腑に落ちぬ思い─②
「い、いえ……何でもないです」
佐川先輩の視線から避けるように、譜面台にぶら下がったペンをじっと見つめる。信じきっていない気配を感じる。
「そうか」
先輩は意外にもそれ以上問わなかった。ユーフォを抱きかかえ、今回の楽曲の中で俺が一番好きなメロディを奏でる。
「さて、今日言われたとこもう一回やろう」
吹き終えてマッピから口を離した先輩はニッと笑った。その明るさにつられて俺も口元を緩ませた。
「はいっ」
返事をして椅子に座る。そしてさっき楽譜に書き込んだ場所を指を動かしながら確認した。
「やっぱり田中がいないからなあ。もっと大きく吹けたりしないか?」
先輩の要求のような問いに俺は思わず苦笑う。
俺の音は小さい。どんなに息を込めても、どんなにお腹に力を入れても、田中先輩のように綺麗な音色を維持しながら吹くことはできなかった。先輩はいつでも感情が乗った音を奏で、大きな音でも他の音をかき消すこともない。いつも隣で褒められる先輩に劣等感を抱かずにはいられなかった。
……それなのに。
俺はぐぅっと唇を噛み締めた。
田中先輩はなぜ部活を辞めたのだろう。
遅刻や欠席はしているが、面倒臭そうな様子は一度も見なかった。むしろ部活中はとても楽しそうだった。
先輩はまるですべてを解放するかのように、その曲の主役のように、伸び伸びと歌う。胸を張って吹く様は明るく輝いていて、重いチューバがとんでもなく軽そうに見える。
そんな先輩が、先輩の創るあの音色が、俺は大好きだった。
やっぱり納得いかない。田中先輩がこの場所からいなくなりたいと思っているはずがない。もしかしたらここに居場所なんてないと勘違いしてるだけなのかもしれない。それなら俺たちが居場所はここだと、ここしかないんだと伝えてあげよう。
俺は演奏を中断して立ち上がろうとチューバを持ち上げた。しかし、佐川先輩がそれを制す。
「なにしようとしてるのか知らないけど、やめた方がいいよ。一時の感情だけで行動しちゃだめだ」
先輩の
「……それから、今蒼汰はやるべきことがあるだろ。今しようとしてたことは、絶対に今やらなきゃいけないことか?」
佐川先輩は全部知っているのだろうか。そのあとも先輩すべてを見抜いたような口調で俺を諭した。
「本番まであと一週間もないんだ。今はこっちだけに集中してほしい」
「……はい」
顔が熱い。目の前に本気で取り組まなくてはならないものがあるのに、俺は何を考えていたんだろう。
「大丈夫。そのあとでも遅くないはずだよ」
佐川先輩はにこっと笑って慰めるように俺の頭を撫でた。
「佐川くん!」
猫撫で声が聞こえて振り向くと、山崎先輩が手をちっちゃく振って佐川先輩を手招いている。視線を佐川先輩に戻すと、山崎先輩を半ば睨むような目つきにぞっとした。
表面は好意的なのに、そこにどことなく敵意を感じる。
「佐川先輩……?」
俺が蚊の鳴くような声で呼びかけると、佐川先輩はまた優しい笑顔に戻った。
「ごめん、行ってくるわ。ひとりで練習してて」
そう言ってそそくさと教室を出ていく。
俺は佐川先輩が誰を好きなのか悟った。それが分かった途端、さっきの田中先輩の表情に急激な説得力を感じる。
佐川先輩が思いを寄せている人は──……
俺はそこで首をぶんぶんと振った。
知らないフリをしよう。そのほうがきっと、みんな幸せになれる。
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