9
「……はっ!」
目を覚ましてはじめて、犬養は自分が意識を失っていたことに気が付いた。
マットが敷き詰められた床に右肩を下にして横たわっていた。埃と湿気と化学繊維の合わさった臭いに鼻腔がむずむずしてくる。
身体が動かせない。両腕は後ろで拘束されていた。ダクトテープでぐるぐる巻きになっている。足首も同じように束縛され、力をこめた程度ではびくともしない。
「くっそ。良い仕事しやがって」
悪態を吐き捨て、横になった状態で周囲を見回した。
「つか、どこなんだここは」
天井に届くスチール製の棚が等間隔に並んでいる。すべての棚に段ボールが詰め込まれ、収まり切らない箱は床のうえに無造作に積み上げられていた。物置として使われている一室のようだった。
床のブラウンのマットが埃を被って白くなっている。犬養のまわりに付いた複数の足跡が、棚のあいだを抜けて扉へと続いていた。灰色の扉のうえで換気扇が淡々と回っている。
部屋には窓がなかった。
時刻がわかるものがない。拘束のせいで腕時計は見えない。スラックスのポケットに入れていたスマホはショルダーバックとともになくなっている。
地下通路で森山たちと相対してから、どれぐらい経過しているのかわからない。
喉の渇きや腹の空き具合からそこまで経っていない気がした。
しかし、確実に時間は過ぎている。巻き返すために一秒でも早く動き出さなければならない。
犬養は扉の前まで転がって行った。身体を起こして耳を澄ませる。
部屋の外から、かすかに話し声が聞こえて来る。扉を挟んでいるせいか、声はくぐもっていて言葉は不明瞭で何を言っているのか聞き取れない。そこには少なくとも二人は居るようだった。
揃いのローブをまとった集団のことを思い出す。彼らが見張りに付いているのかも知れない。
ローブの集団に、ライダー。
そして森山。
ライダーは犬養に狙いを定めて申谷たちと引き離してきた。捕らえて拘束されているのは、申谷に対する人質のつもりなのだろうか。申谷の抑止を狙うなら利点があるのは森山だ。
では、ライダーやローブたちの目的は何だ?
少し前に知り合った、と森山は言っていた。ライダーたちのほうから協力を持ちかけられた、とも口にしていた。だが、奴らが正体を隠しているぶん、その狙いは検討がつかない。
犬養はふたたび床を転がり、扉と反対側の壁際まで移動する。
上半身を起こし、後ろに拘束された腕を強く引っ張った。押したり引いたりを何十回と繰り返すが、乱暴に巻かれたダクトテープは逃がすまいとしがみついている。
それでも諦めず身体を揺すりながら腕を力任せに動かし続けた。何としても自力で脱出しなければ。
正直、自分に人質として意味があるのかは激しく疑問だ。
しかし、捕らわれたままでは確実に申谷の足を引っ張ってしまう。
度合いがどうであれ、それだけは絶対に避けなければいけない。
便利屋として、依頼人に迷惑をかけるわけにはいかない。指名してくれた牛尾所長や前所長の牛尾雅美たちの信頼に応えられない。犬養自身の矜持に反する。
なによりも、たった独りで親友の仇を追い続けて来た申谷の力になれない。
「おっ……」
やけくそ気味に腕を振ると、床に置かれた段ボールに肘がぶつかった。
乱雑に積み上げられていた箱がバランスを崩す。一抱えほどの大きさの段ボールたちが、となりの山を巻き込みながらゆっくりと倒れていった。
物置部屋がわずかに揺れる。床に落ちた段ボールがひしゃげる。さらに上から降って来た荷物に押しつぶされて、残骸が積み重なっていく。中身が散乱し、チラシや冊子、ボールペンなど雪崩のように飛び出して床を埋め尽くした。
扉の向こうがにわかに騒がしくなる。
慌ただしい足音がして、そっと扉が開いた。ローブのフードとマスクで顔を隠した人物が慎重な動きでのぞき込んで来た。
犬養は棚の影に潜んで、その様子を伺う。
部屋に入って来たローブが、散らかった床を見て驚いているのが、表情が見えなくてもわかった。あたりを見まわして、並んだ棚のあいだに犬養の姿を探している。
行く手を塞ぐ潰れた段ボールを退かそうとしてローブが身体を屈めた。
その一瞬。犬養は動いた。
棚の影から前転で飛び出して、屈みこんだローブの頭を両足のあいだに挟み込んだ。捕らえた相手を棚に叩きつける。マスクの下からうめき声が聞こえた。足に渾身の力を込めて倒れ込んだローブの首を締め上げる。相手は犬養の足を叩いてギブアップを訴えている。
さらに入り口には別のローブの姿があった。仲間の状況を見て、部屋に一歩踏み込んだところで足を止めている。戸惑いを表すように両腕が宙を彷徨っている。
その背後にもう一人、ローブがふらりと現れた。
「ちっ、三人いやがったか」
捕らえたひとりを盾にしてどこまでやれるか。
苦い逡巡。
その数秒のあいだに、三人目のローブが入り口で固まっている仲間の背を押した。後ろ手で扉を閉めると、まとうローブの下から長い棒状のものを取り出した。
丸みがかり膨らんだ先端からくびれていくグリップ。銀色のその表面には無数の傷やへこみがある。
両手で握りしめた金属バットが、音もなく静かに振り上げられていく。
「え」
声を漏らしたのは背中を押されたローブだった。振り返った状態で呆然としている。
バットが一息に振り下ろされた。鈍く固い音が密室を揺らす。
頭を殴られたローブが崩れ落ちていく。
犬養も、足で捉えているローブも、息を堪えるように硬直した。
殴り倒した相手を跨ぎ越し、バットを手にしたローブが近づいて来る。
「おい、どうなってんだよ。思いっきりどつかれてるぞ、仲間じゃねぇのか!」
足に挟み込んでいたローブを解放しながら犬養はまくしたてる。
ローブは思い切り首を横に振った。必死さが滲みだした仕草の途中でバットが横っ面に直撃した。悲鳴もなく、犬養にもたれるように倒れ込む。
「!」
バットを手にしたローブが立ちはだかる。
室内へ視線を飛ばす。立ち並ぶ棚、積み上げられた段ボール、床に散らばるチラシ、拘束された手足でも可能な退路を考える。不安要素が山盛りだが動くしかなかった。
おもむろに、バットのローブが人差し指を立てた。
マスクをした口元へ当てると、
「しっ。おれだ。助けに来た」
くぐもった声でぼそぼそとそう言った。
犬養は険しい表情のまま、ぽかんと口をあけた。相手がふざけているのか、本気なのか、判断することが出来なかった。
数十秒の沈黙のあと、ローブがもごもごと言葉を続けた。
「っていうの、一回やってみたかったんだけど。実際にすると気恥ずかしいことがわかった」
抑揚のない口調で言い、フードを脱いだ。
寝癖のように毛先が跳ねた髪。ゴーグルとマスクを外して、気だるげな猫背の青年は懐から取り出した分厚い眼鏡をかけた。途端、見知った顔が現れた。
「
昨夜の紫や石黒たちとのグループ定例会議で、騒がしい周囲を気にせずひとりゲームにふけっていた姿を思い出す。
思いもよらぬ相手の出現に、犬養はただただ目を丸くした。
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