餅をつく。その衝撃で、また腹に激痛が走り、視界が滲んだ。


「お? おいおい、大丈夫か? お前、やばいんだからじっとしてろよ」


 現れたのは、左目に傷があるメガネの大男。銀色の短髪で、飲み込まれそうな銀色の瞳。


 男はしゃがんで手を差し伸べてきた。敵意は感じなかったけれど、俺は警戒して男を睨む。


「安心しろ。ここにはお前に危害を加える奴はいない」


 男は軽々と俺を持ち上げて、ベッドに運んだ。手慣れた手つきで腹に巻かれた包帯をかえる。


「おいおい、傷口、開いたんじゃなか? 美萌草に怒られるからやめてくれよ」


「……ここは……」


 絞り出した声はあまりにもかすれていて思わず口を閉じる。男は包帯を変えながら、俺の顔を見た。


「お前、三日ほど寝たきりだったんだ。路地で俺が見つけなきゃ、確実に死んでたぞ」


 三日。もうそんなに経っていたのか。じゃあ、陽は? 陽はいったいどこに行った?


「陽は……⁈」


「陽? お前以外誰もいなかったが……なんだ、家族か?」


「……妹……」


 そう言うと、男はとても悲しそうな顔をして、苦々しげに言った。


「……お前と妹は白いローブを着た奴らに襲われたんだろう?」


「!」


 なんで知ってると言おうとしたが、声は出ずに変な息が漏れる。この男は、何か知っているのだろうか。


「俺がお前を見つけたときは、さっきも言った通り、お前しかいなかった。そして、地面にあった血液量からお前の怪我の分の出血量を差し引いても……」


 その先の言葉は聞きたくなかった。耳を塞いで、聞こえないフリをしたかった。その先の言葉を聞いてしまったら、俺の中の何かが壊れる気がして。


 だけど、男は続けた。俺が一番聞きたくなかった言葉を。


「妹は死んでいる」


 嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ!


 心の中で叫んでいる。否定している。だが、どれだけ否定しても、答えはわかりきったことだった。だって、最後に陽の死顔を見たのは、紛れもない俺なのだから。


 陽は息をしていなかった。その目に、目の前にいるはずの俺は映っていなかった。それが何よりの証拠だった。


「もし、奴らが妹を連れて行って、妹が生きていたとして、妹はもう人じゃない」

「……な……」


 なんだよ、それ。人じゃない? どう言う意味だ? 奴らはいったい何だっていうんだ。


「……どう……いうこと……だよ……」


「お前らを襲ったのは、教団プシュケの連中だ。プシュケは不老不死を求めていて、人間を使った実験をおこなっている。その結果生まれるのが、猛者という生物兵器だ」


 意味がわからない。生物兵器? 猛者? 不老不死?


 知らない単語が飛び交っていて頭の中が混乱する。だけど、唯一確かなのは、俺たちは意味のわからない、何も関係ないことに巻き込まれて、その結果、陽は死んでいる?


 そんなの、あんまりだ。


 どうして俺たちなんだ。どうして俺たちがそんな目に合う?


 それでも、残酷な世界は答えとして、俺たちにこう投げかけるのだろう。


 お前たちは不幸だったと。


 不幸だったから真っ当に生きられなかった。不幸だったから殺された。不幸だから、不幸だから、不幸だから。


 やめろ。


 やめろ‼ 陽の死を、不幸なんてあまりにも簡単な理由で片付けるな‼︎ 俺たちのせいじゃない。俺たちのせいなんかじゃない。全部、全部、このクソみたいな世界が

勝手に決めた、不平等で不公平な運命。


 不幸だったなんて理由で、陽を殺すなんて許さない。


「……殺す……」


 俺の手は無意識のうちに、介抱してくれている男に伸ばされていた。男はそれに気がついたようだが、俺の手を止めようとせず、手は男の襟首を掴んだ。


「殺してやる‼︎ 陽を殺した奴らも、戦争を始めた奴らも何もかも‼︎」


 陽が感じた苦しみよりももっと酷い苦しみを。不平等な世界に抵抗を。それが、俺のできること。陽をなくした俺の存在意義。


「……傷口開くぞ。じっとしていろ」


 掴んだ俺の手を離させて、男は静かに俺を見つめた。哀れみと同情の入り混じったような瞳。


 頭に何か温かい感触を感じて、男の顔を見た。男は俺の頭に手を乗せて、優しく撫でていた。視界が端から滲んでいく。


「辛かったな。頑張ったな。もう、大丈夫」


 硬いゴツゴツした手の感触。瞳からボロボロと涙が落ちる。こんな水、いったい身体のどこに残っていたのだろう。


「……お前が望むのなら、俺のところに来ないか? 俺たちもプシュケのことをぶっ潰したい。手を貸してくれるなら、それほど嬉しいことはない」


 傷はこれまで忘れていたかのように急に熱を持って痛みをもたらす。じんじんと痛むのは、裂けた腹の傷なのか、涙は止まらずに顔はグシャグシャになって、俺は頷くほかなかった。


「名前は?」


「……陰……」


「陰、いい名前だ。今からお前は俺たちの仲間。リンネの一員だ。俺は玉砕。歓迎するよ」


 飲み込まれそうなほど澄んでいる玉砕の右目。全て見透かされているようで苦手で、だけど、どこか安心する瞳。


「生きるという名の贖罪を。その罪を忘れるな。そして、幸せに死ぬことを望め。自らの生から逃げることなく、全ての者に平等なる死を」


 俺の罪。陽を守れなかった俺の罪。自らの死は許されない。

生きることは、罰になる。


    ◇


 それから、何年かの時が経ち戦争は一時休戦に入ったが、プシュケの全容は未だ掴めず俺は罪を背負ったまま生きていた。リンネの仲間もその間に増えていった。


 天才と呼ばれている、リンネの武器の製作をしている鈴凛。


 戦争の経験を持ち、両足が欠損している瑠璃。


 ずっと玉砕の右腕として、俺たちにも母のように接してくれる謎の多い美萌草さん。


 それぞれがそれぞれの過去を持ち、それぞれの罪と罰を持つ。だが、誰もそのことについては問いかけない。全員、知られたくないから。


 陽を失ったあの日から、深く寝付けたことなど一度もない。目を閉じるたびに、陽の死顔が目の前に浮かぶ。夢を見れば、笑顔の陽が浮かび上がって、心臓が飛び出しそうになる。


 それが俺の罰なのだと言い聞かせながら、いつ見ても慣れない陽の顔に、何度死にたいと思っただろう。許されることのない、俺の罪。


 陽はもう死んでいると、猛者を見るたびに思う。もしかしたら、今殺した猛者の中に陽がいたのではないかとも。あの時、あの場所で陽は俺の目の前で死んだ。そう認めないと押し潰される。なんて酷い罰だろう。


 だが、それ以上に重い罰がのしかかってくるなんて、俺は想像もしなかった。それほどまでの罪だったのだろうか。それほどまでの罪だったのなら、今、陽はどう思っているのだろう。許されることはないのだろうか。それとも、知らぬ間に、俺は罪を重ねていたのだろうか。


 玉砕に連れてこられた少女を見て、心の底からそう思った。


 それは、空が重苦しい色をした、冷たい雨の降る日だった。


 響いた悲鳴で外に続く門に、中にいた全員が顔を向けた時、その光景はトラウマになるんじゃないかと思うほど、酷いものだった。


 血塗れになった右腕のない玉砕が、一人の少女を担いで、倒れ込むように入ってきたのだ。


 本部の中は大騒ぎ。普段冷静な美萌草さんが慌てふためくほど、阿鼻叫喚悲鳴の嵐。死にかけの主導者と、謎の少女。玉砕の右腕は断面が綺麗に切断されていて、出血死するんじゃないかと思うほどの血が、床一面に流れていた。


 そして、その少女の顔を見て、俺は愕然とした。


 黒く長い髪、見たことのない服、真っ黒な瞳。


 どれも正反対の色。だが、その少女の顔立ちは、あまりにも陽に似ていた。生写しかと思うほど、陽が生きていたらきっとこんな風な少女になっていただろう。


 苦しそうに顔を歪める玉砕を見ながら、そんなことを考えていた。


 一命を取りとめた玉砕は、少女のことをチカゲと呼び、幹部を集めて説明した。

チカゲは人ではないこと。プシュケによって作られた生物兵器、人型の猛者。ただし、プシュケにいたときの記憶と、人間だったときの記憶は欠落しており、情報を得ることはできない。信じられない話だったが、信じるしかなかった。チカゲは、あまりにも人間離れしていたから。


「チカゲはリンネで保護する」


 そう言った玉砕の顔は、どこか決意のようなものに満ちていて、頑なに右腕をなくした経緯を説明しようとはしなかった。全員、問いただしたい思いだったが、玉砕の険しい顔に誰も聞けなかった。


 気がつけば、玉砕の右手は機械義手になっていて、それを何事もなく使いこなしていた。


 チカゲは見れば見るほど陽に似ていた。顔立、身長、声。全てが陽を彷彿とさせる。


 違うことは、一切笑わないこと。その瞳には、深い闇しか映らない。


 その姿に、俺はしばらくチカゲを避けていた。チカゲを見るたびに罪悪感が己を襲う。眠れない夜は長くなり、体は不調を訴える。


 だが、運命というのは残酷で、俺への罰は終わらない。


「チカゲと陰をペアにしようと思う」


 玉砕はなんの悪気もなく、そう言ったのだと思う。それに、鈴凛と瑠璃、美萌草さんと玉砕、というペアがあって、俺はあまりものだったのだから、当たり前の流れなのだろう。


「チカゲはまだ不安定だから、本当は俺がずっと見ていたいんだが、俺はそれができそうにない。だから、それを陰に頼みたいんだが……どうだ?」


 玉砕は陽の顔を知らない。年齢も、声も。だから、申し訳なさそうに、それでいて俺を信頼してそう言ったのだ。


 嫌だ。なんて言えなかった。玉砕は命の恩人で、父親よりも父親で。それに、チカゲのことを見ながら、きっとこれは罰なのだと、勝手に納得している自分がいた。プシュケの尻尾を掴むこともできず、戦争は未だ続いている。


 だから、承諾した。陽にそっくりなチカゲに優しくすることで、どこかで自分の罪悪感が少しでも薄れるのではないかと思っていた。


 だが、そんなことありえない。チカゲが陽と重なるたびに、罪悪感は俺に牙を剥いて、その心を貫いた。


 チカゲは一向に誰にも心を開こうとしなかった。玉砕さえも拒絶しているように見えた。


 そして、罪は唐突に、俺を襲う。


「……陰……」


 初めて名前を呼ばれた。振り返るとチカゲが立っていて、その真っ黒な瞳で俺を見つめている。その目は、本当に陽にそっくりで、俺の顔はひきつりながらも笑顔を貼り付けようと必死だった。


「どうした? チカゲ」


 チカゲは何も言わずに俺に近づいてくる。不思議に思いながら、なにかあるのだろうとチカゲを待っていると、チカゲはおもむろにその白く細い手を、俺の首に伸ばしてきた。


「⁈」


 急なことにバランスを崩して後ろに倒れる。チカゲはその黒い瞳で俺を見つめながら、ゆっくりと俺の首を絞めていた。少し苦しい程度のとても弱い力。


 チカゲの行動の意味がわからずに、その手を振り払うこともできず、呆然とチカゲを見つめた。


 チカゲの口は微かに動いていて、とても小さな声が、鮮明に聞こえた。まるで、耳元で囁かれたように。


「殺して」


 チカゲに重なる陽の姿。


 その声に、俺の中で何かが壊れた音がした。


 違う。こいつは、陽なんかじゃない。陽は、死にたいなんて思っていなかった。

最後まで、生きようと必死で。


 身体は無意識に動いていて、俺はチカゲを押し倒して、その細い首に手をかけていた。


 殺してなんて、陽が言うはずがない。陽は、もう死んでいる。もう、いない。

陽はいない。


 首を締める力が強くなる。細い首が締まっていく。息が弱くなっていく。


 髪の色も、目の色も、こいつは人間ではないのだから。陽であるはずがない。


 息が止まる。完全に止まる。その瞬間に、脳裏に映った、陽の死顔。


 チカゲは笑っていた。陽にそっくりな顔で。


 その顔に、慌てて首から手を離す。その手には、首を絞めていた感触が残っていて、吐き気が込み上げた。陽が、その首元に赤い跡をつけて、笑っている。


 その跡をつけたのは、俺だ。


「……ゲホッ……ヴェ……」


 声が聞こえる。苦しそうな声。陽の声。


 頭が痛い。腹が痛い。胸が痛い。心臓が飛び出しそうだ。


 その時、理解した。罪悪感が薄れることなんて、ありえなかったことを。


 だって、チカゲは陽ではない。当たり前だ。陽は世界で一人しかいないのだから。苦し紛れにチカゲを陽と重ねては、罪悪感で潰れそうになる。


 でも、違う。チカゲはチカゲだ。


 陽はもういないのだと、理解しなければならない。それが、俺の罰。チカゲという存在。


 陽はもう死んだのだと。


 それから、俺はチカゲを拒絶するようになった。わざと嫌われるようなことをして、ヘラヘラと笑っている。


 罵倒してくれたらいいのに。どうせなら、殺してくれればいいのに。


 チカゲは俺のそばにいる。お互いに殺されることを望んでいる。


 チカゲを拒絶するようになって、陽の夢を見なくなった。よく寝付けるわけではないけれど、陽の死顔で目を覚ますことはない。


 俺の中で、陽はもう死んだ存在になりつつあった。チカゲという存在が、嫌でもそれをわからせる。拒絶するたびに、チカゲは陽ではないと理解した。


 ただ、ごく稀に、陽の夢を見る。


 陽は、俺が最後に見た姿から少し大きくなっていて、笑みを浮かべて立っているのだ。


 拒絶するわけでも、手を差し伸べるわけでもない。ただそこにたたずんで、俺のことを見つめている。俺が手を伸ばして、その姿が消えてしまうことを覚悟しても、その姿が消えることはなく、俺は陽を抱きしめる。


 何度謝っても、何度後悔しても、陽はなにも言わない。ただ、俺に抱きしめられて、そこに立っている。


その身体に体温はなく、冷たい感触が伝わるたびに、これは夢だと理解するのだ。

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