第2話 弓弦葉 凛香
◆ ◇ ◆ ◇
私が
そこで榊家の次男である柳二を紹介され、しばらくこの家に住み、この子の話し相手になってくれと言われた。
それも近年ではすたれた習慣であったが、柳二の境遇を聞いた両親が提案したというのはだいぶ後になってから聞かされた話だ。
初めて柳二にあったとき、柳二は父
同い年だとは思えないやせ細った貧弱な体に分厚い眼鏡の奥のうつろな眼はどことも知れない中空を眺めていて、その眼からは何というか人の生きる意思が感じられなかった。
―正直“不気味”だと思った。
話し相手になってくれと言われて、柳二の部屋に行っても、柳二はあまり私に興味がないのかはたまた見えていないのか、私をほとんど認識すらしないものだから、会話という会話が成立しなかった。
それでも両親の期待に応えようと、必死に考え、柳二の身の回りの世話をするようになったのだ。
しばらく続けていると、柳二はさすがに私を認知するようにはなったが、会話の方はあまり芳しい成果は得られなかった。
普段はほぼ寝たきりと言っていい柳二であったが、時折いなくなることがあった。
探すと大抵は庭にいて、その両手に動物や虫の死骸を抱えてうつろな目で何やらつぶやいているのだ。
ただでさえ見知らぬ土地で一人寂しく暮らす不安がのしかかる中、そんな柳二の奇行は8歳の女の子の不安を駆り立てるには十分だった。
いつからか、会話もなくこの不気味な少年の身の回りの世話を機械のようにこなすようになり、気力がなくなり、見える景色の色が薄れていった。
やがて身の回りのすべてに不満、不信を募らせていったのを覚えている。
そんな私の心を何とかつなぎとめてくれたのは、ここに来るときに連れてきた子猫だった。
私は物心ついたときから
だから、大好きな両親から離れて暮らすことに底知れぬ不安を感じていた。もしかしたらまた捨てられるのかもしれないと。
両親は私の不安を察してか、寂しさを紛らせるようにと、榊家に来るにあたり子猫を買い与えてくれたのだ。
柳二の一日の世話を終えると、ケージから子猫を抱きあげ、思う存分遊んで甘えさせた。寝るのも一緒だった。
月並みだがこの三毛猫の子猫をミケと名付け、抱いて寝る。
昔から私は動物の気持ちがなぜかなんとなく分かるのだ。誰に話しても信じてはくれなかったが、その子がどうしたいとかどう感じているというのがまるで自分のことのように感じられるのだ。
だから、穢れのないミケを抱いていると私の心の汚れが少しだけ落ちていく気がした。
その当時、ミケだけが唯一無二の親友であり、心の支えだったのだ。
数か月がたち、柳二の世話にも慣れ、特に会話も無いものだから暇を持て余すようになると、それを見かねたのか柳二のお父さんが離れの道場の稽古に連れて行ってくれるようになった。
無幻水心流の分家である弓弦葉家の子女として、父から手ほどきを受けていた私は、その宗家の道場にこの年で入門できることをとても誇りに思った。
道場主であり筆頭師範代であった瀧矢さんは、遠い分家の出である私にも懇切丁寧に教えてくれた。
門下生も何人もいたが、最初こそ腫物を扱う感じではあったが、私が必死に通い詰めるのを見て一部を除いて徐々に心を開いてくれるようになった。
そして、いつしか私は柳二の世話はそこそこに、道場に打ち込むことで内にたまった鬱憤を晴らす毎日を送るようになっていった。
そんな、ある日事件は起こった。
柳二の世話と道場での稽古を終えて、自分の部屋に戻り今日の鬱憤をミケに聞いてもらおうと意気揚々とミケの待つケージに向かう。
だがそこにミケの姿はなかった。部屋中くまなく探したがどこにもいない。
何度かケージを抜け出すことはあったが、今まで部屋を抜け出すことはなかった。
私は嫌な予感を覚えて、部屋を飛び出し、庭中を探し回った。だが一向に見つからない。
日が沈み夜の帳が落ち始めると焦燥感が心を支配し始める。
そんな時、榊家の離れにある道場の丁度塀と母屋の間、裏路地に当たるところから数人の話し声が聞こえてきた。
『……ゆーがさん。この小僧……すかね?俺らの……実験に……口……やがって。』
『……瀧矢さ……けのガキが……たが、もしかしてそい……ねえな。』
『マ……か。そい……っすね……・』
『興が……。……くぞ。』
私は手掛かりを求めてその路地裏を覗き見る。
そこには現場を去っていく数人の兄弟子と、殴られたのかボロボロになった柳二が倒れていた。
―そしてその横に
その時の記憶は朧気だが、ただただ絶望が私を支配し足元から奈落に落ちていく感覚だけは覚えている。
その後、どの位そこに立ち尽くしていたか分からない。が、次第にその絶望が怒りに変わり脳天を貫き焼き焦がすほどの激情となった。
気づいたときには兄弟子たちを追いかけていた。
武道の手ほどきを受けていたとはいえ片や八歳の女の子、片や十八歳の兄弟子五人だ。まるで相手にもならず、容易に組み付された。
「いくら師範代のお気に入りだからって、いきなり
猫の
全身全霊を込めた私の力も、技もまるで役には立たなかった。ミケの無念の一つも晴らすことは叶わなかった。
そして自分の無力さに、そしてミケを失った悲しみに押しつぶされ、ただただ泣き続けた。
そんな私に嘲笑を浮かべていた兄弟子たちは、いつの間にかいなくなっていた。
ミケが居なくなってしまった……
これまで自分なりに限界まで頑張ってこれたのはすべてミケがいたからだ。
ミケが居ない世界でどうやってこの耐え難い生活を続けられるだろうか……。
これで柳二の世話を放棄したら、また捨てられるかもしれない。少なくとも私に失望して、遅かれ早かれまたあの施設に戻されるに違いない。そうしたらもう私はどこにも行く場所はない。
今思えば馬鹿げた発想だが、精神的に追い詰められていた私は本気でそう思った。目の前がすべて暗闇に閉ざされ、奈落の底へ引きずり込まれる感覚に支配された。
そして私の中で何かがプツリと切れる音が聞こえた気がした。
気づいたときには、母屋のガラスを石で割り、破片を両手に握りしめ首筋にあてていた。
眼を閉じ、両手に力を躊躇なく籠める。手から血がしたたり、首筋にガラスが食い込む。不思議と恐怖はなかった。その時。
――――“ミャ~!”
ミケの声が聞こえた。そんな気がして目を開けると、そこにはミケの亡骸を両手に抱いたボロボロの柳二が立っていた。
自死を覚悟した私であったが、その瞬間、柳二がミケに気味の悪い儀式をしている事実に強烈な嫌悪感を覚え、自らの首を貫くはずであったガラス片を柳二に向けて振りぬいていた。
その刃は柳二のほほを裂き、怯んだ柳二からすぐさまミケの亡骸を奪い返す。
「気味の悪い手で触らないで!」そう私は叫んでいたと思う。今思い返せばずいぶん酷い言い方だと思うが、その時の本音だったのは確かだ。
頬を切り裂かれ罵倒を浴びせられた柳二は、だがしかし傷の痛みに悶えるでもなく、今まで見せたことのない悲愴な眼差しで滂沱の涙を流し私を見つめて佇んでいたのだ。
柳二のその姿に私はハッとした。
あっけにとられて沈黙していると、ややあって柳二はつぶやいた。
「……ミケ……君にありがとうって……」と。
私はこれまで柳二にも誰にもミケの名前を告げたことはない。なのになぜ?と疑問に思っていると、
「手をつないで。 早くしないとミケがいなくなっちゃう……」
私は数瞬ためらうが、その申し出に頷く。
普段はこの柳二の奇行には嫌悪感しか抱かないのに、この時はそうしなければならないと本能的に思った。
柳二は片手を私に、そしてもう片方の手をミケにそっとかざす。
そして柳二と眼を合わせる。
その途端、私の脳裏に様々な情景が流れ込んできた。
―巨人が大きな手で自らを抱えてぎゅっと抱きしめる。同時にとても暖かい安心感に包まれる。
(目に映る巨人は……私だ。―これはミケの記憶!?)
―お腹を空かせて待っていると、大きな手で大好きなご飯が運ばれてくる。おいしい。満腹感と幸福感が伝わってくる。
―猫じゃらしが揺れると、それに釣られて手を出し、突進する。時には私の手に噛り付き甘える。純粋な楽しい、うれしいという穢れのない正の感情が流れ込んでくる。
―大好きな私の大きな手で眠くなるまで優しくなでられる。自分がしてほしいことを的確にしてくれる。
両腕に守られるように包まれる。そのぬくもり。そして途轍もない安心感。
―命尽きるその最期の時、見知らぬ男の子が力及ばずも懸命に自分をかばってくれた。
(……そうか。柳二がミケの尊厳を守ってくれたんだ……)
―そして最後に、“ありがとう”の気持ち。
ミケの見ていたであろう情景と感情が私の心に直接伝わってくる。
涙がとめどなく流れ落ち、止まらない。
ミケは無残に殺されてなお、ただただ私に対してありがとうと伝えてきた。そこに殺した相手への
私はこの気持ちを受け取って尚死のうなどとは微塵も思えなかった。ミケは私に復讐や、まして自死など決して望んではいなかったのだから。
気づけば先ほどまでの荒れ狂う狂気と奈落の絶望はミケによって綺麗に浄化されていた。
そしてミケの心の一部が私の魂に溶けて絡まり融合していく様が見えた。ミケの魂は確かに私の心に息づいたのだ。
―ありがとう。ミケ。
やがて、ミケとの感情のつながりが感じられなくなると、私と柳二はそのまま意識を失った。
意識が途切れていく最中、ようやく私は大事なことに気づいたのだ。
私は柳二に本当の意味で救われた。なのに、私は柳二を全く理解してあげられていなかったのだと。
ミケとの感情のつながりが途切れる間際、柳二自身の感覚、感情がわずかに流れてきたのだ。
―それは、常時絶え間なく襲い来る途轍もない全身の激痛と倦怠感、そして強烈な孤独感だった。
柳二は意図的にそれを私に見せたのではないのだろう。
そこに、悲愴感や助けを求める感情は含まれていなかったから。
でも、私は今更ながらようやく理解できた。
柳二は、好きで寝たきりなんじゃない。激痛と倦怠感でとても起き上がれる状態じゃないのだ。
それに耐え続けるために意識を内に保たなければ精神が持たないから、あまり外に意識が割けないだけで、好きでうつろな目をしているわけではないのだ。
私に流れてきた感覚はおそらくほんの一部。
だとすると、むしろ意識を保てていることが奇跡と言っていいように思えた。
信じがたい精神力。なんという強い“生きる意志”だろうと。
柳二は普段、それらを全くと言っていいほど表には出さなかった。
それを言い訳にするつもりはないが、それに一番気づいてあげられただろう立場にいた私と言えば、形ばかりの“世話”以外何もしてこなかった。
自分のことばかり考え、柳二の気持ちなど考えすらしなかったのだ。
それどころか、稽古を言い訳に本来の役割をおざなりにし、そして柳二の見た目を嫌悪するばかりか、その気高い精神性を“気持ち悪い”、“不気味だ”と断じた。
なんと浅ましく愚かなことだったのかと、私は自分自身を心の底から恥じた。
そして、私はその時誓ったのだ。
私を救ってくれたこの人を、私は救ってあげたい。
でも、柳二のような特別な力は私にはない。きっと“救う”なんてことは私の傲慢だ。
だからせめて、“誠心誠意、柳二を支えよう”と。
―――――
私は、
「あの日のこと、きっと柳二はあんまり覚えてないんだろうな……」
あの事件から、私は生まれ変わったかのように献身的に柳二の世話をするようになった。
身の回りの世話というだけでなく、自分なりにそして邪魔にならない程度に柳二の心に積極的にかかわるようになった。
そればかりでなく、柳二を守れるようにと瀧矢さんに頼み込んで世話の後に個別に稽古をつけてもらい、無幻水心流を収めるほどにまでなった。
柳二の奇病の手がかりとなり得る
でも、あの時の私の気持ちをこれまで一度も伝えたことはない。
伝えたら、優しい柳二はきっと私の想いに気を使ってしまうからと。
私の想いを押し付けちゃだめだ。私は寄り添うだけでいい。
そう思って今まで歩んできた。
そう―今までは。
最近、柳二は私から距離を置き始めている。私を気遣って。
柳二が望むならそれでもいいと頭では納得したはずだった。私の役割もそろそろお終いだなと。
……でも、私の心は納得してくれないみたいだ。
柳二が距離を置こうとするたびに、頭で分かっていても心は離れたくないと言ってくる。
そのたびに、胸が締め付けられる。苦しくなる。
最初、私は自身のこの感情に戸惑った。
寄り添うと決めた私が、命を救ってもらった私がこれ以上何を望むんだと―
でも、日々強くなるこの胸の痛みが何か気づかないほど私も子供じゃない。
自分では柳二を支えてきたつもりが、いつの間にか私も柳二に支えられていたようだ。それも柳二が居なければ一人で立っていられないほどに。
気づかぬうちに、柳二への想いが私の心を満たしていた。
今日、あの日私が感じたことを打ち明けようと思う。
ついでに私の気持ちも打ち明けられればいいんけど……上手くできるだろうか。
きっと、これまでの柳二との関係性が変わってしまうだろう。
それが悪い方向に行くかもしれないという不安がどうしても鎌首をもたげる。
そうした不安と期待の同居した決意を胸に、家を出る。
今日の日のために感謝の気持ちとして用意した手編みのマフラーと手作り料理を持って。
◆ ◇ ◆ ◇
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