第4話 生写しの憂鬱 その一

 ただ、二人でいられればよかった。幼い俺たちに、戦争なんて知ったことではなかったのだから。一日一日を生きるので精一杯。死なないように、殺さないように。


 お互いがお互いの生きる理由。守るのも、守られるのも自分自身。きっと、俺たちのような子供は、掃いて捨てるほどいた。


「お兄ちゃん!」


 睡魔に襲われてうたた寝をしていて、聞こえた声に目を開ける。目の前では、妹のようが頬を膨らませて立っていた。俺と同じ、真っ白な髪に赤色の目。可哀想なぐらい痩せ細っていて顔色も悪い。それでも、明るく天使のように純粋で。


「いつまで寝てるの?」


「ごめん、ごめん。起きるよ。ご飯見つけなきゃ」


 そう言って立ち上がろうとすると、陽が得意げに笑った。そして、俺の腕を掴むとぐいぐいと引っ張っていく。


「ちょ、ちょっと待って!どこいくの?」


「うふふ! あのね、お兄ちゃんがお寝坊だったから、私が見つけてあげたの!」


 大きく手を広げて、取ってきたものを見せる陽。それは、きっとどこかのゴミ箱から取ってきたであろう残飯だった。ただ、いつも見つけてくるものとは違う、もっと豪華な食事の残飯たち。


「……これ、どこで見つけたの?」


「え? えっと……いつもの場所だよ?」


 陽がぎこちなくはにかんだ。陽は嘘をつくのがとても下手だ。いつも天真爛漫に笑っているせいか、その表情のぎこちなさが表に出てしまう。


「……陽……」


「だ、だって、いつもの場所にご飯なかったんだもん……」


「だからって……あそこは危ないからダメだって何度も……」


「ごめんなさい……」


 陽はおそらく、富裕層の市街地へ残飯を探しに行ったのだろう。富裕層の市街地は警備が厳重で、俺たちのような孤児が見つかれば何をされるかわからない。そんな場所に、こんなか弱い陽が一人で向かうなんて。


「……陽」


 手招きすると、しょんぼりと俯いていた陽はパァッと顔を輝かせて俺に抱きついてきた。その可愛らしい姿に頭を撫でる。陽の柔らかい髪が俺の手を滑った。


「お願いだから危ないことしないで。陽がいなくなったら、にいちゃんはもうどうしたらいいかわからないんだ」


「いなくならないよ。いなくならないもん。陽はずっとお兄ちゃんと一緒にいるんだ。ずっと、ずうっと。」


 嬉しそうに俺の体に頬をすり寄せる陽。


 俺たちの両親は、とっくの昔に死んでいた。劣悪な環境、食糧なんてほとんど見つからない。戦争はいつまでも続いて、何人もの死体を見た。冷たく腐る陽を見たとき、きっと俺は正気ではいられない。


「お兄ちゃん、ご飯食べよ? 今日は私、頑張ったんだから!」


「……うん」


 砂埃と瓦礫の中で、俺たちは息を潜めて生きている。それでも、目の前で光り輝く陽の笑顔で、俺は生きてこられた。これまでも、これからも。


 食糧が何日も見つからないことなんて、よくあることだった。腹が減りすぎて、もう腹がなることもない。そんな日々を何日も過ごして、陽は見るからに衰弱していった。元々白い肌は青白くなり、息は浅い。呼び掛けても力なく返事をする。


 それでも、陽は大丈夫だよと言うように、俺に笑いかける。弱々しく、明るい笑顔を浮かべる。


 どうして俺たちがこんな目に合わなきゃならない?


 どうして陽が苦しむ必要がある?


 そんなの答えは明確で、ただ、俺たちが不幸であっただけだ。生まれた時代に戦争があって、生まれた場所が貧困地で、たったそれだけの理由。


 でも、だからって、ただ生まれて野垂れ死ぬなんて嫌だ。陽を殺すなんて、絶対に嫌だ。


「陽。にいちゃんがご飯見つけてくるから、ちょっと待ってて」


 もう座っておくこともできず、冷たい地面に寝転がっていた陽にそう言うと、陽は弱々しく細い手を伸ばして、俺の手を握った。


「……やだ……やだよ……一緒にいて……」


「大丈夫。すぐ戻ってくるから。そしたら、ずっと一緒にいる」


 力のない陽の手を離して、富裕層の市街地へ向かう。痩せ細った足には痛みが走ったが、そんなこと気にせずに、ただ陽を救うことだけ考えた。


 富裕層の市街地は、きらびやかな市場や店があり、上質な衣装を着た貴族たちが歩いている。全員、健康そのものの身体をして、声高らかに笑っている。


 でも、少し路地の先に向かえば、そこは汚く薄暗い、孤児や痩せ細った老人が転がっている。誰もそんなことには目を向けない。かろうじて戦火を逃れている一時の平和に酔いしれている。


 それでも、明確に、戦争はその傷跡を残していた。


 市場に並ぶ赤い果実。至る所にいる警備に見つからないように、そっと近づいて手を伸ばす。これさえあれば、陽は死なない。また、笑ってくれるのだから。


「泥棒‼︎」


 響いた声に顔を上げると、冷たい目線の数々が俺に向けられていた。汚物を見るかのような、冷ややかな目線。人に向けられているとは思えない、富裕層のきらびやかな顔。


「捕まえて‼︎」


 弾けるように走り出して、追ってくる追手から逃げた。手にした赤い果実を落とさないように、後ろから聞こえる罵声を無視して、汚い路地を走り抜ける。


 転がった死体に足を取られながら、それでも追手よりは走り慣れた曲がりくねった路地を走って後ろを振り返ると、追手の姿はもう見えなかった。


 安心して立ち止まり、がむしゃらに走っているなかで、陽がいる場所の近くまで走っていたのだと気がついた。手にした果実の重さに安心しながら陽がいる場所へと走り出す。


 きっと、陽は俺に笑いかけてくれるだろう。そして、元気になってまた、お兄ちゃんお兄ちゃんと俺を呼びながら抱きついてきてくれる。


 曲がり角を抜けて、明るく陽の名前を呼ぼうとして、飛び込んできた光景に立ち止まった。


 床に転がる陽を囲んで立っている、白いローブを着た男たち。その手に持った鈍器が、陽の頭に振り下ろされる。


 腕から滑り落ちた赤い果実が、地面で潰れて汚れになった。


「陽‼︎」


 俺の声に男たちが振り返った。男一人に突進して、男がよろめく。


 陽に駆け寄ろうとして、男に捕まえられた。逃れようと暴れて、男の腕に噛みつく。


「いてっ‼︎」


「おい、何してる」


「このガキ‼︎」


 男が俺を投げ飛ばして、地面に背中を打ち付けた。内臓が飛び出しそうな痛みと衝撃に、喉から変な声が出る。


「お兄ちゃん……‼」


 陽の弱々しい声が聞こえる。


 守らなくては。俺が、守らなければ。殺さない、絶対に。それが俺の存在意義なのだから。


 ふらつく足で立ち上がり、ぼやけた視界で男たちを睨む。


 痛くない。痛くなんかない。たとえ、骨が折れていても、たとえ、肉が剥がれそうでも、痛みなんて感じない。


「殺せ」


 ザクッという音と、落ちた赤い液体。腹が熱い、生暖かい何かが溢れている。


 血?


 下に広がった赤い果実の汚れと、萌えるように熱い腹。体は体勢を保てずに、地面に打ち付けられる。男が持っている剣の先に赤い液体が付着していた。


 熱い、熱い、熱い。


 腹を触るとぬるりとした感触が伝わる。手が真っ赤に染まっていた。鉄臭い。


「お兄ちゃん‼︎」


 陽がよろめきながら立ち上がって、俺に近づいた。泣きそうな顔をして、俺を呼び続けている。


 違う。陽、俺は陽に笑ってほしいんだ。そんな顔、しないで。


「お兄ちゃん……‼ お兄ちゃん……‼︎」


 泣き叫ぶ陽。その後ろで男が鈍器を振り上げている。


 やめろ、やめてくれ、お願いだから。


「やめろぉぉっ‼︎」


 振り下ろされた鈍器。飛び散った赤い色。目の前で、ゆっくりと倒れる、陽。倒れた陽の顔が目の前に現れて、その頭から血が流れているのがよくわかる。開かれた陽の赤い瞳、口から呼吸は感じない。


「どうする? 二人とも持っていくか?」


「いや、一人でいい。定員オーバーだ」


 目の前で陽はピクリとも動かない。男たちはその陽の体を持ち上げた。陽の腕と足はダラリと垂れて、ポタポタと赤い血が落ちる。


「……うっ……」


 名前を呼びたくても、口から出るのは呻き声だけで、陽を担いだまま、男たちの姿が遠くなる。


 嫌だ、嫌だ、嫌だ、やめろ!


 連れていくな、連れて行かないで。約束したんだ、ずっと一緒にいるんだって。置いて行かないで、連れて行って。


 腹が燃えるように熱い。それなのに、身体は震えるほど寒くて冷たい。地面に広がる赤い色。動けと願っても、身体は動かない。


「……あっ……あぁぁっ……‼」


 ぼやけた視界で陽の姿が遠くなる。陽の笑顔が幻のように揺らいで消えた。脳裏に焼き付いたのは、陽の虚な赤い瞳の色だけだった。

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