9-6

紫は鼻や目元を赤くして泣き続けている。

井戸川はゆっくりと慎重な動きで彼女の下から抜け出した。猛獣の意識が向けられないようにと、動作と物音を最小限に抑えていた。


「大丈夫だったか」


犬養が訪ねる。井戸川は紫から距離を取り、頭や服についた草を払い落としている。


「どうってことねーわ、だいたいアイツはいつもあんな感じだし」


なんでもないことのような口調だった。軽く転んだだけのような軽い物言いだ。

十歩ほど離れたところに紫が座り込んでいる。俯いて涙をこぼしている彼女に、緑ヶ淵が自身のローブを掛けていた。


その様子を眺める井戸川の眼差しは落ち着いている。


「紫にとっては死ぬほど大事なことだったんだろ」


犬養は思わず幼馴染を見遣った。

すると井戸川は「それより」と口にして顔を上に向けた。温室の汚れたガラス越し、映画館の建物を見上げている。


「残ってるヤツらはほとんど逃がせたと思う。誰かさんが中でドンパチ暴れはじめてよ、お陰で尻込みしてたヤツらを煽って動かすことが出来た。いま逃げ出さねーとマジで死ぬぞって。あんな説得力がやばいコト初めて言ったんだけど」


そこから臨むのは地上二階建てのくすんだ青色の低層ビルだった。映画館の大半は地下に埋まり、顔を出している部分は周囲の建物に見下ろされるようにしてひっそりと建っている。


建物のどこかに申谷と森山がいるはずだ。井戸川が聞いた騒動の発信源は二人だろう。そうなると、すでに話し合いは終了していて、次の段階に移っている。


「俺の目標はこれで済んだ。ついでに紫のとこの連中も回収して、引き上げようと思う」


「落ち着く場所が必要なら、うちの所長に言ってくれ」


「なにからなにまで悪いな」


苦笑いを浮かべて井戸川が言うと、犬養は「なに言ってやがる」と鼻で笑い飛ばした。


「お前が身体張ってくれたおかげで、たくさんのモンが助かったんだ」


映画館から逃がした、詳細な数がわかるのはすべてが終わった後になるだろう。独りで駆け回るには手に余る案件だった。恐怖という手綱を森山に握られながらも、井戸川はそれでも諦めなかった。そのおかげで何人もが家族や仲間のもとへ帰ることが出来たのだ。


「ありがとう」


井戸川は髪をかき回した。照れ隠しであることはバレバレだが、ふいに視線を足元に落として黙り込む。


一方で、助けられなかったものもあった。

工事現場に捨てられた眉に傷のある青年や、捨て駒にされ仲間に撃ち殺されたスカジャンの青年。裏ではさらに多くの犠牲が隠されているだろう。

彼らの死がよぎり、犬養も井戸川も手放しで喜ぶことは出来なかった。


「もっとうまくやれりゃ良かったけどな」


ゆっくりと息をついた井戸川は「でも」と続ける。


「目の前にチャンスがあれば多少の無理したってやってやる。てめぇんとこのあの男が言ってた。ホントそうだよなって思ってガッツ出た」


「良いこと言うじゃん。オレも見習わなきゃじゃん」


「てめぇもおんなじこと言ってそうだけどなァ」


二人は同じ方向へ歩き出した。

温室の入り口を目指し川沿いを進んでいく。

木製階段を昇る手前でおもむろに、井戸川が言葉を投げてきた。


「グループ辞めるってとき、俺が引き留めてたらどうしてた?」


「んなもん、かまわず辞めてたに決まってんだろ」


犬養は当たり前のように笑う。


「殴られようが刺されようが、殴り返して刺し返してでも辞めてただろうよ。こっちだって半端な気持ちで決めたワケじゃねぇんだ、あたりまえだろ」


「やっぱそうだよなァ」


井戸川は素直に頷いた。


「逆に聞くけど、そんなんでオレが辞めるのを止めると思ったか?」


「思わねェ」


「だべ?」


犬養は肩を竦めてみせる。

やがてどちらともなく笑い出した。まるで下校途中の学生のように声をあげて笑い合う。


足取りは同じ方へ向いている。

前を見据えていながらも目指す先は別々だった。

それぞれが選んだ進路。思いを込めて決めた道を前進していく。


「山下のバイク、持ってってやんねーと」


軽くなった足取りで井戸川が階段を駆け上る。温室の片隅、紫が乗り捨てた黒い車体のもとへと向かって行った。


犬養はそばの茂みに突き刺さった金属バットを見つけた。半ばまで昇った階段を降りて、蔓植物が絡みついた繁みからバットを引き抜く。金属表面の傷は目立つが曲がったりはしていなかった。


心強い武器を回収し階段の一段目に足をかける。


瞬間、井戸川の声が響いた。


「みんな逃げろッ!」


唐突な叫びに心臓を握られたように身体が跳ねた。

反射的に足が止まり、身体を屈める。


立て続けに銃声が轟いた。

温室内の明るい雰囲気が一気に崩れる。静まった心が瞬時に掻き乱れる。

握られた心臓がさらに絞られる。首筋に冷たいものが走った。


轟音が温室を揺さぶる。

陰々と尾を引く銃の音を吹き飛ばし、すべての感覚が爆発音に殴りつけられる。爆風が地面を舐め、木々を揺さぶり、茂みをなぎ倒す。


犬養は階段に伏せた。飛んでくる砂が音を立ててぶつかってくる。

天井のドームから割れたガラスが池に降り注ぐ。水面を覆っていた睡蓮の葉が破片もろとも水底へ沈んでいった。


爆風がわずかに弱まった。

階段に伏せたまま後方を見遣る。

倒れかかったつるバラのアーチの影に緑ヶ淵と紫の姿を確認する。周囲には粉々になったガラスが飛び散っていた。さらに天井から落ちた大きな照明がケーブルだけでぶらさがり揺れている。

緑のアーチが傘になりふたりは鋭利な雨から逃れることが出来たようだ。紫を抱き寄せて物陰に身を縮めている緑ヶ淵が、軽く手を挙げて無事を告げてくる。


犬養は慎重に身体を起こした。ゆるやかな風が髪やジャケットを揺らしてくる。突き刺すような燃料の臭いが鼻をついた。

階段を駆け昇る。微風に揺れる木々のざわめきが不安を煽って来る。


石畳には飛び散った葉や枝、ガラス片が散乱している。足元に生える植物は倒れ、爆発で揺さぶられたドームは息切れするような軋みをあげていた。


立ち込める黒い煙が薄らいでいく。

見ると、温室の壁面に大きな穴が開いていた。ガラスも骨組みも外に向かって吹き飛んでいて、煙や臭いが風にすくわれて流れ出していく。周囲の芝生や石畳が黒く焦げ、細い煙をあげて燻っている。


温室の外は円形の広場になっている。

山下のバイクが外に置かれたベンチのそばに横倒しになっていた。前輪がなく、後輪のクレームがくの字に曲がっている。あらぬ方向に歪んだハンドルがベンチの脚に絡まっていた。磨き上げられた車体の面影はなく、白いツバメのペイントは爆発で吹き飛んでいた。


バイクの残骸からさらに奥、温室から離れた、円形広場の縁。

井戸川がうつ伏せに倒れている。


「おい、大丈夫か!」


犬養はすぐさま駆け寄ろうとした。

だが、視界の端になにかが引っかかる。薄い膜のようなわずかな違和感だったが、反射的に一歩踏み出した状態から前方に飛び込んだ。乾いた銃声が弾ける。熱いものが身体のそばを抜けて、石畳に火花が跳ねた。


バイクが爆発する直前に聞こえてきた銃声。

温室内に新たな敵が潜んでいる。


前転から起き上がるとすぐに犬養は近くの木に身を隠した。

根元の茂みに埋もれるように身を屈める。そのなかで大きく息を吸って、勢いよく吐き出す。

ほんのわずかでも気を抜けば、意識の端からぐしゃぐしゃになってしまいそうだった。早く井戸川のもとへ行きたい。しかし姿の見えない敵がいる。一秒と惜しいなか、かろうじて紙一重で回避できた恐怖が遅れて足首にしがみついてくる。


「くっそ……!」


悪態ばかりが溢れだす。

犬養が身をひそめる場所から、井戸川のもとまでは直線で数十メートル。途中に遮蔽物はない。行けたとしても、開けた広場に身を隠す場所はなく、確実に二人揃って狙い撃ちされる。


状況を変えるものが落ちていないか、散らばった草木、割れた植木鉢、割れた窓、視線をめぐらせる。動きを止めている時間がもどかしい。奥歯を噛みしめて眉間を寄せる。


いっそ、敵を引き付けてこの場を離れたほうが最善か。いくつもの選択肢が渦を巻く。現実的なものから運任せな乱暴なものまで、まるで惑わせるように浮かんでくる。一か八かに賭けてみるか。犬養は自分の呼吸が乱れていることに気づかない。時間を重ねていくにつれて焦りで視界が狭まっていく。


足元が上下に鈍く揺れた。

頭上の木が枝を揺らして葉を鳴らす。

ドームは悲鳴をあげるように軋む。


「ッ」


外へ視線を向けた犬養の表情が引きつった。

広場を敷き詰める石畳がゆっくりと陥没しはじめた。老朽化ですでに崩れていた場所が、爆発の衝撃でさらに崩壊を進め、周囲を巻き込みはじめている。


広場の中央に建つ温室までは亀裂は迫ってこなかった。だが、広場の縁ではレンガの塊が剥がれ落ちその形を変えていく。

じわじわと傾いていくなかを、ガラスや木の枝や瓦礫が滑っていく。ベンチと一体になった黒焦げのバイクがけたたましい音をあげて斜面を流れ落ちていった。

土と埃が混ざったくぐもった臭いが立ち込める。


「井戸川!」


「来んなっ!」


倒れたまま井戸川が怒鳴った。彼のいる場所も傾いている。

飛び出そうとした犬養を、井戸川の声が止める。刹那、銃声とともに銃弾が近く木の幹を抉り、飛び散った樹皮が犬養に降りかかった。留まっていなければ撃たれていた。


大きく波打つ足元に腕をつき、井戸川は声を張り上げた。


「てめぇは、てめぇの仕事をきっちりやれ!」


瞬間、底が抜けたように石畳が陥没した。井戸川の姿が飲み込まれる。


広場の一角が滑り落ちて行く。崩れた瓦礫は大小の塊となって、地下に広がる水面へと落ちて行った。長年の雨水を溜め込んで出来た大きな池に無数の礫が降り注ぐ。石もガラスも分け隔てなく水の中に飲み込まれていった。


高々と、水柱が跳ね上がる。


「い……」


滴がまばらな小雨のように、崩れ果てた広場を濡らした。

犬養は息を忘れて立ち尽くした。

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