第5話

「なんの用?」


 久しぶりに聞くこっちの八重香やえかの声はあっちの八重香に比べて何倍も重く冷たかった。

 掛けてから気づいたのは自分でもバカみたいだと思うけど、こっちとあっちの八重香は似てるだけで別人なんだ……。

 いつもみたいに楽しく話せるわけがない……。

 自分の愚かさにげんなりしながらなにを言おうかと考えていると、イライラとしたトーンで八重香は続けた。


「用がないんだったら切るけど?」

「待って、ごめん」

「じゃあ何? 早く言って、忙しいんだけど」


 一音一音発するごとに、彼女の不快感が大きくなっていくのがわかった。

 その鋭く砥がれた言葉がむき出しだった私の胸に突き刺さってくる。

 やっぱり今も首の後ろをいているのだろうか。


「ごめんちょっと八重香と話したくて……」


 この言葉に嘘はない。

 本当に話したかったし、連絡できないのが辛かった。

 ただ通話越しに聞こえてきたのはあっちの八重香のような、明るくこちらを包み込んでくれるような声ではなく、すべてを潰してしまいそうなくらい黒くどろっとしたため息だった。


「あのさ、私が振ったの覚えてる?」

「それは……、覚えてるけど……」

「新しい彼女出来たしもう連絡してこないで。次そんな用で連絡してきたらこれもブロックするから」


 そう一方的に言い放つと、通話終了を告げる軽快な音のあと虚無が広がった。

 そのあとどうやって家まで帰ったか覚えていない。

 気が付いたら街はすでに寝静まっていて、私は八重香の胸の中にいた。

 ただ直感でわかる。

 この八重香はホンモノだ。

 昼間話したニセモノじゃない。

 そう感じながら八重香の甘く優しい匂いを嗅いでいると、ゆっくりと声が届いてきた。


「ほ……。しほ……?」


 まるでひだまりにいるような心地のいい声が心の奥底までしみ込んでくる。


「なーにー?」


 寝起きのような間延びした声で返事をすると、急に力強く抱きしめられた。


「よかった……。やっと返事してくれた……」

「え、どういうこと?」


 段々とクリアになっていく頭の中で八重香の言葉を咀嚼そしゃくしていく。

 八重香はうわ言のように「よかった」と繰り返し、彼女の瞳からこぼれた涙が私の頬を濡らしていた。


「ねえ八重香、平気?」

「ごめん……、さっきからなに話しかけてもずっとうわの空だし、目も真っ赤に腫れてるからなにかあったのかと思ってすごい心配だった」


 そう言って彼女が見せてきた手鏡を覗き込むと、確かに私の目は熟れたトマトのように赤く染まっていた。

 そっか……、あの後からずっと泣いてたのかな……。

 もう記憶の蓋を閉じてしまったせいで詳しくは思い出せないけど、こっちの八重香に言われた何かがすごくショックだったんだと思う。

 ただそんなこともうどうでもいい。

 私にはもうホンモノがいる。

 そう思うと不思議と涙は出なかった。


「心配かけてごめんね。もう大丈夫だから」

「本当に大丈夫なの?」

「本当だよ。もう八重香以外どうでもよくなっちゃった」


 そんなことを話している間にも、彼女の心音が気持ちのいいBGMとなり私を溶かしていく。

 八重香に身を預け、このまま二人きりの世界になってしまえばいいのになんて考えていると、覚悟を決めたような口調で彼女は話し始めた。


「あのさ……、もしもう志穂しほの中で鏡の向こうに不安がないなら一緒に行かない?」


 それは今私が一番聞きたかった言葉かもしれない。

 もうこっちの八重香なんて興味ない。

 大学も、ここでの生活だって八重香を捨ててまで守りたい物なんかじゃない。

 恐る恐る聞いてきた八重香に反し、私の口からはまるで遊びの約束でもするかのように「行きたい。つれて行って!」と漏れていた。


「じゃあ行こうか!」


 私と同じように明るいトーンになると八重香は一気に私の手を引いて鏡の中に消えて行った。

 一応私のことを待ってくれているのか、手首から先が鏡に吸い込まれているという不思議な状況が広がっている。

 ただこんな状況でもちゃんと手のひらから八重香の体温が伝わってくるのが不思議だ。

 その体温が向こうに行っても八重香といられるという安心感を与えてくれる。

 大きく息を吸い、覚悟を決め一歩踏み出すと、私の身体が鏡に溶けていくのを感じた。


 <完>

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合わせ鏡の向こう側 下等練入 @katourennyuu

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