第3話

「ねえなんで八重香やえかがいるの!」


 目の前で起こった事実を受け入れられずそう叫んだが、彼女は「水に手を入れると濡れる!」などのさも当たり前のようなことを報告された時のように淡々と答えた。


「なんでって、志穂しほが呼んだんじゃん?」


 付き合っていた頃は教えてくれなかったが、もしかしたら八重香は鏡の中を移動できる力があるのかもしれない。

 そんなバカな考えが私の頭をよぎる。

 ただ私にはそんなスキルはないし、まずそんなことを聞いたことがない。

 その時ふとあのページの一文が鮮明せんめいに思い出された。


『合わせ鏡をのぞき込んで自分以外の人がいたら成功。鏡の中に入るとしかるべき場所に連れて行ってくれる』


 ああそうか、これは異世界に行くための過程に過ぎないのか……。

 呼び出した自覚は全くなかったが、その文のお陰でなぜ八重香が出来てきたのか、その理由がすとんと胸に落ちてきた。


 そっかー自分以外の人って私の場合それが八重香だったのか。

 そう悠長に実感したとき氷のように冷たい汗が背中を伝うのを感じた。

 春から梅雨にかけての貴重な寝心地のいい季節なはずなのに、私の周りは真冬の北海道に投げだされたくらいに感じられる。


『成功』


 私がそう認識するより数コンマ早く、身体は目の前で起きている事態の異常性を理解したらしい。

 今何が起きているのかまだ本調子でない頭を全力で回転させ考えるが、やばいという言葉のみが脳内を駆け回り、てんで役に立たない。

 こんなことならもう少し覚悟を決めてから試すんだったと嘆いていると、八重香がまるで表面のガラス層を滑るように鏡から身を乗り出し、そっと私の額に手を重ねてきた。


「ねえどうしたの志穂。顔真っ青だよ? 具合悪い?」


 初めはひんやりと冷たかったその手がどんどんと私を吸収して一つになっていく。

 頭から熱を奪われる心地よさに身をゆだね、現実を受け入れることを拒否していると、八重香は安心したような声を出した。


「よかった、熱があるとかじゃないんだね」


 そう言うと八重香は再度私限定だったはずの本物の微笑みをこちらに向けてくる。

 ただもう見ることができないと心に深く刻まれたきずあとと、目の前にある笑顔とのギャップが一気に私を現実へと引き戻し、間髪入れず混乱の渦に叩き落された。


「え、なんで、鏡……。嘘……」

「ごめんねびっくりしたよね。今すぐには落ち着けないだろうし、明日も同じ時間にまた待ってるから呼んでよ。大好きだよ志穂」

「違うそんなことが聞きたいんじゃない!」


 思わずそう声を荒げるが八重香の耳には届かないようだ。

 八重香は鏡の中から完全に出てくると、私を抱えてベッドまで運び、丁寧に布団までかけてくれた。

 それでもなお抵抗しようとしたが、八重香にはそんなのは通用しないらしい。

 彼女が何度か私の頭を撫でるとどこからともなく強い眠気が湧き出てきた。

 普段こんな時間に起きないせいか、彼女の手が動くにしたがって意識の混濁が加速していく。

 八重香にもそれが伝わったのか、手を止め私の顔を見て満足そうに微笑むとまた鏡の中に溶けるように消えてしまった。


 ◇


 八重香に寝かされたあとそのまま一度も起きることなく夢の世界を彷徨さまよっていると目覚ましが鳴りだした。

 枕に顔を埋めたまま手探りで止める。

 どうやら今度は正しい時間に鳴ったらしい。

 建付けの悪いシングルガラスの窓から子供たちの元気のいいはしゃぎ声が流れてきており、何台もの車がエンジン音を引き連れて通りすぎていく。

 大きな伸びをした後あたりを見回すが、服も寝る前と変わっていないし布団も荒れた様子がない。

 ああそうか、やっぱり夢だったのかな。


「すごい夢だったな~」


 わざと自分を納得させるようにそう大きな声を出すが、いくら夢だと理解してようとしても一度楽しかった頃を思い出してしまうと今までずっと見ないようにしてきた欲望を無視し続けることは出来なかった。


「あんなの見ちゃったらまた話したくなるじゃん……」


 湧き出てくる八重香との思い出も一緒に洗い流せないだろうかと無茶なことを考えながら洗面台に向かったとき、姿見の前に手鏡が落ちてるのを見つけた。

 え、まさかね……。

 心臓が強く脈打ちだすをの感じながらそっとその鏡を持ち上げると一本の茶色いで長い髪がくっついていた。

 私の髪色は黒だし、茶色に染めたこともない……。

 ほんとに八重香が居たの?

 慌ててまた合わせ鏡を作るがそこにはちゃんと私が映っていた。


「なんで来てくれたんじゃないの? どうしてそこにいてくれないの……」


 思わず泣きそうになりながら手鏡を叩き割りたい衝動に駆られたが、ふと昨日聞いた八重香のセリフが鮮明に再生された。


『明日も同じ時間にまた待ってるから呼んでね』


 夜中に見た彼女は本物なんじゃないか、今日の夜にもまた会えるんじゃないか、そう思うといつの間にか振り上げた手鏡が急に八重香に会える魔法のパスポートのように見えてきた。

 その鏡を丁寧にテーブルの上に戻すと、一もなく二もなく最善の状態で会えるよう準備を始めた。


 ◇


 朦朧もうろうとした意識の中、遠くからラッパの音が聞こえてくる。

 一本、二本、三本と吹かれるラッパの数が増えるにしたがってどんどんと音が大きくなりメロディーが豊かになっていく。

 七本目のラッパが鳴り始めた時、私はベッドの上から跳ね上がり目覚ましを止めた。


 テンションを特に上げたい日に使う特別なメロディーだ。

 まだ耳に残っているそのメロディーを口ずさみながら私は寝静まった街とは対照的に活発に動き始める。

 もうすぐ八重香に会えるという興奮から完全に目は覚めているが、ダメ押しのように熱いシャワーを浴び寝ぐせを整える。

 八重香に会えるまであと三十分。

 胸を躍らせながら急いで髪を乾かしメイクをしているとあっという間に過ぎ去ってしまった。

 まだ私が映っている姿見で最終チェックをすると、覚悟を決めるために小さく呟いた。


「よし、これで大丈夫!」


 今私ができることは全部やった。

 これなら八重香に会っても恥ずかしくないと自分を落ち着かせるとゆっくりと手鏡の位置を調整した。

 昨日は気が付かなかったがゆっくりと私の存在が世界に希釈されていく。

 完全に私が溶け切ったあと誰も映さない鏡の中にひょっこりと八重香は現れた。

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