9-5

ガラス張りの天井から差し込む陽で刃が白く光る。

井戸川は地面に茂る葉を鷲掴んだ。毟り取ったものを紫の顔へと投げつけて叫ぶ。


「なんで変わっちゃいけねーんだよ! 悪いことみたいに言うなッ」


深い緑の匂いとともに葉々が舞い散る。


「成長したって思ってやれよ!」


視界を塞がれた紫の動きが鉈を振り上げたまま一瞬止まった。

隙にねじ込むように相手の腹部を蹴りつける。紫が後ろによろけた。足元から転がって距離を取った。


不意打ちをくらった紫が抉るように睨み付けてくる。


そんな彼女の背後に犬養が現れた。

滑るように駆け込んできた犬養が金属バットを振り下ろす。


気付いた紫が素早く動く。大鉈を頭上で真横に掲げて、雷撃のような一撃を受け止めた。凶器がぶつかり合う鈍い音が響き渡る。火花を散らして弾き合った。


後ろに飛んで距離を作った犬養は顎にシワを浮かべて紫を睨み付ける。


紫の目は驚きで見開かれていた。

やがて赤い唇に笑みが浮かびあがる。鮮やかなアイメイクで飾った瞳に生き生きとした輝きが宿り、瞬きのたび、まるで澄んだ水面で日差しが揺れるように煌めいた。

眼差しは一心に目の前の犬養へと注がれる。


「うわっ……え。み、緑ヶ淵?」


井戸川はそばにやってきたローブを見て身体を竦めた。だが、起き上がる手助けをしてくれたのが眼鏡をかけた見覚えのある男だと気づいて声が裏返る。


右手の大鉈を手元で回転させながら、片足に体重をのせて佇む紫が言った。


「ブチ。あんたが連れ出したの?」


ねっとりとした笑みで目を細める。

緑ヶ淵は眼鏡を押し上げてため息をつくと、声の主のほうへ向き直った。


「どっちみち彼はひとりで脱出してたよ。きみもわかってたろ」


「そうよね。まことちゃんなら出来ちゃうわよね」


紫はまるで自分が褒められたかのように表情をほころばせると、それを犬養へと向けた。犬養は何も言わず、眉間と顎にシワを刻み込んだまま、向けられた女の笑顔を凝視する。


「もう、こんなこと止めて帰ろうよ。付き合わされてるメンバーたちが気の毒だ」


「それであたしが、はいって言うとでも?」


赤い唇の端が皮肉げに持ち上げる。

それでも緑ヶ淵の様子は淡々と変わらない。


「絶対言わないだろうからメンドクサイんだよなって思ってる」


歯に衣着せぬ返答を面白がるように紫は笑みを深めた。それともそれは、仲間と同じローブを身に着けている姿をあざ笑ったのか、真意はわからない。


「さっき石黒に連絡をいれたよ。じきに人数を連れてやって来る」


「数と力で捻じ伏せるってこと」


「たぶん、もっと暴力的」


平坦な口調と表情の緑ヶ淵に対して、ころころと鈴が転がるように紫は無邪気に笑う。


「そういうの嫌いじゃない。正直で解りやすくて、寧ろ好き」


手にした鉈を手元で一回転させる。空気を切り裂く鋭い音に周囲の雑草が身を捩った。


「でも、まだやらないといけないことがあるから。時間を頂戴」


長い睫毛に縁どられた瞳が井戸川へと向けられる。とたん、鋭利な棘がその眼差しに宿っていく。彼女の奥底から枯れることなく湧き上がる感情が、毒を塗った刃のように瞳のなかで鈍く輝いていた。

紫は何も言わず、地面を蹴りつけ駆け出した。

長い足としなやかな体躯で加速する。井戸川のもとまで一息に距離を詰めていく。


緑ヶ淵が一歩前に出る。ローブ下から取り出した警棒を構えた。


しゃがみこんだ体勢で井戸川は手のひらを握りしめる。紫が踏み込み接近するごとに焦燥がシャツを強く引っ張ってくるようだった。鮮烈な色彩で咲き狂った毒花に飲み込まれそうになっている。

壁にならんと動いてくれた緑ヶ淵の背中を見上げながら、殴られた鈍痛が脈打つとともに響く側頭を押さえる。


紫の進路に犬養が滑り込む。同時に、唸りをあげたバットが横なぎに振られる。

潔いほどに頭部狙いの一撃だった。瞬時に反応した紫は飛び込み前転で回避。

しかし、振りぬいた勢いで身体を捻った犬養の、追撃の回し蹴りが紫を捉えた。咄嗟に腕でガードするが蹴り飛ばされる。


ドーム中央に広がる水辺まで、紫は後ろ向きに転がっていく。飛び起きた彼女の背後にある水面は睡蓮の丸い葉がひしめいて覆い尽くしていた。温室はさらに奥まで続いている。


犬養はバットを紫へと向けた。


「お前がすることはなんにもない。帰れよ」


「厭」


ねっとりと言葉を吐き出した紫の口元が歪む。毒を含んだ瞳が動く。犬養を捉え、その背後にいる井戸川を睨んだ。

まるで盾になるように立ちはだかる犬養へ、眉間と鼻筋にシワを寄せて威嚇するように目を剥く。


「どうしてあんな偽物を庇ったりするの」


投げつける言葉は棘を纏っていた。

緑ヶ淵は息をひそめるようにして見守りながら、犬養の背中を伺う。


「なんだよニセモノって。じゃあどっかにホンモノの井戸川がいるのか?」


バットを下した犬養は呆れるように肩を上下させる。


「まぁ、本物でも大したことなさそうだけど」


「オイッ」


すかさず井戸川から非難がましい声があがる。

紫は口の端を吊り上げるような笑みを浮かべて自身の胸に手を当てた。


「あたしが本物」


「お前はお前だろ。井戸川じゃない」


冷ややかな口調で犬養は言うが、紫は声に熱をこめて言い募る。


「アイツが出来なかったことをあたしが完璧にやってみせるから。そうしたら、あたしのほうが優れてるって、あなたに相応しいって、認めて頂戴。あたしのほうが本物だったって」


注がれる眼差しは日差しのように輝いていた。無垢な夢を話す少女のように声を弾ませて、頬を高揚させている。


一方で、眉間に小さくシワを寄せた犬養は淡々と話しかける。


「そんな面倒なことしなくても、お前が出来るヤツだってのは知ってるよ。けど、お前はお前で、あいつはあいつだ。お前はあいつの代わりにはならなし、あいつだってお前の代わりなんか出来ない」


極端すぎる温度差に気づいたように、紫の笑みが強張った。


「それじゃあ、あたしは本物にはなれないってこと?」


「本物とか偽物とか、どっちが優れているとか相応しいとか、そんな話じゃないって言ってんだ」


熱量も圧もない静かな言葉を受けた紫が少しだけ口ごもった。


「それじゃあ、どうしたら、あなたはあたしを見てくれるの?」


赤い唇から小さく漏れた。

その顔に輝くものはなく、道を見失った子供のような哀愁が浮かんでいた。


犬養は何も言わず、水辺に立っている紫を見つめる。

彼女はおもむろに、胸に当てていた自らの手へと視線を落とした。皮手袋の手のひらで掴みたかったものを確認するように、ぎゅっと強く握りしめる。


「……この話はあとでゆっくりしましょうよ」


再び顔をあげた紫の表情には笑顔が戻ってきていた。


「アイツも、便利屋も、復讐者だっていうあの男も、邪魔なものを全部片づけてあげるから。そうすればあなたは自由になれるでしょ。縛られてたって気付くでしょ。昔のあなたに戻れる。それでまた、あの椅子に座ってよ」


鮮やかなメイクを纏いながら、その瞳は純粋な輝きを宿していた。

日に焼けていないまっさらな頬を薄桃色に染めてはにかむ少女のような面影があった。

彼女の言葉に嘘はない。すべてが本音で、本当に思っている。


「それがお前がここにいる理由か。いつにも増して拗れ散らかしやがって」


犬養は片手に握る金属バットをおもむろに振り上げる。

そして、足元の石畳へと叩きつけた。貫くような鈍い音が温室いっぱいに響き渡る。井戸川や緑ヶ淵が身を竦ませる。


夢にまどろむようだった紫の身体が強張るように跳ねた。顔色は白くなり、笑みは消え失せていた。恐々としたぎこちない動きで視線を犬養へ向ける。


「俺がいつ、そいつらを邪魔っつったよ」


地を這うような低い声で犬養が吐き捨てた。


「それのせいで不自由だとか言ったか。どうにかしてくれってお前に頼んだか?」


眉間に深いシワをよせて、口元を不機嫌に歪める。研ぎ澄ましたナイフのような鋭い眼光を帯びた瞳で紫を睨みつける。


「お前が雑に一括りにして邪魔呼ばわりしたものは全部俺の大事なものだ。好き勝手言ってんじゃねぇぞ、ふざけるなよ」


額に汗をにじませた紫が、靴底を擦るようにわずかに後退した。彼女の表情に浮かんでいるのは、犬養の怒りを受けてあぶり出された焦燥。何度も小さく首を振っている。


「てめぇのほうこそ、俺を見てねぇじゃねぇか」


「あたしはいつだってあなたしか見ていないっ!」


心を削って絞り出したような、悲鳴のような声だった。

犬養は相手を見据えて言った。


「お前が見てんのは今の俺じゃねぇだろ」


紫が目を見開いた。

胸に投げ込まれた言葉が、紫が組み上げていたものを粉々にして吹き飛ばした。


求めていたもの、縋るもの、心を埋めていたものを一瞬にして見失う。何もない、真っ白な空間に独り、立ち尽くしているような気分だった。


もしかしたら本当は、随分前からそんな景色だったのかも知れない。

見ないふりをして、自分の求める幻想を作り上げて、撫でまわして擦り切れた思い出に寄りかかっていただけだったのかも知れない。


堰き止めていたものが流れ込んでくる。拒絶していた現実が目の前に迫って来る。

唇を噛みしめる紫は、風に吹かれただけで泣き出してしまいそうだった。

鉈を握る腕が小刻みに震えている。


「ッ」


紫は身をひるがえして逃げ出した。

水辺に沿って走って行く背中を犬養が追いかける。


睡蓮が水面を覆い尽くしている池から小川が伸びている。傾斜を流れ落ち、温室の奥へと続いていく。静かな水音を蹴散らかすように駆けるふたりの足音が響いた。


川沿いの岩場から対岸へ飛び移る紫。

犬養は木製の下り階段にさしかかると手すりに飛び上がり、強く踏み込んで跳躍した。

空中で風をはらんだジャケットが膨らむ。対岸の石畳に着地からの前転で衝撃を逃がす。


回転から身体を起こすタイミングで空の植木鉢が飛んできた。

起き上がりざまバットのグリップ尻で叩き砕く。乾いた破壊音とともに素焼きの破片が飛び散った。

大小の欠片のなかで何かが白く光った。

紫が放った小さなナイフが犬養の頬を掠めていった。

すぐさま真横に移動する。後を追うように立て続けにナイフが飛んでくる。


温室の最奥にはガーデンテーブルやイスなど、カフェの名残が生い茂る芝生に埋もれていた。テーブルの上を転がって回避していく犬養へ、踏み込んできた紫が鉈を振り上げる。


互いの言葉を代弁するように金属バットと大鉈が衝突する。三度目の打ち合いで弾き合う。

はずみでそれぞれの手元から武器が抜けた。勢いよく回転したバットが犬養の後方へ飛んで行き、川辺の階段そばの繁みに突き刺さるように飛び込んで行った。

紫の鉈は温室の奥へ放物線を描いて落ちていく。石畳に叩きつけられた刃が半ばから二つに折れた。


両手が空いた犬養に、サバイバルナイフを取り出した紫が肉薄する。


真横から駆け込んできた井戸川が紫へ身体ごとぶつかって行く。


「もうやめとけ!」


体当たりで押し飛ばされながらも、受け身を取った紫は素早く起き上がった。一方で井戸川は勢いのままゴロゴロと転がって草まみれになっていた。蔓バラが巻き付いた緑のアーチの下に投げ出される。

うつ伏せから起き上がろうとすると、そのシャツが乱暴に掴み取られた。力任せに仰向けに引きずり倒される。


「あんたなんかッ!」


紫が跨った。馬乗りになり、逆手に握りしめたサバイバルナイフを振りかぶる。見下ろしてくる紫の瞳には刺すような怒りや苛立ちが燃え滾りながら、真ん中には海の底へ続くような深い悲しみがあった。


ナイフを掲げた腕を犬養が掴んだ。

紫の背後に立ち、落ち着いた口調で言った。


「そんなヤツでも、代わりの利かねぇたったひとりの幼馴染なんだ。勘弁してくれ」


井戸川は背中に地面の硬さと冷たさを感じていた。緑の青い匂いが鼻先でする。伸びた芝生が揺れる音が耳元で聞こえてくる。その場から人が消えたような静けさだった。

ガラスの天井からの白い光が、蔓バラをまとったアーチに降り注いでくる。


自分に馬乗りになっている紫を見上げた。

唇を強く噛みしめて、抉るような鋭さだった瞳が揺れていた。やがて、目の際に溜まったものが溢れだし、白い頬を流れていく。紫は大粒の涙をこぼしていた。

犬養がナイフを取り上げる。抵抗はなく、指先はするりと柄から離れていった。 


刃物を手放して空いた手のひらが五指を握り込んだ。

拳が井戸川の胸に振り下ろされた。鈍い打撃音とともに足を跳ね上げて「う“っ!」と呻く。


「あんたなんか、ホント、大嫌い……ぐすっ」


井戸川が咽ているのを気にも留めず、紫は高揚した顔で鼻をすする。その間にも跨られている井戸川の胸元には滴が落ちてきてはシャツに染みこんでいた。


紫が声を震わせながら呟いた。


「……あの椅子は、これからもずっと空っぽのままなのね」


涙が言葉を詰まらせる。


「あなたは、もう、戻ってこない、のね」


「そうだな」


犬養は紫の後ろ姿を見下ろして静かに頷いた。


か細い嗚咽を漏らしながら、紫は背中を丸めて深くうなだれた。頬や顎や鼻先から大粒の滴がぽろぽろと落ちていく。


そこには毒をまとった花弁のような鮮烈さも、棘を含んだ鋭利な眼差しも、面影はない。

身体を丸めて声をあげて泣きじゃくる姿は少女のように純朴だった。


温室には明るさが満ちている。日差しを浴びた緑は陰影を帯びながら輝いていた。

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