9-3

通路には同じ扉が並んでいた。薄暗い闇がわだかまる天井から、剥脱した電灯が配線だけでぶら下がり、蜘蛛の巣が張っている。

人影はない。遠くから足音のような騒々しさが聞こえて来るように思えたが、静けさゆえの耳鳴りとも、気だるく回る換気扇の音とも思えた。廃墟の映画館の最深部に抱き込まれるように感覚が鈍っている。


犬養は申谷たちのことを考えた。

申谷は森山を見つけ出せたか、井戸川は身動き取れなくなった仲間たちのもとへたどり着くことが出来ただろうか。幻聴のように聞こえて来る物音が彼らの足音である可能性も充分にある。


「こっちだよ」


廊下を進み、三つめの角を緑ヶ淵が曲がる。ローブをまきつけた犬養はフードを目深に被りながら同じローブ姿の背中に続いていく。


「案内してくれるのか」


「さっき言ってたライダーを見てみたいんだ。一緒にいたら見られそうだから」


緑ヶ淵は並んだ扉を注視し、声を抑えながらそう言った。

犬養も首元のローブを引き上げて口元を覆い隠す。


「そんな流れ星かなんかみたいに言うなよ」


通路には封の空いた段ボールと、紐で括られた映画雑誌が乱雑に置かれている。


「つか、お前も地下通路から来たんだろ。見かけるチャンスあったかもだぜ」


「あ、ぼくはちゃんと礼儀正しく一階の正面口から来たから」


何気ない口調の言葉に、犬養はおもわず相手の背中を見上げた。


「施錠されてたんじゃないのか?」


「うん。だから普通にピッキングして」


「あんま外で言うなよ、そういうの」


「得意なんだけどな~」


緩くカーブした通路が伸びていて、トイレの案内が出ていた。壁際に積み上げられた黒いゴミ袋が道の半分を塞いでいる。それを避けながら進むと、ゴミ袋の山の影でひとりのローブが丸まっていた。


膝を抱えて縮こまっていたが、犬養たちに気付くと素早く立ち上がった。

顔はマスクとゴーグルで隠れていて表情はわからない。だが、ローブを握っていじくっている手元が、気まずさのようなものを表していた。小さく左右に揺れて落ち着きがない。


緑ヶ淵は右手を上下に動かせて見せた。

動作だけで座るように促すと、相手のローブの肩から明らかに力が抜けていく。身体を奮い立たせたものが消えたのか、まるで萎れるように背中を丸めてその場に座り込んでしまった。膝を抱き寄せて顔を埋める。くぐもったかすかな嗚咽が聞こえて来る。


「地上三階から順に様子を見て来たけど、たまにあぁいう子がいる。限界なんだろうね」


歩き出した緑ヶ淵が静かに言った。

犬養の背には押し殺したか細い泣き声が聞こえて来ていた。


「限界……」


地下通路で遭遇したローブたちは犬養の前に立ちはだかった。一方で、ゴミ山の影に隠れて膝を抱えて震えている姿。同じ格好をしていながらまったく別の様相を見せている。緑ヶ淵の言葉がきっかけとなり、犬養はローブ姿の集団へ違和感を覚えた。


正体を覆い隠している分厚いローブ。

その下にあるもの。


「……あいつらは何なんだ? なにか知っているのか?」


ふたりの行く手が明るくなり視界が開けた。

絨毯の敷き詰められた半円形のホールだった。等間隔に円柱の柱が立ち並んでいる。上階まで達する巨大な窓から注ぐ日中の光が、地下から地上までの吹き抜けを照らし出していた。


獣が喉を鳴らすような音が響いた。

バイクのエンジン音が映画館の高い天井いっぱいに反響する。ヒステリックなブレーキ音が上階から降り注いでくる。


「!」


犬養の身体を緊張が駆け抜ける。その場で天井を見上げた。

音を追えばライダーに遭遇できる。森山と結託しているのなら、申谷か井戸川を狙っている可能性もある。どちらかと合流出来るかもしれない。


周囲を見回す。右手の方向にエスカレーターがあった。停止したそれは階段そのものだった。


「……あのさ。これはぼくの勘でしかないんだけど」


駆け出そうとした犬養へ、緑ヶ淵が言う。凪の海のような静かな声だった。

平坦な声音にも関わらず、尾を引くエンジン音に負けず、耳朶に入り込んで来る。


思わず動きを止めて相手を見上げた。

緑ヶ淵は真っ直ぐに犬養の目を見ていた。いつもなら、視線が合いそうになると顔ごと逸らして逃げていく。そんな男としっかりと目が合った。


「そのライダーって、紫ってことない?」


「は?」


「ローブを着ているのは彼女のグループのメンバーたち」


淡々とした言葉だった。

感情の見えない台詞が犬養の脳を通り過ぎていく。物音もなく流れ去った言葉は、ひっかき傷のような足跡を残していた。瞬きを繰り返している間にも、傷跡が熱を帯びて燃えはじめていた。

渦巻くように混乱する感情と、押し出すことが出来ない様々な言葉に燃え移り、炎が大きくなっていく。


「この流れで聞いてくれる? ぼくがこんなところにいる理由」


緑ヶ淵は伏し目がちに、ため息交じりに呟いた。

何も言えず、首を振ることも出来ずに立ち尽くしている犬養の返事を待つことなく、男はそのまま言葉を続けた。


「紫がいなくなったんだよ」


淡々とした声が静かな波紋を広げるように耳朶に滑り込んでくる。


「正確に言うと、紫たち。彼女のグループのメンバーも揃って。連絡もつかない。夜中の定例会議が終了して解散、その数時間後の朝方、そのことがわかった」


犬養が苦い表情を浮かべたのを見て、緑ヶ淵は眼鏡を押し上げる。飛んでくる鋭い視線を避けるように目元を手で隠した。


「別にどこに行こうといいんだけど、ちょっと嫌な話を聞いちゃって。いなくなる前、彼女たちが中州の話をしていたって言う人がいて。閉館した映画館がどうとかって」


緑ヶ淵の抑揚のない声が少しだけ低くなる。


「知ってると思うけど、この中州って土地は頭のおかしい組織がいくつも関わって一生揉めている。どんな理由であれ、遊び場にしてるって知られたらまずい。目を付けられるのは紫だけじゃ済まないし、グループのメンバーたちや、ぼくらのグループ、石黒のところだって余裕で飛び火してくる。さすがにスルーは出来なくて」


耳のあたりを掻きながら気だるげに吐息をつき、


「だから、彼女たちが本当にここに居るのか確かめに来たんだよ。したらさ、こんなことになってるじゃん? これ絶対サブクエストとかじゃないよね。メインストーリーに関わって来るイベントなんじゃないの?」


犬養は唇をつぐんだ。

頭の中はこんがらがった糸のようにぐしゃぐしゃになっていた。絡まったものを、丁寧に解いていくにしても、力任せに引っ張るにしても、時間が欲しかった。


「……もしも、ホントに紫たちだったらどうするんだ?」


かろうじて出て来た言葉。


「誰かに知られる前に、何もなかったってことにしないと」


そう返して緑ヶ淵は、ローブの上から腰のあたりを叩いた。ベルトに提げた愛用の金属バットを指していることに気付いた犬養は少しだけ表情を歪めた。


「連れて帰るだけだよ。彼女を止めればメンバーたちも解放出来る。ただ、大人しく聞いてくれる訳がないから、街で待機している石黒が何人か連れて応援に来るって段取りになってる。乱暴なことになるけど仕方がないよねって」


犬養は喉の奥で短く唸った。

地下通路で遭遇したライダーを思い出す。ライダースーツに、黒いフルフェイスのヘルメット。スモークで覆われたバイザーの奥にあったのは、よく知っている女の顔だったのだろうか。


肯定も、否定も、判断できるほどの確信がない。

断言できないぶん気持ちが揺れる。困惑が犬養の心を強く揺さぶっている。


昨夜の彼女の言動がよぎる。蝋燭に照らされた窓辺に座った紫は、石黒に尋ねられて「興味がない」と答えていた。その言葉が嘘か真実か、知りえるのは本人だけだ。


もしも本当にライダーの正体が紫なのだとしたら。

フルフェイスで正体を隠して対峙したとき何を思っていたのだろう。


「あいつ、なに考えてんだ……なにがしたいんだ……?」


苦い表情で呟きながら、犬養は上階へ向かうエスカレーターへ足を進めた。

ローブの裾を翻した緑ヶ淵が続いていく。


「まぁ、紫だからね。いつもなら突飛なことしても、すごい発想力だなぁぐらいにしか思わないけど。今回ばかりは場所が悪い」


男は「でも」と言葉を続ける。


「正直、きみがここに居るってわかった時、すごい安心したよ。きみなら彼女と話が出来る」


「やっぱり聞くんじゃなかった。他所に首を突っ込んでる場合じゃねぇんだよ」


苦い顔で犬養が呻くと、緑ヶ淵は声を抑えて笑った。


「こんな言い方ずるいけど、危ないところを助けてあげたろ?」


「お前、最初からそういうふうに持ってくつもりだったのかよ」


紫と石黒に隠れがちだが、多忙なリーダーに変わり副リーダーを務める男。ひとりで黙々とゲームをしつつも、その目もその耳も、周囲の一挙手一投足を注意深く拾い上げている。


「聞く聞かないはきみ次第だったよ。まぁ、きみは耳を貸してくれるだろうし、そうなればなにかしらの手助けしてくれるっていうルートは最初から見えてはいたけれども」


相手は口角に笑みを浮かべ続けている。読みがぴたりと嵌ったことで満足そうだった。

犬養は舌打ちをすると、大きく息をついた。


「あとで特別料金請求してやろ」



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