9-4

吹き抜けに面した通路を井戸川は駆け抜けた。

後方からバイクのエンジン音が追いかけてくる。一瞬でも気を抜けばあっという間に追いつかれる。振り返って距離を確認する余裕もない。ゆるくカーブした先に見えてきたガラス扉へ、走ってきた勢いのまま体当たりをした。


扉が弾けるように開く。前のめりに転げそうになりながらも、どうにか体勢を立て直す。

息を荒げる井戸川を吹き上げてきた風がなぶった。

空気のこもった建物から屋外に飛び出した。押し込められた息苦しさから一気に開放される。昼下がりの穏やかな空が頭上に広がっていた。


石畳が敷き詰められた円形の広場に出た。石畳の間から伸びる草が揺れている。映画館の一階部分から伸びているそこからは地下三階までを見下ろせる。

賑わいがあったころは眼下にある緑の庭園へ遊歩道から降りていくことも出来たが、放置されつくされた木々は荒んで鬱蒼とした影をまといながら水底に沈んでいた。老朽で崩落した広場の瓦礫によって遊歩道は押し潰されていた。崩れ落ちて抉れた広場の一角には色褪せたカラーコーンに緩んだロープが張られていた。


広場の中央にはガラス張りのドーム状の建物がひっそりと建っている。

砂埃で灰色に曇ったガラスの向こうには、天井近くまで伸びあがった木々の姿が見えた。


井戸川は建物をめざして走り続けた。

バイクの唸り声が追い縋り、排気ガスの臭いが真後ろに迫ってくる。冷たい獣の気配を背中全面で感じ、緊張と焦燥と恐怖で首筋が刺されるように痛くなる。


内側に倒れた扉を踏み越え、ガラス張りのドームに駆け込んだ井戸川は密集している木の影に飛び込んだ。足元に生い茂る雑草がさわさわと揺れる。


ガラスの天井から差してくる陽で建物内は穏やかな明るさに包まれていた。南国を思わす木々が空を目指して伸びあがり、重たく茂った葉をぶらさげている。人の手から離れた温室には、さまざまな植物が生い茂っていた。


速度を出したバイクが一直線に突っ込んできた。

雄たけびを思わすエンジン音、悲鳴のような破砕音が響き渡った。

跳ね飛ばされた扉が破片をまき散らす。吹き飛んだガラスや木の欠片が広範囲に降り注ぐ。


井戸川は木の根元にかがみ込み頭を抱えて耐えしのぐ。


ライダーが車体を切り返し鋭いターンで反転した。タイヤが甲高い音を響かせる。後輩の見慣れたバイクのはずなのに、運転手が違うだけで飲み下せないような違和感が付きまとっている。


黒いフルフェイスのヘルメット、スモークを貼られたバイザーが井戸川を捉える。


「な、なんなんだよっ」


上ずった声をあげる井戸川の髪や肩から細かな木片が落ちていく。


「犬養の次は俺だってのかよ、森山さんか? 森山さんに言われてか?」


苦々しく表情を歪めて吐き捨てる。木の幹についた手が小刻みに震えている。足を踏ん張っていないと力が抜けていきそうになる。

バイクから逃れるための全力疾走、精神を突き刺してくるような恐怖、それらに心身を削り取られていくようだった。

それでも井戸川は苦々しい表情を向けた。


「つか、おたく、犬養どうした」


するとライダーは長い足を翻して車体から降りた。

黒いフルフェイス。バイザーには黒色のスモーク。黒のライダースーツ。踏み出すとヒールがカツンと鳴った。


「……あんたのことはずっと〝偽物〟って思ってた」


くぐもった声が聞こえてきた。

井戸川は目を丸くして、口をぽかんと開けたまま、ライダーを見た。


声は確かに、フルフェイスのヘルメットのなかから聞こえてきた。


「彼のそばにいるのが、どうしてあんたなのか、納得できなかった」


ライダーは身体の後ろに腕をまわした。そして取り出したのは、刃渡りのある大きな鉈だった。

短く息を飲み込む井戸川へ、凶器を握りしめて近づいてくる。


「あんたの所為なのよ。グループを辞める彼を引き留められなかった、あんたの。便利屋なんかに盗られていったのも、そこから彼が変わってってしまったのも全部」


踵を荒々しく打ち鳴らしながら、右手の大鉈を振り回す。撫でられるように刈られた雑草が舞い散り青い匂いが漂う。


「そんなのが幼馴染だなんて、彼の副官だなんて、苛立ちで胸が腐るわ。彼にふさわしくないガラクタみたいな偽物なのよ」


「……さすがの俺でも、見ず知らずのヤツにそこまでディスられる覚えはねーぞ」


井戸川は眉間を歪めて言った。


「お前もしかして、紫か」


切り落とされた白い花から解けた小さな花弁が降ってくる。


ライダーは立ち止まり、ヘルメットを脱いだ。

シャープな輪郭を描く白い肌、大量のピアスが穿つ耳朶、短く刈り上げた金色の髪。長いまつ毛に縁どられた目元を鮮やかなアイメイクが彩る。

華やかな色彩とは真逆に、彼女の瞳には手にしている凶器以上の鋭さがあった。


「じゃあ、地下通路で犬養を追いかけてったのもお前だったってことか」


「まことちゃんなら無事よ。安全なところに居てもらってる」


紫はヘルメットを投げ捨てた。赤い唇には笑みが浮かんでいる。


井戸川は鼻を鳴らして苦笑いをうかべてみせた。余裕ぶった表情を浮かべたかったが、押し付けられている現状に口元が引きつってしまう。顔の筋肉が強張ってうまく動かない。


「こんなトコに安全な場所なんかあんのかよって感じだけど」


「あるの」


紫のほうが落ち着いていた。その声音も表情もおだやかなものだった。


「用意したの。森山とかいう男に持ち掛けて、戦力と人数を提供する代わりに、まことちゃんはあたしがもらうって。だから地下通路で捕まえて、手足縛って動けなくして、見張りを置いた安全な部屋に閉じ込めてる」


彼女はうっとりと目を細める。

井戸川は口を開けたまま立ち尽くした。


「……なんで、んなこと……」


それ以上何も言えなかった。言葉がでてこない。思い浮かばない。

森山の薄暗い笑みが呪いのように脳裏に居座り続けている。背筋が冷たくなる。

距離を置いて向かい合う紫という女を見る。


すると、紫の表情がさっと切り替わった。まるで言葉の通じない虫を見るような、感情のない無表情が向けられた。しかし眼差しは、軽蔑や侮蔑をすり潰して混ぜあわせたような、棘のある毒花を思わす滴る憎悪をいっぱいに溜めていた。


「まことちゃんは変わっちゃったわ」


足元に落ちた花をブーツのつま先で踏みつぶしながら紫は言う。


「尖ってたものがなくなっちゃった。いろんなグループや沢山の人たちを引き付けていたキラキラしたボスの面影が見当たらないもの。便利屋に捻じ曲げられちゃったのよ。かわいそう」


潰れた花に話しかけるように俯いて、ぽつぽつと言葉が漏れていく。


「ねえ、どうしてあの時、彼を引き留めてあげなかったの? あんたが止めてればこんなことになってなかった。彼はあの頃の彼でいられたのに、あそこから全部おかしくなった」


「ちょっと待てって。それは」


井戸川の言葉を、とぐろを巻くような暗い視線が押しとめる。


「だから取り戻すの。彼を変えた便利屋も、あんたも、ぶっ壊してぶっ潰す」


大股で歩き出した紫と距離を取り、膝まで伸びた繁みのなかを移動する。草をかき分け、ジーンズの裾に引っかかって小枝が折れる。水たまりに突っ込むが気にしている余裕はない。


「代わりはあたしがあんた以上にやってあげる。それで彼も気付いてくれる。あんたなんか役に立たない偽物だったって。あたしのほうが何億倍も役に立つ本物だったって」


硬いものにつまずいた。井戸川はつる植物が覆っている地面に倒れ込む。壊れたガーデンテーブルが繁みに埋もれていたのだ。濃い緑色の葉が広がるなかに腕をついて起き上がろうとした。


しかし、やってきた紫が大鉈の柄尻で側頭を殴りつけてきた。吹き飛ばされるように仰向けに転がると、両手を添えた鉈が大きく振り上げられた。


「邪魔なものを全部片づけたら、きっと彼が戻ってきてくれる」


見下ろしてくる紫の瞳は井戸川を見ていない。

井戸川の形をした憎悪にしか映っていなかった。

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