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黒のミドルサイズミニバンが、駅を背にして大通りを走行する。
前方を走る路線バスがウインカーを出しながら車線の端へと寄っていく。バス停へ向けてゆるやかに減速していくその横を、牛尾が運転する車が追い抜いていった。
「私が探しているのは
助手席に座る犬養はバックミラーをのぞき込み、声が聞こえて来た後方のシートを見遣った。
運転席の後ろに座っている大柄な男の存在感は、八名乗りの広い車内にあっても大きかった。しかしそれは体格だけではなく、眉間に深いシワを浮かべた険しい表情のせいでもあった。まるで棘の付いた鉄球を乗せているような、ギスギスとした重苦しい空気が車中を圧迫している。
牛尾はオーディオの音量を絞った。
「身長は百七十前後の痩せ形。一見すると穏やかそうな男だが、西の地方都市である組織のボスだった人物だ」
「写真とかは?」
犬養がバックミラーに話しかける。
「ない」
「あっそ」
申谷は窓の外を睨んだまま視線を向けようとしなかった。
「組織自体は事実上潰れている。しかし、小日向は数名の幹部とともに逃亡してしまった。各地に散らばった構成員の力を借りて現在も逃げ続けている」
車は赤信号に捕まる車列の最後尾についた。
ハンドルを握る牛尾が話しに加わる。
「ちなみ海外逃亡の可能性はないそうだ。その男、飛行機が苦手らしい」
同意を求めるようにバックミラーをのぞき込む。鏡のなかで申谷は険しい表情を浮かべながらも無言で首肯した。助手席の犬養は唇を尖らせて「ふーん」と鼻を鳴らす。
「で、あんたはどうしてその男を追っているんだ?」
何気ない口調でそう言った犬養の腕を牛尾が掴んだ。所長のほうを見ると、その顔と視線は前を向き車列と信号を眺めている。
「……いや、なんでもない。詮索して悪かった」
もごもごと言い、シートに座り直す。
後部座席からの言葉はない。犬養の言葉はおろか存在すら、意識の外に締め出したかのように、申谷はスーツの胸ポケットから取り出した一枚の紙片を突き出した。
「ここにある住所へ行きたい。道だけ教えてくれ、案内は要らない」
「名刺?」
表面は光沢のある黒。灰色で〝バー・イエトハンドレット〟と印字されていた。裏には住所と電話番号が小さく並んでいる。まちがいなくこの街の市外局番だった。
「小日向が滞在していた建物で見つけたものだ」
犬養は名刺の表面に光を滑らせる。傷や汚れもなく角も擦れていない。鼻先に近づけると紙の匂いがした。かすかに煙草の香りも感じる。
「バーのショップカードか。住所は中央区の南端……あんなとこにバーなんかあったっけ」
「電話番号は使用されていなかった」
信号が青に変わった。車列が解け、景色がゆるやかに動き始める。
犬養が座るシートが後ろに引っ張られるようにずしりと軋んだ。振り返ると、眉間に深いシワを刻んだ険しい顔がすぐそばにあった。座席のあいだから身を乗り出そうとするように、犬養を睨みながらショップカードを指さした。
「いますぐにだ」
「まぁまぁ、申谷くん。この街に来るまでの移動時間も長かっただろう。一端、当事務所で休憩をいれないか」
「必要ない」
牛尾のやんわりとした物言いに、申谷は鋭く吐き捨てた。
「先ほども伝えたと思うがこちらには猶予がないんだ。この街に小日向がいるかも知れない以上こんなところで時間を食っている場合じゃない。いい加減にしてもらいたい」
「なにも談笑しようって言ってるんじゃない。段取りを組んだ方が効率が良いよ」
冷たく燃えるような眼差しをぶつけられても、牛尾はやれやれと言わんばかりに軽く肩を竦めただけだった。通りを真っ直ぐ走って行けば十数分でスターフィッシュの事務所に着くところまで来ていた。
犬養は助手席の窓をコンコンと叩き、別の通りと合流する大きな交差点を指さした。
「ちょうどいいや。所長、次の信号を左に曲がってくれ。中央郵便局の裏で降ろしてほしい」
「案内は要らないと言ったが」
棘のある低音が投げつけられる。
「あぁ。聞いてた」
斜め後ろから聞こえて来た声に、シートから背中を浮かせて身体ごと振り返った。
眉間にシワを刻んだ険しい表情の申谷と顔を突き合わせる。
「けど、そういうワケにはいかねぇから。あんたが依頼人で、牛尾所長や雅美前所長が俺にナビゲーションを任せてくれた以上は。俺にだって責任感はある」
男の瞳は凍り付いたように冷たい。苛立ちや怒りを取りこんだ氷塊のように鋭い光がチラついている。温もりなど一片も感じられない。心も冷水の底に沈んでいるようだった。
それでも犬養は相手を見返した。向けられているものが冷たかろうが鋭かろうが、頑として引かない強い眼差しで申谷を見据える。
「気に食わねぇならそれで結構。ただ、頼りにならない地図見て自力で行くのと、最短距離を選んで行ける俺の後ろをついて来るの、どっちが早いのかって話だ。一分一秒が惜しいなら迷子になってるヒマなんか無いと思うぜ」
ふたりは眉間やあごにシワを寄せて睨みあう。
その間にも左折した車は通りを進んで行く。小さな静電気でも爆発しそうな車内の空気をものともしない牛尾はゆったりとハンドルをさばいている。やがて現れた中央郵便局の脇道へと入ると路肩に停車した。
申谷は大きく舌打ちをすると、まっさきに車から降りて行こうとする。
後部座席のスライドドアを潜る広い背中に、運転席から牛尾が声をかける。
「大丈夫だよ、申谷くん。心配はいらない」
歩道に降り立った男は振り返ろうとしなかった。
牛尾は閉じていくドアのわずかな隙間に向かって言葉を投げかけ続けた。
「万が一、犬養とはぐれても騒がしいからすぐに見つかるし、なんならコイツのほうから戻って来る。ちょっとやかましいときもあるが、慣れれば気にならなくなるし」
「フォローへたくそか」
シートベルトを外した犬養はグーで所長の腕を小突いた。
閉まりきったスライドドアが、外に出て行った申谷と車内を隔てる。
犬養がドアハンドルに手をかけると、牛尾が言った。
「頼んだぞ」
ハンドルに両手を置いた牛尾は口の端を持ち上げて笑っていた。それは冗談めかしたものではなく強い自信をうかがわせるものだった。依頼人へ切った手札にこめられた揺るぎない信頼。それらが一心に向けられていた。
犬養は一瞬だけ動きを止めて、牛尾を見返した。
「ぶっちゃけ、あの依頼人とうまくやっていけるかはわかんねぇけど」
車のそばに佇む背中からは無言の圧力を感じていた。出て行くのがこれ以上遅れれば外からドアを開けられそうだった。
「でも、俺に出来ることがあるなら、力になってやれることがあるなら、俺はやる」
そう言って犬養はドアを開けた。
大通りの騒がしさが聞こえて来る。悠然と佇む郵便局の建物と隣り合うビルの狭間、路地の底に降り立った。通りから一本入っただけの道で、昼食時が近いせいかスーツや制服姿の人々の往来があった。
すぐそばに申谷が立っている。かたく噤んだ口元と。眉間にシワを刻んで睨み下ろしてくる眼差しで、言葉はなくとも言わんとすることはわかった。
犬養は男を見上げて頷いた。
「まかせとけ」
歩き出した犬養の背に、少し距離を置いて申谷がついていく。
彼らの姿はさらに狭い路地へと消えて行った。
牛尾は車内からその様子を伺っていた。口元に静かな笑みを浮かべてふたりを見送った。
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