9-7

抉り取られた広場の一角を見つめる。

ほんの数秒前まで井戸川の姿はそこにあった。


積み重なったこれまでの思い出が根元から突き崩されて、胸いっぱいに散らばった。破片が跳ねる音が聞こえない。痛いのか、苦しいのか、わからない。

叩きつけられた現実に立ちすくむ。真っ白い世界に投げ出されたように感覚を見失う。


背後で砂利を踏む音が聞こえてきた。

犬養は一拍遅れて振り返る。身体が重たく思うように動かなかった。

ぎこちない動作で顔を向ける。


そこに立っていたのは、スーツ姿の男だった。

身体に合った黒のスーツ、糊の効いた白いワイシャツにシルクの赤いネクタイ。ジャケットの胸ポケットにはネクタイと同じ素材と色のポケットチーフ。


癖毛の黒髪に、顎や鼻のしたに短い髭を生やしたその男は、人当たりの良い朗らかな笑顔を浮かべていた。ひらひらと左手を振っている。


「やあ犬養くん。元気?」


バットの届かない間合いで立ち止まり、右手には銃を握っている。


「森山」


犬養は鈍く呟いた。バットのグリップを握る指先がぴくっと動く。力をなくした手元から滑り落ちそうだった金属バットを、五本の指が順番に握りしめていく。


森山は振っていた手で犬養のほうを指さした。

人差し指が示しているのは崩落した広場だった。


「いまの見てた?」


口の端を吊り上げた森山は、光のない黒い瞳をねっとりと細めた。

姿も、言葉も、その笑みも、人の形に押し固めた闇そのものだった。


犬養は顎と眉間にシワを浮かべて男を睨み付ける。


それに対し森山は仄暗い笑みを深めた。

人の死もそれを嘆く様子も、男にとってはコーヒーに溶かすミルクのように甘い嗜好に過ぎない。


金属バットを握りしめた犬養は駆け出した。敵の射線へ突っ込んでいく。吐き出したかった言葉や感情を込めてバットを振る。


唸りをあげる横なぎの攻撃を、森山は素早くしゃがみこんで回避した。深く身を屈めた状態から、犬養の軸足へ足払いをかける。


「くっ」


支えを崩されて体勢が揺らぐ。バットを振り抜いた上体が大きく乱れた。

森山の肘が犬養の腕を打つ。殴打の衝撃でバットを取り落とした。

さらに右の頬を殴られる。足元を崩されてからの連続攻撃に立て直す間がない。

ジャケットの襟を掴まれた。踏ん張ろうとばたつく足の後ろに、森山が外側から足を差し込んで来た。掴み取られた身体がぐいと押されると、相手の足に足を取られて背中から投げ倒される。抗いようのない一瞬のことだった。


地面の硬い感覚より先に、重い塊が背中を打ち付けてきた。痛みと衝撃が背から胸へ突き抜けて息が出来なくなる。一拍遅れてガシャンと乾いた音が聞こえた。ぶつかったものが崩れて形を変えたのが背面で衣服越しにわかった。


「がはっ」


石畳に黒い土と陶器の破片が飛び散った。犬養はそのうえに投げ出された。押し出すような苦鳴をあげ、植木鉢に叩きつけられた痛みに身体をくの字に折り曲げる。


倒れ込む犬養の襟首を森山が掴み上げる。

革靴の踵を軽快に鳴らして歩き出した。石畳のうえを犬養を引き摺っていく。

池の水面には睡蓮が漂っている。さきほどの爆発で天井からの瓦礫が降り注いでいたが、それらをすべて水底に飲み込んだ今は、静けさを取り戻していた。


男は池の前で立ち止まり、犬養から手を放した。


「痛ッ」


投げ出された池の縁に胸を打ち付ける。

痛みに歪んだ自分の顔が目の前にあった。乱れた吐息が水面に触れて水鏡が揺れる。濃い緑が入り混じった生臭い水の匂いを鼻先で感じた。水から漂う冷たい空気が顔を撫でてくる。

うつ伏せに倒れ、胸から上は池を覗き込んでいた。

犬養は瞬時に自分の状況を把握した。


「ッ!」


池の縁に腕をついてすぐさま身体を起こそうとした。


後頭部の髪が掴まれた。水面へと強い力で押さえつけられる。

前髪が水に浸かる。腕や背中、首に力を込めて抗う。持てる力と使える部分をすべて使って耐え凌ぐ。歯を食いしばり、鼻息で波紋が激しく波打っている。


「べつにきみに恨みがあるわけではないんだ。すまないね」


森山は犬養の頭を押し付けながらそう言った。申し訳なさそうな口調とは裏腹に、男の顔には薄ら笑みが浮かんでいる。


水鏡のなかで、歯を食いしばっていた犬養がぎこちなく口元を持ち上げた。


「生憎、こっちには腐るほどあるんだ。申谷の姿が見えねぇがどうしたよ、敵わないから逃げて来たか?」


「ははは。こんな状況でも威勢が良いなぁ」


男の朗らかな笑い声が響く。

森山が素早く左手を持ち上げた。

腕を横に突き出し、人差し指と中指で、飛んできたナイフを挟んで受け止める。

うっすらとした笑みをたたえたまま、男は刃物が投げつけられた方向を見遣った。


折り重なって倒れた緑の蔓のアーチ。その陰から身を乗り出していたのは、黒のライダースーツを着た、金髪を短く刈り込んだ女だった。

初めて邂逅したときの、突き刺すほどに凛とした様子は見る影もない。

目元を彩っていた濃いアイメイクは涙で滲み、隠していた少女の面影が覗いている。


瞳は真っすぐに森山を睨み付けていた。つり上がった目じりや噛みしめた口元だけでなく、彼女の全身から溢れる怒気は立ち昇る陽炎となって目視できそうだった。


「愛らしいほど恋する乙女だね」


鼻で笑うと、ナイフを投げ返す。

斜め上へと鋭い軌跡で飛んで行き、天井から剥落した照明を繋ぎ止めていたケーブルを切断した。機材の塊が女めがけて落下していく。


女の後ろから眼鏡をかけた男が飛び出した。女を抱えて前に転がると、掠めるように落ちて来た照明がアーチを押しつぶす。芝生に倒れ込んだふたりに飛び散った破片が叩きつける。


「紫! 緑ヶ淵!」


犬養は力任せに身体を起こそうとした。しかし、それ以上の力で押さえつけられる。

歯を食いしばって耐える犬養の荒い呼吸で、水鏡に映った姿が波打って揺れる。そこに森山も映り込んでいた。唇は軽薄な笑みで歪んでいるが、目には何の感情も浮かんでいない。


うつ伏せの犬養の背に腰を下ろした森山は、腰のホルスターから銃を引き抜いた。

無慈悲な冷たい銃口を肌で感じる。

神経が過敏になった首筋や後頭部の皮膚がじりじりと痛んだ。汗で濡れた手のひらを握りしめる。口腔内のわずかな水分で乾いた唇を舌で湿らせると、水面に映る背後の男を睨み付けた。


死を肌で感じても犬養の瞳は光を帯びている。


「そういや、思い出した」


ぎこちなく口の端を持ち上げた。表情を作る余裕など無いなか、無理矢理に浮かべた笑みだった。


「井戸川にオレを殺して来いっつったらしいじゃねぇか」


押さえつけて来る力に抗って首を動かす。

目尻で森山を捉えて、鼻を鳴らして笑った。


「テメェでやりやがれ。やれるもんならな」


男の顔にこれまでの軽薄な笑みはなかった。真顔のまま犬養を見下ろしている。

わずかな間をおいて、森山はそっと息をついた。


「……きみは本当に凄いな。いま出て来る言葉がソレだもの」


あざ笑うでも茶化すでもない。深い虚のような黒い瞳が感嘆に細められ、犬養へ向けられた。


「早く確実に殺しておいたほうが良さそうだ。きみはきっと、頭だけになっても噛みついてくる」


銃の引き金にかかった指に力がこめられる。

命を穿たれる瀬戸際でも犬養は森山から視線を外さない。


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