2-6

「びっくりするほど収穫なかったな」


年期の入った店先の暖簾をくぐりながら犬養が唇を尖らせた。

後ろに眉間と顎にシワを刻んだ申谷が黙り込んでいる。ふたりがあとにした定食屋の扉から「また来てね」と老夫婦の声が聞こえて来てくる。


「誰も覚えちゃいねぇ。そもそも切り盛りしてんのは八十近いじいさんばあさんだから、人の顔とかそんなはっきりと見ちゃいねぇよな」


唸るように言って、犬養は歩き出す。駅前に密集している真新しいビル群のあいだを通る狭い道を進んで行く。陽が傾き出し、通りには制服姿の学生が目立ちだしていた。


「いつもならバイトの姉ちゃんがいるんだ。彼女ならなんか覚えてるかもとか思ったけど、こういう時に限って休みとか。ちょっと当てが外れちまったな」


犬養が後ろを歩く申谷を振り返る。

むすっとした表情でついてくる大男を見上げて、「ま」と肩の力を抜いて言った。


「こういうこともある。いつものことだ、どうってことねぇぜ」


申谷は返事をせずに、眉間にシワを寄せたまま、犬養を見下ろしていた。


「あ、誠くん」


道の先からやってきた学生の集団のひとりが、親し気に手を振っている。

それに気が付いた犬養も表情を明るいものに切り替えた。


「まえに仕事で知り合った高校生だ。なんかないか聞いて来るから、待っててくれ」


そして小走りで学生のもとへと駆けて行った。犬養のほうが年上のはずなのに、身長はほとんど変わらない。その所為か、紛れてしまえば歳の差などほとんどわからない。


聞こえて来る無邪気な笑い声。

耳に入り込んでどこかへ消えていく。

心に反響しない。なにも感じない。虚ろな空洞となった体の中に子供たちの笑い声が陰々とこだまして、やがて溶けていったように聞こえなくなる。ただの音だった。申谷は表情を険しく固めたまま佇んでいた。


「ごっ」


建物のあいまから出て来た男が申谷にぶつかってきた。

肩と肩が当たり、スマートフォンを手にした若い男がよろめいた。


「おい、なに突っ立ってんだ。邪魔だ」


「勝手にぶつかって来たんだろう」


「は? ふざけてんなテメェ」


男は申谷を睨みあげる。黒髪を短く刈り込んで、無精ひげを生やしている。両耳でゴールドのピアスがちかちか光るのが目障りで、申谷は眉間のシワを深めて目を細めた。


「バカにしてんのか。テメェ見ねぇ顔だな、他所もんだな」


語気も荒く言葉を投げつけて来る。

申谷は男をまっすぐに見下ろして言った。


「本当にこの街の人間は知らない顔に反応するんだな。そういう習性なのか?」


すると相手の眉間に血管が浮かび上がる。

顔が高揚し、睨みつけて来る目に明らかな怒気がみなぎった。

それでも申谷は低い声で淡々と言い捨てた。


「馬鹿にはしていないが愚かだとは思っている」


「……このっ野郎ッ!」


男が握りしめた拳を振り上げる。

躊躇いなく突き出された腕を軽く避けるた申谷は、逆にその腕を取って捻り上げた。関節をねじられた男の情けない叫びが響き渡った。


「え。なにしてんの」


戻って来た犬養が足を止めて、しげしげと眺めている。

申谷のことを口汚く罵っていた男が、犬養のほうへ血走った眼を走らせた。


「テメェの知り合いかよ! どうにかしろ犬養!」


「うわ。どこのバカかと思ったら井戸川いどがわじゃん。遊んでもらってんの? 楽しい?」


「こ、このクソチビ!」


「遊んでくれてありがとうな。こいつ暇人だから見境なく絡んじゃうんだ」


突き放すように解放された井戸川が前のめりによろめいた。地面に手をついて態勢を立て直すとすぐさま、犬養を睨みつける。怒りと激痛で顔は真っ赤になっている。


「知り合いか」


申谷が冷たい眼差しで問うと、犬養はため息交じりに「ただの腐れ縁だ」と答えた。


「テメェの声聞くとこっちまで身長が縮むから黙ってろ」


「じゃあその耳塞いでろ。似合わねぇピアス付けてねぇで耳栓してろや」


「くそが。御自慢気にネクタイピンなんかつけやがって、ホント腹立つ」


ふたりは悪態を投げつけあうと、同時に舌打ちをした。

井戸川は手についた砂埃を払い落しながら、申谷を目じりで見上げた。痛い思いをしたからか距離を取っている。


「そいつ、便利屋の人間か」


「まぁそんなとこだ」


犬養は他所を向きながら適当に答えた。

井戸川はそんな言葉を噛みしめるように苦々しく表情を歪めた。いくら悪態をついても晴れることのないように、鬱屈した感情を隠すこともしない。イライラとした雰囲気を漂わせている。


申谷と井戸川のあいだに入り込み、犬養は尋ねた。


「それはそうと、最近なんか、変わったことないか?」


金のピアスをいじりながら、井戸川は口元を歪ませる。


「どんなだよ」


「たとえば、知らない人間がうろついているとか、声をかけられたとか」


「そいつのことだろ」


顎でしゃくるように申谷を示す。


犬養は「は?」と吐き捨てて顎にシワを作り上げる。


「だったらわざわざお前に聞く意味ねぇだろ。ホント、あれだな。鹿と馬だな」


「鹿と馬……? なんだそれ、わかりづれーなぁクソ」


「順番違った。馬と鹿だった」


「……あっ! 馬鹿って言いてーのかテメェ!」


「なんでわかるのにわかんねぇんだよ」


犬養の言葉に舌打ちで返す。井戸川は面倒くさそうに盛大なため息をついた。


「……べつに変わったことなんかねーし、ほかの連中からも聞かねーな」


ジーンズのポケットに手を突っ込んで、気だるげな表情で犬養を見下ろす。


「それも仕事かよ」


「まぁな」犬養は軽く頷いた。

すると井戸川は鼻を鳴らして笑った。


「いまのテメェにはそれしかやることねーだろうからな」


犬養は黙り込んだ。

井戸川は相手を視界にいれないよう、どこか明後日を見ている。

申谷は、突然静かになった犬養の様子をじっと見ていた。


「……ごもっともだ。ぐうの音も出やしねぇ」


数十秒の沈黙ののち、犬養はそう言って肩を竦めた。持ち上げた口角はぎこちない。

「ふん」と鼻を鳴らした井戸川は背を向ける。ジーンズのポケットに手を突っ込んで、鬱憤を背負ったような乱暴な足取りで立ち去って行く。


「悪かったな、時間くった」


そう言って犬養は、申谷の返事を待たずに歩き出した。

遠くなっていく井戸川の姿を一瞥して、申谷も犬養の後について行く。



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