1-3

駅構内の人波を歩きながら、牛尾正義うしおまさよしは眉間にシワをよせ黒縁の眼鏡を押し上げた。


「息子の電話は出ないくせに、自分に用事が出来たら何事もなくかけてきやがる」


平日の昼前でも駅構内は行き交う人々で混雑していた。

電車や地下鉄、新幹線の発着駅はたとえ夜遅くとも人波は消えない。駅と接続した複合施設もあるため買い物客の姿も少なくなかった。


牛尾はよそ見しながら歩いてきた少女を軽い身のこなしで躱した。手入れされた革靴でステップでも踏むようにして、白い格子入りの黒スーツの裾がひらりとひるがえる。

栗色の髪は短く、ツーブロックに整えている。愚痴を漏らすたび、黒縁眼鏡の奥の目元には三十代半ば相応の細かなシワが浮かんでいた。


「ホントいっつも唐突過ぎるんだよ。大事なことほど突然言い出すのはなんでなんだっ」


「雅美さんらしいっちゃらしいよな」


牛尾の後ろを大股になった犬養がついていく。

小柄な身体を最大限に生かして、全方向から押し寄せて来る人波をすいすい抜ける。


「てか、まだ全国放浪中? いまはどこにいるって?」


「知らん。自分の話が終わったら一方的に切られた。かけ直しても出やしない」


唇を尖らせている牛尾を斜め後ろから見上げた犬養は「うひひ」と笑う。


「ま、お節介は相変わらずみたいだし、元気ってことなんだろうな」


その言葉をうけて、牛尾はため息まじりに肩を竦めて見せた。


「そういうことにしとこっか」


手元の時計に目を落とす。


「そろそろ電車が到着するころだ。立ち止まって話している時間がないから、移動しながらとりいそぎ要点だけ伝えておく」


在来線の改札付近にさしかかると、雑踏のうごきが鈍くなっていく。路線図や電光掲示板を見上げて棒立ちになった人間を避けながら、待ち合わせに指定された東口にある一番改札と足を進める。


「依頼内容は人探し。ナビゲーションをしながら依頼人とともに行動をすることになる」


さわがしい駅の構内でも、犬養の耳は牛尾の声を拾う。


「依頼人はとある人物を探して国内を点々としているそうだ」


「なんか、訳アリそうだな」


「……そうだな」


牛尾の言葉には含みがあった。視線だけで伺うと、見上げた相手の横顔には複雑な色がある。事情を口にするか迷っているようだった。

辺りには何十人という人間がいる。それらの目や耳を考えて、犬養は話題の矛先を少しだけ変えた。電話を受けたときから思っていたことをたずねてみた。


「なんで俺を呼び出したんだ? お出迎えほど俺に適さない仕事はないぜ」


「知ってる。いまから大事な話をするからよく聞けよ。実は、」


ふたりは地下鉄ホームへ続く階段を通り過ぎようとした。

階段を駆け上ったスーツ姿の集団がいきおいよく飛び出してきた。牛尾と犬養のあいだを切り裂くように強引に駆け抜け、新幹線の改札のほうへと走り去っていった。


「あ、やべ」


続いて足早の人々が犬養の目の前を横切る。激しい流れに歩調を落とすと、牛尾の後姿が人々の肩のあいまに見え隠れしながら遠のいてしまった。密度が増した人波のなかを蛇行しながらもどうにか進んでいく。


東口に近づくと人の流れは落ち着いて来た。駅前のロータリーにタクシーが並び、キャリーを引いた観光客風の一団が駅構内の地図を眺めている。

一番改札のまえには円柱形の柱が等間隔にならんでいる。待ち合わせらしき若い女性や年配の夫婦が柱のそばに立ち、手元の時計を気にしていた。


犬養はあたりをぐるりと見回した。牛尾の姿が近くにあるはずだ。

ふと、背後から影が落ちた。

反射的に振り返るとそこには長身の男が立っていた。頭ひとつ分かそれ以上の身長差がある。


高所から見下ろしてくる鳶色の切れ長の目には、熱も光もない。

まるで生命の熱量を摩耗してしまったようなその眼差しに背筋を冷たいものが走った。

大柄な男はトレンチコートを着込んでいた。肩幅は広く、手足が長い。瞳と同じ鳶色の髪を後ろに流し、かっちりとした服装やヘアスタイルだけ見ればビジネスマンのようでもある。


だが、犬養の腹の底でなにか騒ぐ。

男の腕が伸びてきた。その動きは犬養が反応するよりもはるかに早く、気が付くとジャケットの衿を掴まれていた。

有無を言わさない強い力でぐいと引き寄せられる。


「ケンカ売られる覚えはねぇぞ」


すぐさま相手の腕を乱暴に振り払った。

すると男は弾かれた手で犬養を指さしてきた。


「お前がしているそのピン」


静かな低い声だった。

駅の雑踏のなかでも鋼のような重苦しさで耳に届いてくる。


犬養は乱れた衿を正した。眉間とあごにシワを刻んで相手を睨みつけて、下衿のホールに通した社章ピンを示す。


「お気に召したか? あいにくこれは宝物だ。くれったって死んでもやらねぇからな」


男は冷たい眼差しの瞳を細める。


「見覚えがある。それと同じものをした女性に世話になった」


犬養は大きくまばたきをした。とっさに頭のなかに何人かの女性所員の顔が浮かんだ。


「牛尾雅美、という六十代の女性だ」


「まッ!?」


「私はこの街に用があるが、街のことは何も知らない。そこで彼女に便利屋を紹介された。この時間この場所で合流することになっているんだが」


低く平坦な声からは感情の抑揚がうかがえない。

しかし犬養を見下ろす男の目元には、冷たい苛立ちのようなものが浮かび上がっている。


「まさかお前がそうなのか?」


「あぁ。お察しの通り、便利屋だ。てことはあんたが依頼人なんだな」


犬養はわざとらしく口角を吊り上げた。奥歯を噛みしめるようにニッと笑ってみせる。

男の凍える眼差しを真正面から受け止めた。


「楽しい我が街へようこそ」


「最悪だ」


呻くように呟いた男の眉間に亀裂のような深いシワが走った。


「初手で絡んできたのはそっちだぞ」


「お前が突然立ち止まり、進路を塞いだせいでもある」


棘のある視線が真っ向からぶつかりあう。


「もしかして揉めてます?」


ふたりの間に現れた牛尾が双方を交互に見やりながらそう言った。

そして互いの表情に共通して浮かんでいる感情を見つけると「うん」と頷いた。


「完全に揉めてますね」


おおげさに肩を竦めると、犬養にむかってため息をついた。


「誠、ちょっと目を離した隙によくやってくれたな。お前が付いて来てると思って依頼に関する大切な話をしてたのに、振り向いたらいないもんだから完璧に独り言だよ。たまたま後ろを通りかかった知らない少年とばっちり目があってすごい気まずかったんだけど」


「そういうこともあるだろ。元気だせよ」


「不思議なことに煽りにしか聞こえないなぁ」


そう言って牛尾は黒縁の眼鏡を押し上げる。

鼻息を荒げて「むぅ」と唸っている犬養をよそに、彼の対面に立つ男のほうへと顔を向けた。


「到着早々、うちの部下がご迷惑をおかけして申し訳ない」


冷ややかな感情を浮かべている相手の視線を、牛尾は笑みを浮かべて見返した。


「きみは牛尾雅美から紹介を受けた依頼人――申谷定嗣しんたにさだつぐくんで間違いないね?」


「その通りだ」


男は牛尾と向かい合う。目線の高さはほとんど同じだった。固い表情の相手が発する重苦しい空気を前にしても牛尾は気にすることなく、笑顔も軽快な口調もそのままに言葉を続ける。


「便利屋スターフィッシュの所長の牛尾正義です。このたびはどうぞよろしく」


依頼人の男、申谷定嗣の視線が牛尾のスーツの衿にある社章ピンを認めた。

彼の背後であごにシワを作っている犬養と同じものであることを確認する。


「街を熟知した優秀な所員がいると聞いて期待していた分、正直言って不安を感じた」


「おうおう。優秀だろうがなんだろうが、いきなり衿掴まれたら引っ叩きもするわ」


目尻を吊り上げて前に出ようとする犬養を牛尾は肘で押して下らせる。

それでもじたばたと騒いでいるのを無視して、申谷は話を進めていく。


「だが、この男とこれ以上の関わりがないなら問題はない」


淡々とした口調は感情の抑揚が少ない。落ち着きがあるというよりは、感情を押し込めて殺しているような、虚無のような影が漂っている。


「牛尾所長。こちらの事情についてはあなたの母親から連絡が行っているはずだ。私はいま、ひとりの男の所在を追っている。この街を訪れたのはそれに関する最重要案件のためだ。時間の猶予はない。こんな話をしている暇があるなら早急に案内をして欲しい」


申谷は眉間にひときわ険しいシワを浮かべてそう言った。

冷ややかな苛立ちを帯びた眼差しを向けられても、牛尾の表情からは飄々とした笑みは消えない。ふたりの発する空気の温度差が生まれている。


「会話は大切だと思うけれどね。きみの事情は聞いているし切迫していることも知らされているが、あくまで間接的にだ。そちらに感情があるように、こちらにも感情がある。なにも仲良くなろうって言っているわけじゃない。すべてをスムーズに進ませるためには双方でそこそこかみ合わせようとしなきゃ難しいだろってことは言っておこう」


「なあ所長。この件を担当すんのはいったいどこの聖人君主なんだよ。この依頼人の対応ができるやつなんかものすごく限られるぞ」


背後の犬養がひそひそと話しかける。その顔にはすっかり苦々しい表情がはりついていた。

牛尾はそんな部下の肩に手を置くと、依頼人のほうへと笑みを向ける。

にっと口角を持ち上げたその表情は自信で満ちていた。


「優秀なナビゲーターが欲しいんだろ?」


申谷は重苦しく黙り込んだまま頷いた。彼の顔には些細なきっかけで発火しそうなほどの厳しさがありありと浮かびあがっている。

そばを通りかかった中年のビジネスマンが何事かという視線を向けて立ち去って行った。


「あと少しだけ我慢して聞いてくれ」


そう前置きをして言葉を続けた。


「この街は昔から住んでいる人間ですら、容易に攻略できない部分がある。大通りから一本はいれば、毛糸みたいに複雑に絡み合った路地ばかり。そういうところでは違法建築物が乱立し、日ごと景色が変わっていく。もちろんマップは役に立たない。並外れて優れた方向感覚と、街の変化をリアルタイムで把握できる情報網をベースに、路地裏にたむろする連中をぶちのめしながら実地で身体にマッピングしないとこの街を知ることは出来ない」


そして犬養をぐいと前に押し出した。


「そこでこいつの出番だ」


「!」


唐突に依頼人のまえに押しやられた犬養は目を丸くした。


申谷がすかさず口を開こうとするのを牛尾は手のひらを見せてストップをかける。彼から飛び出してくるのが反論であることは、眉間のシワが増したことと、いっそう険しくなった目つきで明らかだった。


「うちの母親が言っていた“優秀な所員”とはこいつのことだ。俺もそう思うよ。きみがこの街で目標を果たすのに最も力になれると断言してもいい。所長として俺個人としてもね」


押し留められた言葉を噛み殺すように、申谷は唇を強く引き締めて沈黙している。

牛尾が犬養の背中を軽く叩いて、彼にだけ聞こえるように小声で言った。


「仲良くできそうもないのは残念だが正直、母さんも俺もそうだろうなとは思っていた。性質の相性もあるけど、相手が背負っているものが独りで持つにはちと重すぎる。はっきり言っていまの彼には余裕がない」


犬養は唇を尖らせたままじっと黙り込む。


「それでもこの案件はお前に任せたい。前所長と現所長、双方の意見は秒で一致だった。当社が依頼人にしてやれる全力の最善は誠、お前しかいない」


牛尾が背後でささやく。


「どうか力を貸してくれ」


申谷が見下ろしてくる眼差しには苛立ちと不安が入り混じっている。触れれば切れそうな氷塊のような瞳に一筋の痛みのようなものがよぎったのを、犬養は見逃さなかった。


「……そういうことなら、俺もガタガタ言ってらんねぇな」


深呼吸とともに背筋をのばした。

そして胸を張るように、依頼人の前に立つ。


「便利屋スターフィッシュの犬養誠。いまからあんたのナビゲーターだ。よろしくどーぞ」


それまで黙り込んでいた申谷だが、苦々しい表情を浮かべながら、


「……牛尾所長の言葉と、彼の母親を信じるほかない」


低く静かな声音で呟いた。

犬養は犬歯を見せてにっと笑みを投げかける。


「それで結構。握手はどうする? 一応しとく?」


「必要ない」


トレンチコートのポケットに手を突っ込んで申谷がぶっきらぼうに返事をする。

一方で犬養も同じようにジャケットのポケットに手を突っ込んでいた。


牛尾が「おっ」と軽妙な声をあげる。


「意外と気が合うじゃないか」


そんな言葉のあいだにも、二人は同時に正反対のほうへそっぽを向いている。

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