2-7

井戸川はしばらく歩いて、後ろを伺った。

犬養と連れの男の姿はすでにない。安堵の息をつく。胸の底にはイライラした感情がこびりついている。そしてもやもやとした一抹の不安も感じていた。


足早に歩き続ける。

古いマンションが立ち並ぶ区域にたどり着く。夕暮れの影をまとった建物が陰鬱にたたずんでいる。どこかで野犬がケンカしている。甲高い悲鳴のような鳴き声だけが響いていた。


通りに面したその公園は、三方をマンションに囲まれて、覆いかぶさるような影のなかにあった。

放置された樹木に囲まれた、小さなスペースだ。

手入れされていない藤棚の下に汚れたベンチがある。さび付いたジャングルジムと動物を模した滑り台が日陰のなかでじっとしている。


子供の声とは無縁のような公園で、ひとりの男がブランコに腰かけていた。


「ゲームっすか」


井戸川はためらいながらもそっと声をかけた。

黒いスーツを着たその男は両手でかまえたスマートフォンから顔をあげないまま、口元に笑みを浮かべて返事をする。


「そう。ねこを集めているんだ」


「……おもしろいですか」


「大量の猫に餌付けしている家は、はたして近隣との関係は順調なのだろうかと思うと、とても面白い」


ブランコに腰かけた男はスマートフォンを操作しながら、指に煙草を挟んでいる。白く煙が立ち上る。足元にはコーヒーの空き缶が置かれていて、飲み口から吸殻が飛び出していた。


男はクセのある黒髪で、無精ひげを生やしている。糊の利いた白いワイシャツに、身体に合った仕立てのスーツを着ていた。赤いネクタイが、公園を呑み込む建物の影の中でも生えている。


そばに佇んでいる井戸川を見上げると、男は静かに目を細めた。


「そういうきみは、いつにも増しておもしろくないって顔をしている」


相手の言動を絡めとるような、粘着質な笑みが男の目元と口元に浮かんでいる。

井戸川はその視線から逃げるように別の方を見た。それでも鎌首をもたげた蛇が獲物を狙っているような気配を感じた。


「来るときちょっと、嫌なヤツに会って」


「それは気の毒に」


その言葉に少しの感情も宿っていない。


「あの……。森山もりやまさん、話ってなんですか」


目を合わせないまま井戸川が尋ねると、森山という男は煙草を口にくわえた。空いた手でスーツのポケットを探っている。


「例の定時連絡がなくなった。おそらく作戦は大失敗だろう」


森山は煙草の煙に目を細めている。

井戸川は胸の奥が冷たくなるのを感じた。


「え、失敗って……。それって……」


「死んだんだろう」


感慨も感情も微塵もなかった。煙よりも軽い言葉だった。


「安心したまえ。想定のうちだ。はなから初手で仕留められるとは思っていないからね」


「じゃあ……捨て駒だったってことですか」


森山は、井戸川を見上げると、煙草を指で挟んで煙を吐いた。

ぎこちない表情で目を合わせない青年に対し、粘度のある笑みをうっすらと浮かべる。


「そんなことはない。得物を檻に誘い込むための必要な犠牲だった。そのおかげで彼はこの街に何かがあると強く思っただろう」


ブランコが呻くように軋んだ。

井戸川のまえに一枚のカードが差し出される。


「ひとりだけ生き残りがいるようだ。GPSを仕込んだ服が路地裏に脱ぎ捨ててあった」


受け取ったのは運転免許証だった。顔写真の人物は幼い目元をした茶髪の青年だ。右眉に古い傷跡がある。持ち主の年齢は井戸川よりもふたつ下だった。

森山は口元に笑みを浮かべて言った。


「逃げた犬を捕まえて来てくれたまえ」

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