夜の小捜査線

あそうぎ零(阿僧祇 零)

夜の小捜査線

 父のは、父と同じ年代にならないと分からない、と聞いたことがある。

 僕も同感である。


 僕は、自分が就職して会社の独身寮に移るまで一緒に住んでいた父が、あまり好きではなかった。夜、母と妹、僕の3人で過ごしている時に、勤めから帰った父が鳴らすチャイムが聞こえると、僕は突端に憂鬱になった。


 暴力を振るわれたり、親としての義務を放棄されたりしたわけではない。むしろ、父は家族思いの子煩悩こぼんのうな人だったと、今では思う。

 改めて振り返ると、なぜ僕が父を嫌ったのか、ハッキリとした理由も、きっかけとなった出来事も思い当たらない。少なくとも、今では思い出せない。


 ただ、父は神経質なところがあり、いつもイライラしていた印象がある。おそらく、新聞記者という仕事から来るストレスのせいもあったのだろう。


 また、衛生面で潔癖過ぎるところもあった。

 例えば、荷物を保護するための緩衝材かんしょうざいのひとつに、ポリエチレン製のいわゆる「プチプチ」と呼ばれる製品がある。

 僕が子供のころ、「プチプチ」を指でつぶして遊んでいた。

父「おい、それを潰すのはやめな」

僕「これ? どうして?」

父「そういうものは、どうせ汚い工場で作られている。だから、その小さい袋のようなものの中には、工場の汚れた空気が入っているんだ。潰すと、その不衛生な空気が外に出て来る。人体に有毒かもしれないだろ」

僕「……」

 

 父には、写真撮影くらいしか趣味がなかった。

 若いころ、バイオリンを習っていたと言っていたが、止めてしまったらしい。むしろ、文学や美術などの芸術に価値を見出していなかったふしがある。芸術は、人間が勝手に、言い換えれば主観的に作り上げたものであり、「科学的」ではないからだ。父に言わせれば、絵画よりも写真の方が、対象物をはるかに「正確に」捉えている。


 その点、母の方がずっと柔軟性があった。世界文学全集を揃えていたし、映画や音楽が大好きだった。アラン・ドロンやエルヴィス・プレスリーに夢中になり、ブラザース・フォーという米国の男性コーラスグループも大好きだった。


 そんな母に対して、父が「お前はフラッパーだ」と言っていたのを聞いたことがある。

 フラッパーとは、もとは英語で、「(特に1920年代の)現代娘。しきたりに捉われない奔放ほんぽうな生活態度・服装などで大人たちの顰蹙ひんしゅくを買い、不道徳を非難された」(『リーダーズ英和辞典』による)という意味だ。

 母は子供のころお転婆てんばだった、という話は聞いたことがある。しかし僕の記憶の中の母はとてもつつましやかで、どう考えても「フラッパー」とは思えなかった。あくまで父の主観的基準によるものだろう。


 さて、父は賭け事・勝負事はやらず、浮気などで家庭を乱したこともない。至極真面目まじめ堅物かたぶつだった。ただ、酒は大好きで、しかも滅法めっぽう強かった。

 酒に強いことがあだとなり、泥酔して僕と母を振り回した事件があった。しかも、今でも真相がよく分からない不思議な話なのだ。これから、その話をしたいと思う。


 僕が小学校5年生くらいの時だったから、昭和40年前後のことだ。父は30歳代後半、母は30歳代前半だっただろう。

 なお、僕には4歳年下の妹が一人いるが、この話の中ではずっと就寝中なので、ほとんど登場しない。


 僕たちは、東京都の郊外に位置する、ある市に住んでいた。家は、当時日本中で増えつつあった団地だった。

 父は某全国紙の記者、母は専業主婦だった。

 父は毎朝、一般的な勤め人の通勤時間帯が終わったころ、社名の入った紙袋を一つ持って出勤した。

 出勤時間が遅い代わりに、帰宅時間も遅かった。酔っぱらって帰ることもしばしばで、酒臭い息を振りまく父に、僕は嫌悪感を抱いていた。


 ある夏の日、夜10時頃になっても父が帰らないので、僕たち3人は先に寝ることにした。父は、新聞記者という職業柄タクシー券を自由に使えたため、終電が過ぎても足の心配はなかった。


 僕たちが寝静まったころ、突然家の電話が鳴った。すぐに母が出た。

「はい、はい……。それはお手数をお掛けして申し訳ありません……。はい、はい。『研究所』の正門前ですね? 分かりました、すぐに迎えに行きます」

「ママ、どうしたの?」

 僕は急にともされた電灯の眩しさに目を細めながら尋ねた。 

「パパの会社の人から。お酒をたくさん飲んで、パパはベロベロに酔っぱらっているそうよ。タクシーに乗せて、研究所の正門前で下ろしたから、迎えに来てくれって。正門前の公衆電話からよ。ほかにも送らなきゃいけない人がいるから、タクシーはすぐに次の目的地に向かうって」

「それじゃあ、今すぐ迎えに行かないといけないね」

「そうね。たかし、悪いけど一緒に行ってくれる?」

「うん、もちろん」

 孝は僕の名前だ。妹は桃子ももこという。


 僕たちが住む団地に隣接して、某大手企業の研究所があった。その研究所の正門前は、五差路になっている。父はそこに降ろされたのだろう。

 家からそこまでは、歩いて10分くらいの距離だ。しかし、すでに午前0時を回っている。いくら大人でも、母一人で行かせるわけにはいかない。もちろん、小学生に母を守る力があるか心許こころもとないが、一人よりはましだろう。


「桃子を一人にして大丈夫かな?」

 桃子は小さな寝息を立てて寝ている。

「桃ちゃんはいつも、朝まで起きないから大丈夫だと思うわ」


 母と僕は急いで着替え、ドアに鍵を掛けて出かけた。家に一つしかない懐中電灯は、僕が持った。


 日中は酷暑だったが、さすがに午前0時を過ぎると、大気の涼しさが肌に心地よい。

 道の両側は、ちょっとした緑地や小公園、いろいろな高さの集合住宅のビルが点在していた。家々の明かりはすでになく、街灯だけが淋しく点り、そのまわりを虫が飛び回っていた。


「パパはお酒が強いから、ついつい飲み過ぎちゃうのね」

「僕は、酔っぱらったパパが、あまり好きじゃない。臭いし、しつこいし――」


 研究所の正門が見えてきた。門の脇に立つ公衆電話ボックスが、ぼんやりとした光を放っている。父はその辺りに座り込んでいるのだろう。


 しかし、門の前に父の姿はなかった。

「あれ? どうしたのかしら」

 母の声には、明らかな戸惑いが感じられた。

「どこだろう」

 僕は、懐中電灯をあちらこちらに向けて父を探した。


「ここにはいないわね。歩いてここから離れてしまったのかも」

「酔っぱらっているから、まだそんなに遠くに行っていないはずだね」

 母と僕は、五差路の道路のひとつひとつを、100mくらい進んで父を探した。しかし、父の姿はどこにもなかった。

 仕方がないので、再び研究所の正門前に戻った。


 研究所の正門は自動車が2台すれ違えるくらいの幅があり、鉄製のレール式スライド門扉もんぴで閉じられていた。

 門扉の向こうは林で、道が曲がっているためか奥が見通せず、黒々とした闇が広がっている。街路灯の光だろうか。木々の間から、小さな光がいくつか見えた。林の向こうには高い建物があるらしく、避難用外階段の赤いランプがわびしく点っていた。


「パパ、どこへ行っちゃたんだろう」

 母は困り果てているようだ。言うまでもないが、当時は携帯電話という便利なものはなかったから、父には連絡の取りようがない。

 その時僕の頭に、ある信念のようなものがひらめいた。

「パパは、きっと研究所に入ったんだ」

「え? ここは立ち入り禁止の場所よ」

「そうだけど……、ベロベロに酔っぱらっているんでしょ。僕には分かる。絶対に、門を越えて、中に入っていったんだ」


 実は、この研究所は近所の小学生や中学生にとって、「大冒険の地」だった。研究所の敷地は広大で、周りは万年塀まんねんべい(コンクリートで造られた塀)でぐるりと囲われていた。さらに、塀の上には刺線ばらせん(有刺鉄線)が張り巡らされていた。

 しかし僕たちは、塀が壊れた部分や刺線が途切れている箇所を熟知しており、時々密かにそこから侵入していた。

 構内には緑地や木立こだちがあり、その中にビルが点在していた。僕たち少年は、緑地の茂みに隠れながら用心深く移動し、構内を探検した。


 研究所とはいうものの、職員にはほとんど出会うことがなかった。

 しかし、紺色の制服を着た警備員(当時は「守衛」と呼んでいた)が、時々自転車に乗って巡回していた。これが、僕たちにとっては、スリル満点だった。

 いかにして警備員に見つからずに奥まで進めるか、仲間うちで競っていた。奥の方には、これから研究棟を建て増す予定なのか、地面が掘削され、残土がこんもりとした土山つちやまになっている場所もあった。僕たちは土山に登ったりして遊んだ。


 今から考えると、研究所の構内、それも土木工事現場に子供が入り込むのは、非常に危険だし、事故が起これば研究所の安全管理責任が問われるだろう。しかし、当時は今と比べて、何事にも大らかだった。

 ただ、小学校の朝礼で、研究所に入らないよう何回か注意があったように記憶している。しかし、そんなものでは、僕たちの冒険心を押さえることはできなかった。


「ママ、研究所の中を探そうよ」

 もちろん父を探すことが主目的だったが、頭の隅に夜の研究所に入ってみたいという抑えがたい欲求が湧いてきて、僕は母に進言した。

「でも、研究所の中がどうなっているか、全然分からないでしょ」

「大丈夫。僕は知っているから」

「何ですって? なんで知っているの。さては、入ったことがあるの?」

「まあね」

「ダメじゃない! 先生から、研究所に入ってはいけないと言われていたでしょ」

「……。でも、今はそんなこと言ってられないよ。早くパパを探し出さないと」

「しょうがないわね」

 母も、覚悟を決めたようだ。


 母と僕は、門扉を乗り越えて中に入った。門扉は高さ1mくらいだったから、スカート姿の母にも容易に越えられた。

 僕は懐中電灯で前を照らしながら、正門から湾曲して延びる道路を進んだ。母は不安げに僕のあとに付いてきた。まずは、一番手前にある大きな建物を目指すことにした。

 すると、遠くにチラチラと明かりが点滅するのが見えた。警備員が自転車に乗ってやってくるようだ。

「まずい、守衛が来た。茂みに隠れよう」

「大丈夫なの?」

 母の声は、いちだんと心細そうだ。

「大丈夫。はやく隠れて」

 僕たちは、道の脇に広がる木立に入り、茂みの後ろにしゃがんだ。

 しばらくして、自転車に乗った警備員は、道路を通り過ぎていった。


「道を歩いていると、守衛に見つかりやすいから、茂みに沿って歩こう」

 道路に沿って点在する街路灯から届く弱い光を頼りに、僕たちは緑地の中を奥に向かって進んだ。

 研究所の建物はどれも明かりが消え、人気はまったく感じられない。黒い眼窩がんかのように見える窓が、こちらをじっとにらんでいるようで不気味だった。

 ふと空を見上げると、こずえの切れ間から満天の星が見えた。

 午前0時過ぎに外を歩くのは初めての経験だったためか、妙に気分が高揚してくるのを感じた。もっとも、蚊の格好の餌食になっているらしく、体中が痒くなっていた。


 僕たちは、どこかに父が寝転んでいないか、探しながら進んだ。

「パパ、どこにいるのかね……」

「おかしいな。研究所じゃないのかな」

「今さら何を言ってるの。とにかく、敷地内をくまなく探そう」

 

 やがて、例の土木現場にやってきた。

「あの土山に登ってみようよ」

「随分な急斜面だね。登れるの?」

「うん」

 僕たちは、手をつきながら斜面を登って、土山の頂上にたどり着いた。


「いないねー」

 母は、もはやあきらめ顔だった。

 東の空がうっすらと白んできた。

「ママ、明るくなると見つかっちゃうから、いったん外に出よう」

「そうね」

 僕たちは土山を下りると、元来た道を引き返し始めた。


 すると、またもや自転車の明かりがチラチラと見てきた。こちらに近付いてくるようだ。

 懐中電灯を消して、僕たちは緑地の奥の茂みに身を隠した。


 自転車は、そのまま道路に沿って進み、通り過ぎていくかに見えた。

<キーー>

 しかし、ブレーキの音をさせて、僕たちが潜んでいる茂みに近い場所で止まった。続けて、自転車を後部のスタンドに乗せる音がした。つまり、乗り手は自転車を降りたということだ。

 自転車を降りた人物は、暗闇の中をこちらに向かって歩いてくる。懐中電灯は持っていないらしい。


 僕は茂みの隙間から、その人物を覗き見た。

 警備員の制服は着ておらず、上は白っぽいランニングシャツの肌着、下は白っぽいステテコのようなもの、という恰好だった。

 明らかに警備員とは違う。

 背が高く、ガッシリとした体格の男だ。街路灯の光を背にしているので、顔は暗くてよく見えないが、頭は角刈かくがりのようだ。


 男は、僕たちから20mくらい離れたところで立ち止まった。

「おい、そこに誰かいるんだろ?」

 小声だが、どすの効いた野太い声だ。

 もちろん、僕たちは一言も発しなかった。

「そこで何してるんだ? ここは入っちゃいけない所だぞ」

「……」

「おい、こら! 下手に出てやったのに、つけ上がりやがって! 無事に外に出たいんなら、カネを出せよ」

 男は本性ほんしょうを現したかのように、急に言葉遣いが乱暴になった。

「……」

「おい! 1万円で許してやるから出て来いよ。さもねえと、痛い目に会うぞ。こんちくしょうめ!」

 母が震えているのが分かった。

「出てこねえなら、こっちが行ってやる」

 再び、男の足音が聞こえた。地面の草をったり、小枝を踏んだりする音だ。

 

 母が立ちあがろうとしたので、僕は腕をつかんで制止した。

 男は僕たちが隠れている茂みを回り込んで、近付いてきた。

 男が茂みから顔を見せる刹那せつな、僕は手につかんだ土の塊を、力いっぱい男の顔めがけて投げつけた。

「くそっ! 何しやがるんだよ」

 土が男の目に入ったようだ。男は棒立ちになって、目をこすっている。


 すると、落ちていた太い木の枝を握りしめた母が、茂みの反対側を回って、音もなく男に近付いた。そして、両手で木の枝を握って振り上げると、そのまま男の頭に振り下ろした。

「うっ」

 男はうめき声をあげて、その場に倒れ込んだ。

 母は若いころバレーボールで鍛えている。女の力とはいえ不意打ちをくらえば、倒れ込んでも不思議はない。


 僕たちは、すぐにその場から走り去った。

「こっち、こっち」

 僕は、研究所の塀が壊れていて、少年たちの秘密の出入り口になっている場所に母を導いた。

 そこから出ると、急いで家に戻った。途中で牛乳配達の自転車が見えたので、団地の植栽の陰に隠れて、やり過ごした。


 帰宅すると、妹はよく眠っていた。

「孝、怪我してない?」

「僕は大丈夫。あちこち蚊に喰われたけど。ママは?」

「大丈夫だよ。でも、怖かったね。一時は殺されるかと思ったよ」

「ママ、あの怪物を倒すなんて、すごいね」

「必死だったんだよ。でも、あの人に悪いことしちゃったね」

「僕たちを脅かしてカネを巻き上げようとしたんだから、ざまー見ろだ」

「そうかなぁ」

 僕たちは汗だくで、体中蚊に刺された痕だらけだった。


「それにしても孝、パパはどこに行ったんだろうね」

 思い出したように母が言う。父のことは、二人の頭から吹っ飛んでいたのだ。

「疲れたから、ひと眠りしようよ。それでも帰って来なかったら、警察に捜索をお願いするしかないね」

「うん」

 これまでも、父が明け方に帰宅したことがあったので、それほど心配はしなかった。


 夜を徹した捜索のため、僕たちがぐっすり寝ていたところに、電話のベルが鳴り響いた。すぐに母が出た。

「え! パパなの? 今どこ。ずいぶん探したのよ」

 僕も電話の近くに行って、成り行きを見守った。

「何ですって! それ、どういうことなの?」

 母は何やら混乱しているようだ。

「タクシーに乗せて来たので、研究所前で下ろすっていう電話があったのよ! だから、孝と二人で散々探したのに――」

 混乱から憤りへと変化しつつあるようだ。

「電話してきた人の名前? 早口だったからよく聞き取れなかったわよ。会社の同僚と言ってた」


 しばらく言い合っていたが、電話ではらちが明かないので、いったん電話を切った。

「パパ、どこにいたの?」

「会社だって」

「なにそれ。どういうこと?」

「私にも分からないわよ。ゆうべ会社の人と飲んでいたけど、飲み過ぎで途中から記憶がないんだって。気が付いたら、会社の宿直室にいたそうよ。一緒に飲んでいた人が、会社まで連れて行ってくれたらしいわ」

「それじゃあ、ゆうべの電話は何だったの?」

「パパにも分からないって。とにかく、今日は仕事が済んだらまっすぐ帰ってくるって。しかし、パパも何やってんだか。いい加減にしてほしいわ」

「でも、無事だったんだから、よかったじゃない」

 嫌いな父ではあったが、無事だと聞いてほっとした。しかし、父が酔って母に心配をかけたことには腹が立った。

 もっとも、研究所に入ることを母に勧めたのは僕だった。しかも、深夜の研究所に入って、「怪物退治」までできたのだから、僕としてはあまり父を責める気にはなれなかった。


 その後、父から色々話を聞いたが、誰があの電話をかけたのかは、結局謎のままだった。父に含むところのある何者かによる悪だくみだったのか? それとも、母をおびき出そうとしたやからがいたのか? あるいは単なるイタズラ電話だったのか?


 母が打ち倒した男がどうなったか、しばらくの間ビクビクしながら、近所の噂や報道に注意していた。

 しかし、研究所で傷害事件があったという話はまったく伝わってこなかったので、母と僕は安堵あんどした。なお父には、研究所周辺を方々探し回ったことは話したが、二人で研究所の中に入ったことやそこで起きたことは黙っていた。話せば神経質な父がどう行動するか、予測が付かなかったからだ。


 母は、80歳になる少し前に脳卒中で倒れ、一回も自宅に戻ることなく、8年間の闘病の末に亡くなった。

 母が倒れた後一人暮らしをしていた父は、僕の自宅から車で10分くらいの場所にある老人ホームに移った。85歳になっていた。

 僕は結婚後、実家には1年に1回くらいしか戻らなかった。だから、父と話す機会も、ほとんどなかった。しかし、父が老人ホームに入居してからは、月2回妻と一緒に面会に訪れた。それに伴い、父と話す機会は、それまでに比べて格段に増えた。


 晩年の父はすっかり丸くなり、神経質でカリカリしていた若い時とは別人のようだった。悟りを開いた仙人のように、物欲も金銭欲もきれいさっぱり洗い流して、穏やかに暮らしていた。


 ある日の面会時、「泥酔事件」を持ち出してみた。

「僕が小学生の時、泥酔したたパパを研究所の前までタクシーで送るという電話があって、ママと僕が真夜中パパを探し回ったことがあったよね。覚えてる?」

 父は、遠い昔の記憶を手繰たぐりり寄せるような表情をした。

「泥酔? 研究所? そんなこと、あったかな。昔はしょっちゅう酔っぱらってたから……」

 苦笑する父の顔を見て、いい表情だと思った。

「そういうことがあったんだよ。その時、僕とママは、パパを探して研究所の中に入ったんだ。妙な男が襲ってきたけど、ママが木の枝で打ち倒した」

「ほー。そうか」

 父のまなざしは、壁に掲げてある母の写真に向けられた。


 父はある日の午後、ホームの居室で心肺停止しているところを発見され、救急搬送先の病院で死亡が確認された。死因は急性心不全で、94歳だった。その日の昼食は、介助なしで全部平らげていたそうだ。

《完》


 

 

 

  

 

 

 




 

 



 


 

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