第5話 人ならざる者
チカゲがリンネ本部の図書館で本棚を見上げている。自分が読みたい本が高い位置にあり、手を伸ばしても届かない。辺りを見回しても椅子のようなものはなく、チカゲはピョンピョンと飛び跳ねながら、本に手を伸ばしていた。
その様子を近くのソファーに座って見ていた陰は、素知らぬ顔で目を瞑り寝たフリをする。
どうしても届かないことを理解したチカゲは、ふぅと息をつくと寝たふりをしている陰に近づき、頭を思いっきり叩いた。
「いって‼︎」
その衝撃に寝たフリをしていた陰は目を開け、目の前にあるチカゲの顔を睨む。
「……なに?」
訝しげに問いかける陰に、チカゲは何も言わずに本棚を指差した。
「……あのさぁ……もうちょっと可愛くお願いできないの? てか、自分でどうにかしろよ」
面倒くさそうに言う陰は、自分の手首を指でトントンと叩いて、チカゲに血を使うように促す。
「……玉砕さんが無闇に使うなって。それに、本が汚れる」
チカゲに言い返されて、陰は大きくため息をつくと立ち上がった。本棚の前に行き「どれ?」とチカゲに問いかける。
陰はチカゲが指差した本を抜き取ると、本を受け取ろうと手を伸ばすチカゲを無視して、パラパラと本をめくった。本を奪おうとするチカゲから逃げて、本を高い位置に掲げる。チカゲが本を取ろうと飛び跳ねた。
本をめくっていた陰が、顔をしかめる。
「……『人の死の定義』? なにこの本」
「……早く渡して」
陰はふっと笑うと、わざと本を本棚の一番上に置いた。チカゲが顔をしかめる。
「その死にたがり、どうにかしたほうがいいよ? チカゲの大好きな玉砕さんに怒られちゃうから」
陰がチカゲの腕を掴み、チカゲの体を本棚に叩きつけた。本棚がぐらついて、本が何冊か落ちる。
「それとも、まだ俺に殺されたい?」
顔を近づけてくる陰に、チカゲが怪訝そうな顔をする。チカゲが背中のホルダーにある短剣に手を伸ばした。
「至急、至急、タータン支部周辺にてプシュケによる襲撃を確認。戦闘部隊は至急、それぞれの担当地区に向かってください」
流れた放送に陰がチカゲから手を離した。その隙にチカゲが陰の前から抜け出して距離を置く。
「呼ばれましたよ、チカゲさん」
陰がチカゲを馬鹿にするように笑った。そして、チカゲを置き去りにして去っていく。
置いて行かれたチカゲは、高い場所に置かれた本を見て、手に持った短剣で手首を切った流れた血が本棚の上へと登っていき、手の形になって本を掴む。
チカゲの手元に届いた本には、ベットリと血がついていて、チカゲが小さくため息をついた。
◇
地面に転がる猛者の死体。それに混じって白いローブを着た人間が息絶えている。おそらく、猛者に食い殺されたであろう一般人の死体も、血と肉の匂いを漂わせて転がっていた。
死体の真ん中で、返り血を浴びた陰とチカゲが立っている。陰は顔についた血を拭って、プシュケの人間の死体をまじまじと見つめた。
「……殺しちゃった。誰かさんのせいで」
「……」
陰の非難の目に、チカゲが目を逸らす。ふぅと息をつくと、陰は膝を叩いて立ち上がり、辺りを見回した。
「別にもういいけどさぁ……ちょっとは加減しろよ」
チカゲはふいっとそっぽを向いて、陰と目を合わせようとしない。陰は小さく舌打ちをして、何かに気がついてチカゲの腕を引っ張って抱き寄せた。
「!」
チカゲのいた地面から黒い大きなトゲのようなものが飛び出して地面をえぐる。陰に抱き寄せられたおかげで、チカゲはスレスレでトゲを避けた。
「あら? 気づかれたのかしら?」
辺りに妖艶な声が響き渡る。路地の暗がりから黒いドレスを着た女が一人、現れた。黒く長い髪を一つにまとめ、その目は堅く閉じられている。肌は人形のように白く、生気が感じられない。
「人間が二人? 男と女かしら。あら?」
コツコツと足音を立てながら近づいてくる女。その異様な雰囲気に、陰の顔が険しくなった。ザワザワと、女の後ろの暗い影が忍び寄る。
「チカゲ? チカゲよね? えぇ、間違い無いわ。だって、気配が人間では無いもの」
名前を呼ばれたチカゲが驚いて目を見開いた。ズキンと頭に衝撃が走って、チカゲが頭をおさえる。
「あら? 覚えていないの? 私のことを? こんなに美しい
美麗と名乗った女は、口元に笑みを浮かべながら近づいてくる。目は堅く閉じたまま。陰がチカゲの様子に気がついて、庇うように前に出た。
「そう……、残念ね。逃げ出したりなんてしなければよかったのに。そうしたら、そうやってリンネに利用されることもなかったのに」
哀れむような口調をしながらも、美麗の口元は歪んでいる。チカゲの呼吸は荒くなり、頭痛は増して、まるで脳を直接叩かれているような感覚に襲われた。
「私が可愛がってあげたのに。混乱しているのね、かわいそう。さぁ、こちらにいらっしゃい。教祖様が救ってくださるわ」
美麗がチカゲに向かって手を伸ばした。チカゲの瞳に、不気味なほどに白く細い美麗の腕が映る。フラフラとおぼつかない足取りで、チカゲはその腕に、手を伸ばそうとした。
それを静止するように陰がチカゲの前に飛び出し、美麗の腕を肘当てに仕込んだ刃で貫こうとする。
だが、その刃は美麗の掌で受け止められ、鈍い金属音が辺りに響いた。
「⁈」
「嫌だわ。これだから男は嫌いなのよ。レディがまだお話ししているのがわからないの?」
冷たく言い放った美麗の手には、黒い髪が巻きついていた。それは、鋼の刃を止めるほどに堅く、それでいてしなやかに動く。
「気色悪い。私に近づかないで頂戴」
途端に、黒い髪の束が陰に襲いかかった。それをスレスレでかわし、陰の顔に切り傷がつく。
美麗の髪はまるで、黒光りする大きく太い大蛇のように陰に襲いかかる。美麗の後ろに広がっていた大きな影は、無数に伸びた美麗の髪だった。
目を閉じているはずなのに、美麗の髪は的確に陰を狙っている。
「チカゲ。あなたがいるべきなのは、そんな男の隣ではないわ。あなたは唯一の成功例。教祖様に求められる存在。さぁ、一緒に行きましょう? あなたは人である必要はないわ」
人である必要はない。
その言葉に、チカゲの心臓が、あるはずのない心臓がドクンと高鳴った。チカゲの視界が赤く染まり始める。チカゲの体から、はち切れたように赤い血液が溢れ出した。腕や足を血塗れに染め、瞳から涙の代わりに血を流す。チカゲの頭の中で断片的な映像がめまぐるしく移り変わり、プツンと何かが切れた音がした。
「チカゲ‼︎」
美麗の攻撃をかわしながら、陰が叫ぶ。美麗は狂ったように高笑いし、虚な目をしたチカゲに手を伸ばした。
その手を弾き返して陰がチカゲの身体を抱き上げると、美麗に背を向けて逃げ出した。
「落ち着け、チカゲ‼ 深呼吸‼」
チカゲは陰の声が聞こえているのか、聞こえていないのか、瞳から流れる血は止まらず、陰の服は赤色に染まっていく。チカゲの胸に大きな亀裂が入り、広がろうとしていた。
「おい‼ お前、今それやったら何人死ぬかわかってんのか⁈ どんだけ人殺ししたら気が済むんだよ⁈」
陰が全力疾走をするなか、後ろからは黒い大蛇のような髪が追いかけてくる。地面にボコボコと穴を開けながら、美麗の高笑いが後ろで響いていた。
周りから聞こえてくる銃声や猛者の悲鳴は、多くの人が今もなお戦闘中だということをものがたっている。なんとか美麗の攻撃を避けながら、陰は戦闘中のリンネの部隊に合流した。
「後ろ気を付けろ‼︎」
チカゲを担いで走ってきた陰に驚いた部隊の人間たちが、陰の言葉に後ろを振り向く。その途端、黒い大蛇は多くの人間を貫いた。
辺りに血と悲鳴が響き渡る。その地獄絵図を見ないフリをして、陰はただひたすらに走り続けた。
チカゲの胸の亀裂はさらに広がり、そこからボタボタと血液がとめどなく溢れる。陰が走った地面には、足跡のように大量の血液で汚れている。
「おい‼ チカゲ‼ 頼むから……‼」
チカゲの血は止まらない。虚なチカゲの瞳には、真っ赤に染まった視界が映る。後ろからは、黒い大蛇が迫り来る。
「俺殺したら、お前誰に殺してもらうんだよ⁈」
陰の言葉に、チカゲがピクリと反応した。大きく目を見開いた後、こと切れたように気を失って、急に全体重を任された陰は一瞬体勢を崩しチカゲを落としかけたが、持ち直して走り続ける。
チカゲの胸は塞がって、溢れ出していた血は止まった。それでも、黒い大蛇の追跡は終わらずに、陰は舌打ちをすると、ピクリとも動かなくなったチカゲを抱えて、助けを求めて走っていった。
◇
陰とチカゲを追っていた美麗は、下に転がる死体と、血の匂いに顔をしかめながら歩いていた。追っていた陰の姿は見当たらない。目印にしていたチカゲの血も途切れている。
美麗はチッと舌打ちをして、転がっていた死体を蹴り飛ばした。
「やっと見つけたのに……あの男、今度あったら八つ裂きにしてやるわ」
足元ではピシャピシャと血が跳ねている。塞がれた目には、凄惨な現場は映らない。死んだ者の気配と、異臭しか美麗は感じなかった。
「大丈夫よ、チカゲ。すぐ見つけて連れ戻してあげるから」
バンッ
辺りに響いた一発の銃声。弾丸は美麗の頭を貫通して、穴を開けた。死体に紛れて、かろうじて生きていた部隊の男は美麗に銃口を向け、切り裂かれた腹の痛みに耐えている。
美麗の体がぐらりと後ろに倒れ、その体勢を持ち直して立った。
「……誰かしら? 私の美しい顔に穴を開けたのは」
見えていないはずの美麗がぐるりと辺りを見回す。
「……あぁ、あなたね」
次の瞬間、男の目の前には美麗の顔があった。頭の穴からどろりと流れた血液が、美麗の顔を汚す。男は小さく悲鳴を上げた。
「あぁ、あぁ、醜いわ。とてもとても醜い。この私に、こんな所業を為し得るなんて、なんて醜いのかしら」
穴は徐々に塞がっていき、美麗の声色に震えるような憎悪が垣間見える。男はその恐怖に震え、閉じられた美麗の目に、思わず口を覆った。
「口を塞いでも無駄よ? 私にはあなたの顔は見えないけれど、それはそれは醜い顔をしているのでしょうね。だって、あなたには私の美しい顔が見えているのでしょう? それでいて、私の顔を汚したのでしょう?」
美麗が男の顔を両手で掴んだ。男の瞳に美麗の顔が映る。男はガタガタと震えていた。
「恥を知るがいいわ」
美麗の目が開けられた。だが、そこ広がるのは、底まで闇に満ちた空洞。陥没した穴が男の瞳に映り、男が叫び声を上げる。
「ば、化け物っ‼︎」
その声に美麗は口元を大きく歪ませて、高らかに笑い出した。それは、狂気というほか言いようのない、おぞましい姿。
「化け物? 化け物‼ うふふ! 違うわ‼ 私はあなた方人間を超越した存在。化け物というには、あまりにもかけ離れているわ‼︎」
美麗の髪が大量に男の口の中へと侵入する。男が苦痛の表情でもがきだすが、美麗はその顔を離そうとしなかった。
まるで、自身の美しい顔を脳裏に焼き付けるように。
「……ゔっ……ぐっ……! ……がっ!」
男の中へと侵入した美麗の髪は無数の針となり、男の体を中から貫いて無数の穴を開けた。男が絶命したことを確認して、美麗はその手を離す。ドシャリと血塗れの男が倒れた。
「あぁ、嫌だわ。なんて汚いのかしら。これだから男は嫌いなのよ。汚くて醜くて、私の視界に入れるのにふさわしくない」
美麗の黒いドレスに血が飛び散る。美麗はそれに気がつかない。鼻歌まじりに歩き出し、妄信する教祖の元へと帰っていく。
彼女がその後ろの惨状を見ることは、今後二度とない。
転がる死体、飛び散る血液、聞こえる悲鳴。
彼女にとってはそのどれにも色はついておらず、そこにある、ぐらいの認識でしかないのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます