第4話

「待ってたよ志穂しほ! 来てくれると思ってた!」


 八重香やえかは私の首の後ろに両手を回し抱きつくと、そこを支点にまるでプールから上がるかのようにするりと鏡の中から抜け出てきた。

 首筋に添えられた手から彼女の体温が伝わり、ゆっくりと私の中が満たされていく。

 脊髄せきずいから指の先まですべてで彼女を感じていると、だんだんと視界が歪んでくる。

 焦点が定まらない中彼女を見失わない様ぎゅっと抱きしめると、熱い水が一筋の道を作りながら頬を伝うのを感じた。


「私も会いたかった! もう会えないと思ってたし……」

「会えないかもってなにかあったの?」


 抱きついている間は気がつかなかったのか、お互いの顔を見た途端八重香は不安そうな顔をした。

 一瞬口の中に「なにって自分で振ったくせに忘れたの?」という言葉が胃の奥底からあふれてきたが、音になってしまう前に慌てて飲み込む。

 忘れないようにしないと、今目の前にいる八重香と私を振った八重香は別人だ。

 彼女に八つ当たりしたところで何も変わらないし、それどころか湿気った砂糖菓子のようにボロボロと私たちの関係を崩すだろう。

 ただ八重香の顔を見ると、頭の中にあの時の能面のような八重香と私たちの間に漂っていたいやにひりついた雰囲気がちらつく。


 なるべくその記憶を頭の隅に追いやるように「なんでもない」と吐き捨てる。

 自分でもわかる。

 それはあまりに不自然で、ひと悶着もんちゃくありましたというのを悠々と物語っていた。

 構ってくれって言ってるようなもんじゃん……。

 自分の幼さに辟易としていると、彼女はさっきより強い語調で本当に心配しているかのように「ねえ教えてなにがあったの? 溜め込まないでよ」と詰め寄ってきた。


 せっかく八重香と会えたんだし暗い話なんかしたくない。

 どうにか今からでも誤魔化せないかと考えていると「私またなにかしちゃった? 嫌なことがあるならやめるから言って」と今にも涙が溢れてしまいそうな顔で苦しそうに呟いた。

 彼女のなにかに押しつぶされそうな顔を見ていると誤魔化せないかという考えはどこかに消え、勝手に口が動き始める。


 事の発端である八重香に振られたことから、それ以降なにをうまくしてもうまくいかないこと、そんな時異世界に行ける方法を見つけて話半分に試してしまったことまで全部。

 八重香にこんなこと話すつもりなんかなかったのに、一度話してしまうともう自分では制御できない。

 べちゃっとした音を立てそうなくらい醜い欲望や憎悪が私の口から流れ出ている間中ずっと八重香は何も言わずただ聞いてくれた。


 全て話終わりしゃくり上げることしかできなくなっていると、八重香はそっと私のことを包み込んでくる。

 木漏れ日の中にいるような優しさを感じていると、彼女はぼそりと口を開いた。


「私がごめんね……」

「私がって、今の八重香はなんも悪いことしてないじゃん!」

「そうかもしれないけど! 志穂を傷つけたのは私だし……、本当にごめん。変な言い方だけど、私なら絶対志穂のこと振ったりしなかった」

「なら鏡の向こうで八重香は私とうまく付き合えてたの?」


 そうふと浮かんだ疑問を口にしてみた。

 さっきちらりと言っていた『私またなにかしちゃった?』が嫌に耳にこびりついていたせいだろう。

 普通『また』なんて言い間違いはしないはずだ。

 鏡を挟んだ世界がある程度シンクロしているのか、全く別の歴史を辿ってきたか私にはわからない。

 今までは気が動転していて気が付かなかったけど、初めに会ったときに私のことを知っていた時点で向こうでも何かしらの接点はあるはずだ。

 それに仮に嘘だとしても「好き」なんて言ったんだ、向こうで少なくとも友達くらいの関係性があったんじゃないだろうか。


 そんな考えを他所よそに八重香の表情は台風が来る直前の空のように重苦しく曇っていた。

 腕も私たちの間にピンと張られ、これ以上距離を詰められないようになっている。


「ねえ八重香どうしたの……、私なにか傷つけるようなこと言った?」


 私もこんなふうに見えていたんだろうか。

 石のように押し黙ってしまった彼女になにをしたらいいかわからない。

 ただこのまま放っておくこともできず、してもらったように抱きしめる。

 さっきは感じる余裕がなかったが、懐かしく優しい八重香の香りを感じていると、口から言葉が零れ落ちたかのように話し始めた。


「違うそうじゃない……、私も振られたの、向こうの世界で」

「それは、私にってことでいいんだよね……」


 そう尋ねたあと、部屋の中には私たちの呼吸音以外すべての音が消えてしまった。

 なにかできればよかったんだろうけど、抱きしめる以外なにもできなかった。

 耳元で大きくなっていく彼女をすすり泣く声を聴いていると、再度口を開いた。


「ごめんね、もっとちゃんとしなきゃって思っててもうまくできそうにない。ごめんもう来ないね……」


 そう言いながらおぼつかない足取りで歩きだしたが、数歩歩くとそのままへたり込んでしまった。


「大丈夫八重香? どうしたの?」


 そう尋ねても彼女は何も返さなかったが、彼女の膝を濡らしたガラス色をした液体が全てを物語っていた。


「とりあえず横になろう? フローリングだし膝痛くなっちゃうよ」


 彼女の肩に手を掛けそう言った時、完全に拒絶するかのように思い切り振り払われた。


「これ以上優しくしないでよ!」

「ねえどうしたの?」

「そうやって優しくしといて、また振るんでしょ!」


 八重香が何を言っているのかはわからなかった、ただその瞳に今の私が映ってないことだけは手に取るように理解できた。


「もうやめてよ……」


 肺を押しつぶされたかのような声でそう漏らす八重香の瞳からは、絶えずガラスの破片が溢れてきていた。


「振ったりしないよ、大丈夫……」

「近づかないでってば!」


 そう言いながらまた私との距離を取るように腕を突っ張ってきたが、さっきとは違いその手は離れないでと言いたげなように小さく震えながら固く私の服を握りしめていた。


「大丈夫、私は八重香の知ってる私じゃないよ」

「なら私とずっと一緒にいてくれる?」

「いいよ、一緒にいるよ」


 ただでさえ好きだった八重香がすぐそばに居て、振られる直前のような毒もない。

 一緒にいない理由が私には存在しなかった。

 背中をさすりながら「だからゆっくり休もう」と言いかけた時、八重香はなおも震える手で姿見を指さした。


「向こうについて来てくれる?」

「え、向こうなんで? こっちに来たんだし、このままここに居ればよくない?」

「ごめんねこの世界だと私二時から日が昇るまでしかいられないの……」

「それだったら私も向こうで似たような感じになるんじゃ……」


 その時ふと吸血鬼のように日に当たると灰になってしまう映像が鮮明に浮かんできた。

 いくら八重香と一緒にいられるとは言え一生太陽におびえながら生きるのは嫌だ。

 かといって、毎日数時間しか会えない生活も私には耐えられそうになかった。

 せっかくまた会えたんだ、出来ることならずっと一緒にいたい。


「大丈夫向こうではそんなことない。私の友達の中に何人かここから来た人もいるけど、全員こっちと変わらない生活を送れてる」

「けど私が振ったってことはこっちの常識と変わってることとかもあるよね?」

「それは……うんあると思う」

「なら向こうに行った人から聞いたこっちとの違いとか教えてよ、それで馴染めそうだなって思ったらそっちに行く。それじゃダメかな?」


 八重香と会えた以上もうこの世界に未練はない。

 ただあっちでの生活に慣れなれないもの嫌だしそのせいで彼女に迷惑を掛けたくなかった。

 私の返事が予想外だったのか、八重香は少し考える様子を見せると覚悟を決めたように口を開いた。


「わかった、なら志穂に説明できるようにするから明日以降も呼んでもらってもいい? 私の側から自発的に行くことはできないんだ」

「いいよ、毎日ちゃんと呼ぶから! 待ってるから!」


 その日はそう言って別れたが、八重香を見送った後の私の心はクリスマスプレゼントと楽しみにしているような子供のようだった。

 もしかしたらこれからずっと八重香といられるかもしれない。

 一度はあきらめたのにもうモノトーンの世界を生きなくていいのかもしれない。

 そう考えるだけで世界が一気に美しくなった。


 翌日以降、大学から帰ってからすぐ寝て、二時から翌朝まで起きているという変則的な生活が始まった。

 初めの二、三日は二人とも真面目に話していたが、今いるこの世界とほぼ変わりないこと。

 強いて言えば、こちらから鏡を超えていった人が生活していること以外はほぼ差異がないと知ってから夜通し遊び倒していた。

 一週間も経つ頃には八重香も遊び目的で来ている節があり、向こうでしか売ってないゲームや本を持ってきてくれたりした。


 ◇


「今三時か……」


 八重香と深夜に会うようになってから午後の時間が永遠のように感じることが増えた。

 連絡しようとしても日中に会うことはできない。

 それどころかメッセージすら送れない。

 向こうで何をしているんだろうか。

 さっさと行けばいいのだが、お互い会うのを楽しみにしている状況に水を差してしまうようでなかなか言い出せなかった。


 鏡の向こうに行けるんだし、なにか間違って通信できるようになっていないかとスマホの中を漁っていると、電話帳の中に八重香の名前が残っているのを見つけた。

 確か、何かあった時すぐ連絡できるようにって番号教えてもらってたんだった。

 まだつながるのかなと思うより早く、無意識が通話ボタンを押していた。

 数コール鳴った後、やっぱり出ないかなという予感がしていると、突然「はい?」との声がスピーカー越しに聞こえた。

 この声は間違えない。

 八重香だ!

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